毎月21日更新 エッセイ

30年代の哲学者(2)――田辺 元

西田から田辺へ

中道さん:前回、「30年代の哲学者」として、真っ先に西田幾多郎が取り上げられました。西田哲学が「無の論理」であるということや、それと「弁証法」との関係を論じられました。難しい話でしたが、「無の論理」は弁証法にはなじまないということをおっしゃったのが、印象に残っています。その続きとなると、今回のテーマは誰の哲学になりますか。

直言先生:弁証法の立場から西田を批判することによって、西田を弁証法に改宗させたのは、田辺 元(たなべ・はじめ)。田辺の哲学を代表する「種の論理」を紹介したいと思います。

猛志君:「日本哲学史」の講義では、西田と肩を並べる存在として田辺の名前がよく挙げられます。しかし、その割には、「田辺哲学」が一般向けに紹介されることは少ない感じがします。一言でいうと、どんな哲学なのでしょうか。

直:西田哲学のモチーフは〈無〉の問題。「無の論理」は生涯をつうじて一貫したテーマです。それに匹敵するようなキーワードが田辺にあるかと言えば、自信はないけれども、たぶんないと思います。若いころから晩年に至るまで、いろんな方面に関心を向け、発表された業績はヴァラエティに富んでいます。そういう彼の歩みを一言で要約するようなことは、無理があります。

中:私のような素人向きに、田辺のプロフィールを示していただけないでしょうか。

直:では、ごく簡単に。田辺元(18851962)は、東京神田の生まれ。東京帝大で最初数学を専攻したが、のち哲学に転向、数理哲学・科学哲学の草分け的存在となる。最初、東北帝大で教えていたが、西田に乞われて京都帝大に転任し(1919年)、その下で助教授を務める。その当時までとっていたカント哲学の分析的な論理の立場から、やがてヘーゲル的な弁証法に転じ、「西田先生の教えを仰ぐ」(1930年)で激しく西田を批判する。弁証法をめぐる両者の対立は、それ以来長く続いた。西田の後任として、戦前の時局の中で構想された「種の論理」は、国家に対する個の役割を規定するその内容から、結果として戦争遂行に若者が加担するはずみを与えた。「種の論理」は、その後も発展して、戦後、「懺悔道の哲学」に結実する。略歴としては、ざっとこのぐらいでしょうか。

中:うかがっていて、いろんな問題があるように感じました。私なりに気になったのは、それまでのカント哲学の立場から弁証法に転じたのは、どうしてか、ということです。前回も言及されましたが、学問上の理論としてよりも、時勢が弁証法を要請したということでしょうか。

直:そうだと思います。分析的論理から弁証法へ、カントからヘーゲルへ、という転換は、時代の動きなしには考えられません。

猛:田辺の哲学は、時代の変化に合わせて立場を変えた、ということですね。そういう田辺の場合を今回取り上げられるのは、どうしてでしょうか。なぜ、いま田辺哲学を読む必要があるのか。先生の考えをお聞かせください。

なぜ田辺を読むのか

直:単刀直入に言って、理由は二つ。一つは、田辺が弁証法と自認する「種の論理」は、西田の「無の論理」と同じく、弁証法ではないということ。彼らが戦前に具体化した論理は、弁証法とは異なる日本的な思考であることをハッキリさせるということ。これが、第一点。もう一つは、田辺独自の「種の論理」が、哲学の立つべき普遍的な地平――「人類の哲学」といってもよい――を志向していたということ。これを明らかにするというのが、二つ目のポイントです。

猛:二つの理由は、どうつながるのですか。西田や田辺の思考は、弁証法ではないとおっしゃる。そういう論理が、どうして普遍的で人類的な地平を開くことになるのでしょうか。

直:君の言い方は、早トチリです。普遍的な地平を「志向していた」ということは、それを「開いた」ということではありません。田辺は人類のための哲学を志していた。それは確かだけれども、その企ては挫折したと言っているのです。

中:弁証法だからウマク行かなかった、とおっしゃっているように聞こえます。そう受けとってよろしいでしょうか。

直:そのとおりです。30年代の哲学者たちは、戦前の世界情勢の中で、日本の哲学が果たすべき責務を考えた。その着想は、評価に値するものの、それを具体化するためのツールが弁証法であったために、挫折を生じたと言いたいのです。

中:おっしゃることは、大体わかりました。ではなぜ、弁証法ではウマクいかないことになるのか。その事情を教えてくださるようお願いします。

直:今回のテーマは、「種の論理」。それがどういう特色を持ち、どんな限界があるのかに焦点を合わせることにしましょう。と言っても、「種の論理」という名の著書があるわけではなく、「社会存在の論理」(1934年)を皮切りに、主に1930年代に発表された一連の論考について、その名称が冠せられています。代表的な論考が、藤田正勝編『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ』(岩波文庫、2010年)に収められています。そのうち最初の「社会的存在の論理――哲学的社会学試論」に盛り込まれた思想の要点を紹介します。

講義:社会存在の論理

副題に「哲学的社会学」とあるように、社会に属する人間のあり方が論じられます。私たちは、一人一人個人として存在すると同時に、何らかの社会(共同体)に属しています。人間を、「個人」としてよりも社会の成員としてとらえ、社会のあり方を研究する学問が、社会学。自然科学が大きく発展した19世紀、それまで取り上げられなかった生物や社会を対象とする新しい科学として、生物学および社会学が誕生しました。社会学は、とりわけフランスに拡がり、「フランス社会学派」と呼ばれる社会学者たちを輩出したことで知られています。さまざまな考え方の違いはあっても、彼らに共通するのは、人が独立の個であるよりも前に、共同体に属し、特殊な社会の一員であるという事実を前提する点です。田辺は、この点を踏まえて、社会存在を第一次的に規定する「種的基体」を考えました。

「種的基体」という耳慣れない言葉、いったい何を意味しているのでしょうか。「動物種」「人種」という場合の「種」は、生物学の分類上、スピーシーズ(species)と呼ばれ、より上位の「類」、下位の「個」にはさまれた、中間の階層を表します。われわれの存在は、一人一人が異なる「個」であるとともに、国家社会の水準では日本人という「種」に属する。さらに、国家や民族という集団を超えて、分類上最上位の「人類」に属する。社会存在は、類・種・個という三段階にまたがるという説明図式がとられ、そのうちの最も基本的な水準が種であるという理由から、私が日本人であるあり方が「種的基体」と呼ばれたわけです。「種の論理」は、種を基本として、種に対立する個、種・個を超えた類が、たがいにどのように関係し合うかを、田辺独自の論理である「絶対弁証法」によって説明する考えです。

「絶対弁証法」これまた、見るからに難しげな用語ですが、要は否定即肯定という考え方にあります。種は個を否定し、個は種を否定する関係に立つが、そのことはたがいに他を否定すると同時に肯定するということ、仏教でいう「即」の関係を意味します。仏教につうじた人ならすぐに判る「相即」ということを、西洋哲学のロジックに移して弁証法的に言い表したなら、絶対媒介の弁証法、「絶対弁証法」ということになるわけです。

二つのものが矛盾対立する関係に立つのが弁証法だとすれば、類・種・個の三者が並び立つ「種の論理」は、はたして弁証法なのか、という疑いが生じます――現に山内得立は、「種の論理」は弁証法ではない、と明言しています(『意味の形而上学』)。「種の論理」が弁証法であるかないか。その点はどちらでもよいとして、田辺がなぜ、何のために、このような論理を1930年代に公にしたかが問題です。田辺に「種の論理」を着想させたきっかけは、同時代に現れたベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(1932年)の影響にあります。

フランス社会学派――代表はデュルケーム――と同時期に活躍したベルクソンは、道徳と宗教の起源に、「閉じたもの」と「開いたもの」の二つがあることを明らかにしました。「閉じた社会」は、たとえばアリやハチといった昆虫の社会がそうであるように、成員が本能に導かれて行動し、巣である社会を守るためにそれぞれの役割を果たす社会。人間の水準に移して言えば、人々が国家を守るために自分を犠牲にすることをいとわない、といった社会です。それに対する「開いた社会」は、歴史の中でときたま現れる天才のように、特別な個人が人々の魂に訴えることで、内に向かって閉じた社会を一時的にせよ開くことがあるとされる、そういう社会のことです。宗教ではイエス=キリスト、道徳ではソクラテスのような個人は、自身は迫害されて命を奪われたにしても、その生涯に発した愛のメッセージによって社会全体を揺さぶり、変形させた偉大な功労者です。こうした特別な人間の手で、閉じていた社会がときに開かれる――「愛の飛躍」(エラン・ダムール)という言い回しのとおり。〈閉じる開く〉というダイナミズムを繰り返しながら、人間社会は進化してきたというのが、ベルクソンの描いた歴史的発展の見取図です。

『二源泉』に描き出されたこうした歴史の見方に、田辺は感銘を受け、その多くを基本的に受け容れますが、その中で認めることができない一点を強く主張します。それは、閉じたものが開かれる働きが、ベルクソンの説では宗教的天才や道徳的英雄のような一握りの個人に限定されることに対して、自覚した個の誰もがその可能性をもつ、という考えです。言い換えると、目覚めた個人が社会をつくりかえる志の下に立ち上がるなら、〈閉じたもの→開いたもの〉の転換が、特権的個人によってではなく、集団的な実践によって可能になるのだ、という青写真です。田辺は、ベルクソンが理論的に再構成した人間社会の歴史を、時局の要請の下に、日本人一人一人がいま何をなすべきか、という実践の課題に移し替えて提言を行った。それが、「種の論理」に託された哲学的意義です。

類・種・個の三項は、どういう関係に立つのでしょうか。ふつうの個人は、国家が戦地に赴いて戦えと命じたとしても、それに素直に従おうとしないでしょう。個としての自由が国家の目的よりも優先するという考えは、別にオカシクはない。国家目的と個の自由とは、ふつう対立し葛藤する。そういう二者を媒介するのが、「類」。もともと「種」的な国家は、特殊な利害を超えて人類のために働く「類」的国家に移行しなければならないという。種的国家から類的国家への転換に不可欠な役割を果たすのは、類に媒介された「類的個」――田辺の言い方では、「菩薩」――であると。個人は、国家に反抗するエゴイスティックな生き方を罪として認め、「菩薩」行に転じなければならない。こういうリクツが、戦前の若者、特に学生の心を動かして、戦地へと向かわせる原動力となった事情は、お判りでしょうか。

戦前に人類的視点を取り込んだ哲学理論は、「種の論理」以外に見当たりません。「人類の哲学」を考えようとした、その姿勢は評価に値します。しかし、そのための理論的ツールとして「弁証法」を利用した、その点に重大な誤りがあるというのが、私の考えです。講義はここまでにして、お二人との対話で、その問題点を明らかにしたいと考えます。

「種的基体」のカテゴリー

直:難解極まる田辺哲学のキモの部分を、かいつまんで説明しました。内容はいちおう理解されたでしょうか。

中:理解できたとまでは申せませんが、田辺さんという方が、その時代に何をやろうとされたのか、雰囲気的なものはつかめたような気がします。「種の論理」は、戦前の日本人が取り組まなければならなかった課題に取り組んだ成果だと。そう受けとってもよいでしょうか。

直:ええ。戦前の日本において、「世界史的課題」ということが言われた。世界全体の動きをにらんで、日本という国家がどういう役割を果たさなければならないか。それを考えるということです。「種の論理」には、明らかにそういう意識が現れています。「近代の超克」座談会というものが行われ、欧米列強が牛耳ってきた近代世界のあり方をどうするか、という問題が、多くの知識人――田辺は参加していませんが――によって真剣に議論されています。30年代の哲学者たちは、それぞれの立場から「日本の哲学」を形にすることで、その課題に答えようとした。田辺の場合は、そういう意図がかなり際立っている印象を受けます。

猛:田辺が歴史的課題に答えようとしたということは分かるのですが、「種の論理」に理論的な欠陥があるとされた点が、よく理解できません。類・種・個の三者関係を立てたことが、弁証法の原則に反すると。そういうことでしょうか。

直:三つのものの関係は、二者間の対立・矛盾を調停する「和解の論理」になるという点は、弁証法の構図から大きく外れます。しかし、私が問題にしたいのは、そのことよりも、「種の論理」に適用されるカテゴリーそのものが、オカシイということです。

猛:カテゴリーというのは、類・種・個の区別のことですか。

直:そうです。そういうカテゴリーを社会存在に当てはめようとする発想そのものに、欠陥があるということです。

中:「種」は日本のような国家、「個」は一人一人の個人、「類」は人類全体、というように三つのレベルが区別されたということ、お話を伺って、なるほどと思いました。何がオカシイのでしょうか。

直:ひとことで言うなら、生物学に妥当する分類学的原則を人間社会にそのまま適用する、という所作が間違っているということです。

中:何のことだか、よく分かりません。具体的に説明をお願いします。

直:田辺は、社会学が研究する部族社会をモデルにして、「種的基体」を考えました。そういう考えを述べた箇所があるので、少し引用します。

 仏蘭西社会学派のいわゆる「もの」choseというものが、国家社会の根柢にあるとしなければならぬ。社会は単に個人の後に、ないし個人と同時に成立する関係に尽きるものでない。個人の生滅交代にかかわらざる基体を有し、その限りにおいて個人の前にあるものでなければ、個人を強制的に統一することはできるものでない、というのが私の考であった。しかしてかかる社会の基体は、個人がその内から生れ、その中に包容せられるところの、種族的なるものであるという理由によって、種的基体と呼ばれるべきものと考えたのである」(藤田正勝編『種の論理』岩波文庫、2010年、3378頁)。

 この考え方のどこに問題があるでしょうか、中道さん。

中:よく分かりませんが、一つ思いつくのは、ここで言われる種族的な社会と文明社会とは違うというようなことでしょうか。

直:そうです。文化人類学で研究される未開社会は、種族全体がまるでハチかアリのように一つに固まった集団、典型的な「閉じた社会」です。各種族が一つのトーテムによって他の種族から区別されるトーテミズムが、昆虫の本能に近い役割を果たしています。日本がそうであるような文明社会は、そういう類の「閉じた社会」ではなく、どちらかと言えば、「開いた社会」に近い性格をもっている――閉じた部分が多くあることも確かですが。それに対して「種的基体」という概念を適用するのは、明らかに不適切だと言わなくてはなりません。

カテゴリー・ミステイク

直:こんどは猛志君にお訊ねしましょう。君は、種の上位に置かれた「類」について、何か疑問がありませんか。

猛:「類」というからには、人類、ホモ・サピエンスが考えられているわけですね。そういうカテゴリーに、何か問題があるのかなあ。

直:一つヒントを言いましょう。大ベストセラーのユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を読むと、ホモ・サピエンスは、自分たちとは異なるネアンデルタール人そのほかの旧人との生存競争に勝って、地球上の覇者という地位を得た、しかしサピエンスと他のヒトとの遺伝子的差異はわずかなものにすぎない、という事実が書かれています。

猛:おっしゃりたいのは、われわれが「人類」としてイメージするカテゴリーが、それほど確実なものではないということでしょうか。

直:そういうことです。生物学的に見ても、ヒトの範囲がどれだけかを限定することは、簡単なことではない。それに、「類」にヒト以外の生物を含めてはいけない理由があるでしょうか。田辺が「類」として想定したのは、日本に敵対的な勢力を含めた「世界全体」ということでしょうが、それを生物学的な「類」というカテゴリーで表すことは間違いだと言わなければなりません。

中:お話を伺いながら、「社会存在の論理」に「哲学的社会学試論」という副題が付いていることに気づきました。「社会学」に「生物学」のカテゴリーを当てはめるのは、間違いだということでしょうか。

直:〈類個〉という区分は、アリストテレスによる生物の分類法から来ていますが、リンネがうちたてた近代的な分類学では、〈門種〉というように細かい区分が行われていて、三つのカテゴリーだけではありません。そういう複雑な分類法を単純化して、〈人類国家個人〉という社会存在の区別に流用したのが、「種の論理」だということになります。

猛:生物学と社会学の区別ということに関して、ひとつ思い当たったことがあります。例えば、「日本人」として分類されるのは一体だれか、という疑問です。地球上のいろんな土地から、さまざまなヒトがやってきて、日本列島に住みついた。そういう多種多様な人々が交わることで、現在のわれわれのような「日本人」が形成されたというのが、定説になっています。日本人のルーツが一つではないことは明らかです。それを「種」としてひとくくりにすることは、問題だと思います。

中:最近、昔の職場仲間と一緒に呑む機会がありました。いろんな話題が交わされた中で、海外支店で日本人の評価を落とすような言動をする者がいるという話になったとき、いきなり「オレは日本人なんかじゃねえ」とわめいた者がいました。周りのみんなは、変なことを言う奴だ、と白い眼で見たものですが……

直:ちょうどよい例です。自分は日本人じゃないという人は、「日本人」という「種」に入るのか入らないのか。本人が決めることではないにしても、他人が決めればそれで済むという問題ではありません。最近よく言われる性自認の問題をとってみても、生物学的に男性である人が、自身でそれを否定した場合、周りが勝手にその人を「男」に入れることは許されない、そういう時代になっています。

猛:社会集団では、それに帰属するかしないかは本人が決める、という原則ですね。その原則から考えると、社会存在としての「種」は、それに加わろうとする本人の同意なしには成立しないことになります。

直:仰せのとおり。個はともかく、類・種のようなカテゴリーが、実在ではなくフィクションであるということを、昔の人は疑うことができなかった。一億火の玉、みんな一緒、という意識が当然とされていた時代の制約と言えるでしょう。

中:今回、とても重要なことが語られた気がします。ここで、お訊ねしたいことがあります。先生は、「種の論理」を取り上げる理由を二つ挙げられました。一つは、田辺の主張する弁証法は、その実体が名称にそぐわないということ。もう一つは、それでも「種の論理」は、「人類の哲学」を志向した点で、他に類がないというような高い評価です。この二つは別の問題に見えますが、ひとつに結びつけることができるのでしょうか。

直:二つの理由は、ひとつに合わさって、「日本の哲学」ならではの課題を浮かび上がらせると考えられます。第一点に関しては、田辺や西田が頼みとした弁証法のような借り物ではない、自前の論理を考え出さなくてはならない。第二点は、もしそういう論理が「日本の哲学」として具体化されたなら、それは同時に「人類の哲学」を称することが可能であるものでなければならない。

猛:後の点ですが、「日本の哲学」がそのまま「人類の哲学」になると言われる根拠が分かりません。人類普遍の哲学であるというのなら、それは「日本の」――「西洋の」でも同じです――哲学として限定される理由は、ないのじゃありませんか。

直:特殊をつうじて普遍に至る、君ならご存じと思うが、これはヘーゲルなど西洋の哲学がつねに掲げてきたスローガンです。日本という〈特殊〉が、そのあり方を徹底的に反省することをつうじて、人類という〈普遍〉の地平を開く。この考えは、私が風土学の道に入って以来の確信になっています。

弁証法への疑問

直:日本の哲学が、人類のためにどこまで寄与できるか。それは、そう呼べるものができたとして、はじめて答えられる問題です。それよりも、いまは第一の点、弁証法が日本の哲学の論理ではありえないという点を、もう少し追及したいと思います。

猛:基本的な疑問ですが、弁証法は日本の哲学にふさわしくないと言われる。それは、弁証法自体が、そもそも論理として正しくないということなのか、それとも弁証法を論理として認めるけれども、日本の哲学には向かないといったようなことなのか。どちらでしょうか。

直:後の方です。弁証法は、西洋哲学の論理として、その枠の中で普遍妥当性を有している。けれども、風土の異なる日本の哲学には妥当しない面がある、というか、妥当性が限られるというのが、私の意見です。

猛:弁証法の論理は、一定の有効性をもつけれども、普遍妥当性がないと言われているように聞こえます――「西洋哲学の枠内で普遍妥当的」と言われるのは、その枠を超えた妥当性がないということでしょう。

直:君の用語法では、全世界に無条件に通用するというのが、「普遍妥当性」の意味なのですね。ということなら、弁証法に普遍妥当性はない。それは、ローカルな論理にすぎない、と言っておきましょう。

猛:オドロキです、弁証法がローカルな論理であるとは!どうして、そう考えられるのですか。

直:異なる二つのものが対立し合い、対立することによって成立する関係が、弁証法の基本です。その関係は、地上においてたがいに敵対する緊張関係、ヨコの関係を意味する。とともに、地上の存在がそれに依存する超越的な存在、神とのタテの関係を表します――拙著『邂逅の論理』では、この二つの関係を「水平のあいだ」「垂直のあいだ」と呼んでいます。この二種の関係を、徹底的に追究したのが、西洋哲学のロゴスです。そういうロゴスの典型が弁証法だとすると、同じロゴスを共有する範囲は限られる。世界の理解の仕方が異なる中国や日本に、西洋で生まれた弁証法論理を適用することには無理がある。西洋と東洋には、それぞれ世界としての違いがある以上、一方の世界で生まれた論理をそのまま他方にもってくることはできない。「ローカル」というのは、そういうことです。

猛:「ローカル」という言い方に抵抗があるのは、論理が論理であるかぎり、どこの誰であっても認めざるをえない正しさをそなえているからです。「1プラス12である」これは、西洋でも日本でも、およそ人間であるかぎり、どこの誰であっても認める真理であって、地域には関係しません。

直:数学の法則や形式論理であれば、どこの誰でも認めないわけにはいかないでしょう。しかし弁証法は、そういう形式的で規則的な思考ではなく、風土によって異なる意味を担う言葉のシステム、いわゆる「言説」です。西洋世界で生まれた言説が、ローカルな特殊性を帯びること、それを無視して他の世界に広げるような所作がとられたなら、それは〈知の帝国主義〉にほかならない。哲学的論理が普遍的であると信じる君に、私の懸念を申しておきます。

猛:カントやヘーゲルの論理にも、無条件で他の世界に適用することのできない特殊性が含まれるということですね。そういう注意点は了解しました。

中:私の常識では、弁証法は哲学の論理というより、革命を起こすための仕掛けのような意味をもっていたのではないでしょうか。日本にはない西洋の論理が日本で受け容れられたことは、それを必要とする状況が日本社会にあったからだ、と考えられないでしょうか。

直:まさにおっしゃるとおり。世界を根本から変える起爆力が、弁証法にあった。だからこそ、昭和の戦前期、「弁証法にあらざれば哲学にあらず」(梅原 猛)と称されたような変化が、日本の哲学界に生じたわけです。日本になかった劇的変革の思想に、当時の哲学者の誰もが強いインパクトを受けた。そのことによって、自分の生きてきた伝統と向き合い、新しい方向に踏み出そうとするチャンスが生まれたわけです。ひきつづき、他の哲学者の場合を見ていくことにしましょう。

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