前回の疑問から
中道さん:「自分史」のインタヴューも、これで4回目。今回は、先生が大阪府立大学から関西大学に移られ、オギュスタン・ベルクに出会って、風土学へと舵を切られた、そのあたりのお話を伺いたいと存じます。年代で言うと、関大に転出された1997年から、風土学最初の著書『風景の論理』を刊行された2007年までの約10年間、という枠になります。それで、さしつかえないでしょうか。
直言先生:結構です、それでお願いします。
中:前回のお話の中で、特に印象に残っているのは、個人研究と共同研究を両立させるのが、哲学の役割だとおっしゃったことです。私などは、そうか、そういうものなのかと受けとめたのですが、猛志君は、個人研究の方向が固まっていないのに、共同研究なんてできるのだろうか、という疑問を提起された。そうでしたね、猛志君?
猛志君:ええ、おっしゃるとおり。大阪府立大では、学部横断的な「地球環境危機と現代世界」というリレー講義を組まれた。でも、その時点では、先生はまだ現在のような風土学の立場ではなく、環境倫理学に沿った講義をされていたとのこと。失礼ですが、個人としての研究が未完成なのに、多分野の人と組む共同研究が、きちんと組織できるのだろうか、というのが僕の感じた疑問です。
直:とりあえずお答えするなら、個人研究がどれだけ進んでいるかを二の次にして、衆知を集めるべき状況が目の前にある。そういう切迫感とともに、後先を考えることなく、共同研究のプロジェクトを立ち上げたというのが、当時の状況でした。その意味では、共同研究が先行して、個人研究の方は後回しであった、両立していなかった、と申し上げなければなりません。
中:ということは、共同研究が先行して、ご自分の研究が後回しになった。そういう問題点に気づいたことが、関西大学に転出されたきっかけである、と。そう理解しても、よろしいでしょうか。
直:転出にはいろんな事情が関係していて、とても一言では説明できませんが、そういう理由が一つあったかもしれません。勤務する学部が、府大の場合は「総合科学部」であったのに対して、関大は「文学部」。専門に関する個人研究を看板にするところですから。
中:学部の性格が異なるからには、先生に期待される役割も変わってくるのではないでしょうか。移籍されてからのポジションは、どういうものだったのでしょうか。
学部改革の旗振り役
直:ポジションと言えば、転出前の所属は、大阪府立大学総合科学部人間科学コース。関大では、文学部哲学科というもので、〈総合〉を謳うコース制から、専門的な学科制の組織に所属を転じたわけです。
中:コース制から学科制へ、ということになると、雰囲気は相当変わったことでしょうね。
直:コース制の府大が、私の辞める頃は、学科制に移行することをめざしていました。辞めた後、「人間科学コース」が「人間科学科」に名称変更されたのに対して、関大の方は、昔からの学科制を変える方向を模索した結果、移籍後しばらくして、コース制に移行しました。という次第で、ちょうど双方がまったく対照的な方向に動いている現場に、私は立ち合いました。
猛:僕は、現在のコース制しか知らないので、それ以前の学科制と何が違うのか、よく分かりません。制度を変えなければならない理由が、何かあったのですか。
直:ええ、理由は大ありでした。学科制だと、受験の際に希望する学科を届け出ます。8つある学科に、希望順位をつけるわけです。ですから、合格しても成績によっては、第二志望以下の学科に回されることがよくあります。そういうケースでは、「不本意入学者」が学習意欲をもてないまま、授業に出なくなるとか、中途退学するといった例も、しばしばありました。これを何とかしないと、学生の不満は解消されない。ということで、入学時に所属を決定することなく、入学後一年経った時点で、学生各自の希望を訊いてコースに振り分ける、という方式が導入されたのです。
猛:それでも、特定のコースに希望者が集中すると、そこに入れない学生から不満が出そうに思うのですが。
直:ええ、そのとおりですが、この場合は入学後の成績を判定材料にするので、第一希望のコースには入れなくても、「自業自得」ということで、あきらめがつく。学科制の場合のように、入学時点で運命が決まるのではありませんから。
中:そういうことですか。すると先生は、学部改革の渦中にあった関大に転職された、と。そこで何らかの役割を務められたのでしょうか。
直:移籍した翌年の1998年に、「将来構想委員会」の委員長という役職を仰せつかりました。府大でいろいろやっていた実績を買われた、というところでしょうか。改革のためのノウハウをご存じない方々に、何をどうすればよいかを伝授することが、新入りの私に期待された役回りであったと思います。
中:で、どんなことをやられたのでしょうか。差し支えなければ、お聞かせください。
直:まず、学生の不満をアンケートすることから始めました。何が不満かを記入させたところ、「せめて自分の親父くらいの年齢の教師に指導されたい」という回答があって、笑いました。当時、教員スタッフの平均年齢が異常に高かった関大の実情を物語ります。そのほか、ゼミなどの驚くべき内情を告発した後に、このことが関係者に知れたら、卒業できなくなるかもしれない。自分の場合、卒業できることが確定したので、これを書いたという、生々しい声もありました。
猛:関大にそんな時代があったなんて、僕には想像ができません。学生の不満が渦巻く関大に来られて、先生はどういうことをされたのですか。
直:アンケート結果を報告書にまとめることと並行して、学部改革の実働部隊に入り、「インターディパートメント」(略称インディパ)というものを立ち上げました。それは、文字どおり学科の壁を越え、学生が自由なテーマを研究できる場所を保障する、という狙いからでした。インディパが担った役割は、当時の学科制に対する不満を吸収することで、やがてコース制に移行するための橋渡しとなったことです。
出会いと別れ
直:「学科のあいだ」を意味する「インターディパートメント」では、学生が所属学科にとらわれることなく、関心のあるテーマを自由に選んで、研究することができます。教師は学生と相談して、それぞれの学生に合った「個別メニュー」をつくるよう支援する。これは、お仕着せのカリキュラムを消化して、ただ卒業に必要な単位を揃えるだけ、といった学生生活を一変させるものでした。
中:現状に不満があって、何とかしたいというやる気のある学生なら、それに飛びつくということですね。学生は大勢集まりましたか。
直:私が担当した「ヒューマンサイエンス・コース」は、2000年に、各学科から集まってきた20数名の2年生を相手にスタートしました。その人たちに、3年次以降2年間のプログラムを提供するという役目を、文学部の同僚だった尾崎ムゲン先生(教育学科)と分担しました。
中:そのお名前を初めて聞きました。尾崎先生は、どういう方ですか。
直:カタカナ表記で「ムゲン」という変わったお名前、学生はいつも「ムゲン先生」と呼んでいました。教育学史がご専門でしたが、そういう専門よりも、一人一人が自分のしたいことに全力で取り組むボランティア的な生き方、NPOやNGOとして活躍できる人材を育てたい、という志をお持ちの方で、誰よりも情熱的なその人格は、学生から慕われていました。
中:ほう、尾崎先生がそういう方だとすると、先生はご自分と似た性格の方と「同志」になられたのか、という気がします。
直:中道さんならお判りでしょうが、似た者同士ということで、必ずしもうまく行くとはかぎりません。コースの運営をめぐって、衝突することもしばしばあったし、ケンカもよくしました。
猛:そういう経験が僕にはないので、よく分かりませんが、衝突した場合、どういうふうに問題を解決するのですか。
直:ムゲン先生は、私より10歳ほど年長、それだけ大人でした。コースの方針をめぐって対立したときなど、自分は一歩下がって、こちらを立てる。そうした後で、次の機会にご自分のやり方を相手に受け容れさせる、という流儀を通しておられたようです。
中:そうですか。そういう方との〈出会い〉をつうじて、これだけは忘れられない、というような出来事はありましたか。
直:思い出はいっぱいあり過ぎて、これだけは、というのはなかなか…… 一つマジメな話題を挙げると、こういうことがありました。2002年度の在外研修が決まっていた私に、尾崎先生は帰国後の相談を持ちかけられた。ヒューマンサイエンス・コースに命を懸けておられた先生は、自分はもう既存の学問に戻るつもりはないと断った上で、俺と一緒に旅に出ようじゃないか、と股旅物のセリフのような一言をおっしゃった。当時、2年がかりで最初に担当したクラスの全員を卒業させた後は、元の哲学科に戻ろうと考えていた私は、そういうつもりはありません、と返事しました。つれない答えに、先生が落胆されたことは、お察しがつくでしょう。先生をガッカリさせたことの埋め合わせができなかったことは、私の人生に大きな傷となって残っています。
猛:お訊ねしたいことが、二点あります。一つは、どうしてそのときに、尾崎先生の誘いを断られたのかということ。もう一つは、そうしたことの埋め合わせが、なぜできなかったのか、ということです。
直:細部を省いて、簡単にお答えします。一点目の答えは、その頃の自分にとっての本領は「哲学」であって、インディパではないと考えていたことです。オギュスタン・ベルクのもとで在外研修を終えた後、古巣に帰ってキチンとした研究をやり直したい、というのが当時の私の思いでした。もう一点については、留学中のパリで先生の訃報に接したと言えば、理由はお分かりでしょう。いかに悔やんでも、おのれがしたことの埋め合わせがつかない状況に立たされたわけです。
中:そのときの思いを、差し支えのない範囲で語っていただけないでしょうか。
直:第一期生を送り出して在外研修に赴いた私は、自分の責任を果たしたつもりで、気楽な身分でした。しかし、ムゲン先生は、第二期生の指導はもちろん、コースの運営全般、さらに教育学科の授業まで、すべて他人に頼らず、一人でこなしておられた。超人的な負担を自身に課されていながら、不平不満を口にされたことは、いちどもなかった。そのツケが回って、こちらの出発直後に、死病に襲われた。それに比べてこの俺は、異国でいったい何をしているのか……たまらない気分でした。
中:そういう思いの中で、どうしようとされたのですか。
直:すぐ帰国して、残された学生の指導など、必要なケアを行うか。それともパリにとどまって、研究を続けるか。二つの道がありましたが、後者を選びました。先生からの要請を蹴って留学した以上、自分のめざす学問を築き上げることだけが、先生に対して自分のできる唯一の恩返しだと、心に決めたからです。その道が正しかったかどうか、泉下の尾崎先生にご判断を仰ぎたい、と今も思っています。
風土学との〈縁〉
中:背筋が伸びるお話を伺いました。ここからは、パリで過ごされた一年間について、お訊ねしますが、よろしいでしょうか。
直:結構です。2002年度の一年間は、私の学問を風土学の方向へ一気に転じるはずみとなりました。
中:それは、当然のこととして、ベルク先生に師事されたことから生じた結果だと思われるのですが、そういう理解で間違いないでしょうか。
直:そのとおりですが、正確を期して言うなら、ベルク先生から風土学について直接教えられたというよりも、パリという環境の中でいろいろ体験したことをつうじて、自分のやるべきことの方向性が定まっていった、ということです。
中:いま「方向性」とおっしゃったのは、ご自分の風土学に向かわれた、という意味にとってもよろしいでしょうか。
直:ええ、おっしゃるとおり。ベルク先生の講義に出たり、先生の主宰されるイベントに参加するうちに、自分のやらなければならない課題が次第に判ってきた、ということです。
中:くどいようですが、その課題は、ベルク先生の風土学を踏襲するということではなく、先生ご自身の風土学を開拓していく、ということですね。
直:途中のプロセスを省略して、結果だけを言うなら、そういうことになります。というのも、ベルク風土学のキチンとした理解を前提にしなければ、自らの風土学などというものを口に出すのは、おこがましいかぎりですから。
猛:僕の印象からすると、先生がベルク風土学との違いを自覚されたのは、帰国後に出された『風景の論理』(2007年)からじゃないか、という気がします。というのも、その中では、「原風景」をめぐって、ベルク風景論との考え方の違いを表明されているからです。
直:さすが猛志君、よくぞ指摘してくれました。日本に戻って5年後、最初の著書である風景論の中で、それまで具体化できなかったベルク先生との立場の違いを、ようやく言語化することができました。それが、「原風景」――ベルク先生の著書では「元風景」――についての議論です。
中:そこに話をもっていく前に、パリ留学中のことを、もっとお訊ねしたいと思います。ご自分の学問を切り拓くための前提は、ベルク先生の風土学を正確に理解することであった、と。しかし、それだけでは済まされない、というお考えが留学中に生まれた。そのように考えても、よろしいでしょうか。
直:重要なポイントを思い出させていただきました。私の学問的スタンスを決定づける大きなきっかけが、パリ到着早々にありました。
中:それは、先生にとっての〈邂逅〉といった出来事でしょうか。でしたら、ぜひそのことをお話しください。
直:承知しました。私の学問にとって貴重な転機となったのは、〈西田哲学との出会い〉です。
猛:チョット待ってください。先生は若いころから、西田哲学に関心をもって、本を読んでこられたと伺っています。それが、フランスに来て、西田哲学と出会ったというのは、どういうことでしょうか。意味がよく解りません。
直:私が出会ったのは、「パリの西田哲学」です。その題で、エッセイを書いたこともあります。講義の形式でご説明しましょう。
講義――パリの西田哲学
2002年の三月末、留学先のパリに着いて早々、まだ下宿先も決まらない時点で、西田哲学についての研究会があることを、教えてくれた方がいました――上原麻有子さん(現京大教授、当時ベルク門下の博士課程学生)。それから三日もしないうちに行われた「西田研究会」には、パリと周辺に住む日本人研究者――フランスで教職に就いた人たちを含む――を中心に、フランスやそれ以外のヨーロッパに暮らす相当数の外国人研究者が参加。その会では、前半で西田幾多郎など日本人哲学者についての研究発表が行われ、後半で西田の「場所」論文をフランス語に翻訳する検討会が開かれていました。
パリで西田哲学の研究会!そのこと自体よりも、内容に驚きました。まだ若いフランス人研究者が、西田門下の左派として著名な戸坂潤による「無の論理」批判を取り上げ、その内容を克明に紹介するのです。それも、若いフランス人学生が、「戸坂潤」や「無の論理」をチャンと日本語で板書しながら――それって当たり前か!?――、日本語のテクストに沿って京都学派についての研究成果を発表する。そんな現実は、日本にいたときにまったく想像できませんでした。しかし、それは当方の認識不足。ベルク氏が所属していたEHESS(フランス国立社会科学高等研究院)の「日本研究所」(CRJ)では、フランス人が日本語の文献を一次資料として、日本文化のさまざまなテーマに取り組んでいました。日本研究のテーマの中には、「江戸時代の加賀前田藩の財政状況」といった、日本でもめったに接することのないレア物が含まれていました。何で、そんなテーマを研究するの?戸坂についての研究を発表した学生に、そういう疑問を発したとき、これまで手がけられたことがないテーマだから、というふうな答えが返ってきたように記憶します。何のために、日本を研究するのか?――研究者としての主体的な関心の所在を訊き出したかったこちらにとっては、肩すかしの反応でした。
それにしても、なぜパリで西田哲学なのか。そういう思いを私と共有する方も、なかにはおいででしょう。それに対して、ことが哲学なのだから、研究対象がデカルトでもカントでも西田でも、別に構わないではないか、というのはたしかに正論ですが、それは歴史的文脈を考慮しない答えである、と言わざるをえません。明治初期に西洋からphilosophyが入ってきて、それを日本の精神的伝統とすり合わせる過程をつうじて、日本ならではの「哲学」が生み出されていった。そういう日本「哲学」の代表者が、西田幾多郎です。その哲学を、なぜ何のために、逆輸入する必要があるのか。それは、訊かれた当事者ごとに、違った答えを引き出す体の疑問と言えるでしょう。初めて参加した門外漢として、メンバーの心中を忖度してみると、たぶん以下のようになるでしょう。
西洋在住の日本人研究者にとって、西田哲学は最初から関心の中心にあったわけではない。「パリの日本人」にとって、留学した第一の目的は、先進的なフランスの学問文化を学ぶこと以外にはない。しかし、異国の文物や人間と付き合ううちに、遅かれ早かれ、自分は何ものなのか、何のためにここに来ているのか、を自問しなければならなくなる。〈他者〉と出会うことによって、〈自己〉の存在を問い直さなければならなくなるのです。〈他者認識〉と〈自己認識〉とがセットになって、それも疑問形で浮かび上がるのが、〈邂逅〉(出会い)である――このことは、留学後にいろいろ考え進めるうちに、思い当たった事実です。
フランスほかの外国人研究者についても、いま述べたことと裏返しに、同様の事実を指摘することができます。世界に冠たる西洋近代文明。しかし、西洋の指導的地位がかげり行く
現在、おのれの存在を問い直すために、他者の〈鏡〉を必要とする状況が生じています。西田哲学は、西洋を手本とする一方、それに日本や東洋の精神的伝統を重ね合わせた、いわば哲学的ハイブリッド。西田哲学のように、東西文明の〈出会い〉を象徴する日本人のテクストを読み込むことが、西洋の主体にとってもまた、〈自己発見〉と〈他者発見〉とを兼ねる意義をもつのです。西洋文明圏の人々にとっても、西田研究会に参加することが、貴重な〈出会い〉の機会になっていたことは、確かだと思われます。
一年間の研究期間中、西田研究会には勤勉に参加しつづけ、帰国前には自身の研究発表までさせてもらいました。テーマは、「西田哲学の批判者・九鬼周造」。帰国してから、「九鬼周造と西田幾多郎――邂逅の論理」と改題して、日本語で発表しました。いま振り返れば、風土学への方向転換を決定づけたのは、ベルク先生からの影響は言うまでもなく、パリ滞在中の人々との〈出会い〉、わけても西田研究会との〈邂逅〉であった、ということができます。
新たな方向へ
中:留学中に経験されたことの中から、西田研究会のエピソードを選んで紹介されました。
お話を伺っていると、それが非常に重要な〈出会い〉であった、という感じが伝わってきます。先生は、そこから〈邂逅〉というテーマを考えつかれた、と理解してよろしいでしょうか。
直:留学中というより、帰国してから数年間、留学中に経験したことの意味を反芻するうちに、〈邂逅〉というテーマが具体的に浮上してきました。『風景の論理』(2007年)の刊行を手はじめに、『風土の論理』『邂逅の論理』と続く三部作の計画が、徐々に具体化していったのです。
猛:西田研究会が、西田研究会の人々との〈出会いの場〉であったというお話は、よく解りました。でもそのことと、〈出会い〉自体が哲学のテーマになるということとは、違うと思います。どうして、〈邂逅〉という問題が、先生のライフワークのテーマになったのか、そのあたりについて、少し説明していただけませんか。
直:急所を突いたお訊ねです。キレイごとを避けて率直に申し上げるなら、留学中に経験した数々の違和感が、自分の考えるべき問題を指し示したということです。違和感というのは、海外に滞在ないし居住した日本人であれば、誰もが体験する「差別」のことです。と言って、一年間の滞在中に、私が文字どおりの差別待遇を受けたということはありません。三色旗の表現する「自由・平等・博愛」を理念に掲げるフランス人であれば、日本から来た異邦人に「差別」と受けとられるような振る舞いをすることは、まずありません。
中:割り込んで失礼ですが、先生がおっしゃるのは、差別的な行為ではなく、差別的なまなざし、ということでしょうか。それでしたら、海外に駐在した私にも、いろいろ覚えがあります。
直:そうです、そのことです。タテマエとしての平等とは違った、皮膚感覚的な差別意識は、どれほど友好的な相手からでも感じとることができます。強いて言語化するなら、「オレたちとオマエとは、違う人間だ」とでも言い表したくなるような微妙なメッセージが、こちらに伝わってくる。在外生活を経験した中道さんなら、そのあたりの感じは、よく承知されていると思います。
猛:チョット言わせてください。僕は海外に留学したこともないし、外国人と深く付き合った経験もありません。でも、自分とは違った風土で育った人に対して、何かしらの違和感を抱くことは、ごくふつうのことではないでしょうか。明らかな差別行為がないかぎり、そういう違和感にとらわれる必要はないと思うのですが。
直:おっしゃることはよく解るし、正論だと思います。たがいの違いを認め合いながら、対等の付き合いができる関係。それは「差異」の立場であって、「差別」には当たりません。しかし、一方が他方より上位に立つ優劣関係が成立している場合、対等同格の人間同士として出会うことは難しい。政治や経済でも、文化の世界でも、力をもつ側が上位に立つ権力構造が支配するかぎり、対等な主体同士の〈出会いの場〉は開かれない。どうしてそうなるのかを考えることから、〈出会い〉というテーマが浮上してきたのです。
猛:哲学のような学問の世界にも、先生がおっしゃるような「権力構造」が存在するのですか。
直:誤解を招かないようにお断りしますが、研究者個々が、権力を意識して行使する場面に立ち会ったことはありません。ベルク先生はじめEHESSのスタッフや、私の知るかぎりのフランス人研究者は、友好的で親切そのものでした。ベルク先生など、多忙な時間を割いて、私がはじめて書いた下手なフランス語の論文を、一字一句ていねいに添削してくださったほどです。
猛:それだったら、どうして対等な〈出会い〉が成立しないとおっしゃるのか。ますます意味がよく解りません。
直:それは、君が〈出会い〉をパーソナルな一対一の局面だけで考えているからです。〈出会い〉〈邂逅〉には、個人の水準を超えた出来事、〈文化と文化との衝突〉という意味があるのです。
中:パリ留学をめぐる今回のインタヴュー、最大の山場になってきた感じがします。猛志君が納得するような具体例を、何か挙げていただけないでしょうか。
直:たとえば、猛志君が将来ドイツに留学する機会が生まれるとします。当然、留学する目的があるはずです。それは何でしょうか。
猛:カントを研究している僕としては、向こうの最先端のカント研究を学ぶつもちです。
直:そうでしょう。それが、近代化の始まった明治以降、日本の学生・研究者が、例外なくとってきた選択です。君が同じことを考えるのも、無理はありません。
猛:いまのおっしゃり方では、西洋に留学する目的が、それでは具合が悪いと考えておられるように聞こえます。いったい何が問題なのですか。
直:先ほどから議論している対等同格な〈出会い〉が、それでは成立しないからです。西洋に留学して、先進的な文化を学ぶ。それだけなら、教える側(西洋)と教わる側(日本)との、一方的で権力的な関係だけが成立する。教え合い、学び合う、といった形の〈対話〉を生まない構造が、固定されるでしょう。そうなることを防ぐために、〈出会い〉と〈対話〉の意義を根本から考える哲学が必要になるわけです。
中:ここまで、パリ留学によって、〈邂逅〉というライフワークのテーマを考えられるようになった事情を語っていただきました。そこから現在に至るまでの歩みを、次回に伺うことにしたいと存じます。
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庭の朝顔がきょう咲きました。朝顔もいろいろな種類があって昔の少し弱弱しい朝顔のほうが好みです。琉球朝顔は 成長いちじるしく炎天下でも
真っ青なスカイブルーの大輪の花を咲き乱れるぐらいにさかせます。やはりあついところの朝顔は 古くからある江戸花火のような朝顔とこうもちがうものだと感じました。
人間もおなじようなもので 生まれや育ったお国柄 環境 文化 時代によって 同じものはなく そうした人と人の出会い 人とモノの出会いは 文化と文化の出会いになって、出会いと別れを繰り返すなかで その関係を見直す視点 新たな視点がうまれてくるということを 南海先生は述べられてるのだと思いました。
きびしい真夏に勢いよく咲き誇る琉球朝顔より 朝にさいて 淡い水色やピンクの花をさかせては夕方にはしぼんでしまう はかなげな昔から目にする朝顔になぜこころひかれるのか?
やはり根底には仏教的なもののとらえ方が私たちには流れているのではないか
もし西洋人が朝顔をみたら きっと真夏に咲き誇る成長たくましい琉球朝顔をきれいだというかもしれない。
今は亡きムゲン先生の無限 夢幻 と不思議な名前に 庭に咲いた一輪の朝顔の花が重なって 夏の日の夢を見た気がしました。
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紫陽花、菖蒲、朝顔など、この時季ならではの花々に迎えられる日本の夏。自分と同じように目前の花を眺める人々が、よその国にもいるのだろうか…… 留学中に、そういう感慨を抱いたことがあります。「木犀のほのぼの匂ふ故郷を秋の晴るれば恋しとぞ思ふ」(九鬼周造「巴里心景」)。日本では十月初めに香り立つキンモクセイが、同じ香をパリでも漂わせていることに寄せた、望郷の一首。パリ近郊、ブーローニュの森にワラビが群生していることを知って、日本人が採りに押し寄せているという噂も、留学中に聞きました。
異国で暮らすことは、他所者である自分にしか感じられないものがあることを知り、そのことをつうじて、その土地に住む人でなければ分からないことがあるのだ、と知ることです。同時に他者を知り、自分を知るということが、風土の体験だということです。豪傑君も、私と同じような感じ方を体験されているということが、よく分かりました。