「二元論とは何か」という問いに対する内容豊かな反省が、お二人から提出されるのを、感嘆して読んでいます。当方、こういう場では大雑把な説明で済ませる習いがあり、このトピックについても、若干の卑見を呈するにとどめます。
1)二元論批判の意図:私の意図は、「二元論とは何か」を究明することではありません。〈あいだを閉ざす〉近代合理主義の根幹を、「二元論的思考」に認め、その由来がプラトン以来のフィロソフィア(哲学)にあるという見当をつけ、古代から現代に至る西洋思想が、二者を弁別する「ロゴス的論理」=二元論にもとづく、という図式を立てたのです(すべて、山内得立からの示唆による)。そういう大雑把な括りを立てるのは、「敵」の旗印を見定め、その本陣にひたすら迫るための便宜として、です――大坂夏の陣で、家康の本陣に真田幸村が突入したように。なぜ、いかなる意味において、それが「敵」なのか、という点については、より新しい大竹太郎さんのコメントに対する意見として、いずれ説明します。
2)零の意味:昔、吉田洋一『零の発見』(岩波新書)という名著がよく読まれました。零の発見が、インドだかアラビアだか非西洋世界で起こったという事実は、きわめて重要な歴史的意義をもつと考えます。これは以前、ロゴスとレンマの線引きが簡単ではない、という文脈で、大学院講義「都市の風土学」に参加されていた土屋隆生さん(投稿者)から伺ったポイントです。遺憾ながら、それ以後、当方はゼロについて考える機会をもたないまま、今日に至りました。
3)「空」の理念:現時点で申し上げられるのは、私の風土学がどれだけ世の中に寄与できるかが、「空」の理念にかかっている、ということだけです。それは、二元論を肯定し、かつ超える、という二重の手続きが、「空」によって可能になるだろう、ということです。ロゴスとレンマの対立および統合のカギが、「空」――非の地平――にあるということを、最後(?)の著書『瞬間と刹那』で論明したいと考えています。