空気を読む 風習から日本文化を考える

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    • #16108 返信
      kiba1951
      ゲスト

      昨日大阪大学の待兼祭に行き、興味ある発表を聞きましたので紹介いたします。
       韓国人留学生オ・ドンフィさんの「空気を読む 風習から日本文化を考える」です。
      ⓵「空気」について初めて言及した山本(1983)の『「空気」の研究』の紹介
       事例 『戦艦大和を出撃させるかどうかを決めたのは、論理ではなく「空気」であった。』
      「文芸春秋」昭和50年8月号の「戦艦大和」でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言が出て来る。
      この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々には全て、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、即ち明確な根拠がある。
      だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ、乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。
      従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」で決められる。(山本 1983:15-16)
      ②大石2009 の主張
       空気が読めないのは、「社会的スキル」が足りないから!
       →「集団の和を乱す者として仲間外れなどにされる危険性が高くなる」
       →従って、学校教育の中で社会的スキルの教育を強化する必要性あり。 との論が紹介されています。
      「空気を読む」という日本人の社会心理に密接な関係にある「いじめ」。
      「いじめ」なくすには、どうすればいいのか? でオ・ドンフィさんの発表は終わりました。
      山本・大石氏の意見について木岡先生はどの様に評価されますでしょうか?

    • #16185 返信
      直言居士
      ゲスト

       重要なテーマを携えて、論客が再登場されたことを喜んでいます。韓国人留学生の方が、日本社会における「空気を読む」と「いじめ」との内的関連を論じられたとのこと。私にとっては、むしろそちらの内容に関心があります。しかし、ご質問は、「空気を読む」ことに関する二氏の見解に焦点化されていますので、その線で答えさせていただきます。とはいえ、ⓐ元のテクスト、ⓑオ氏による引用・解釈、ⓒ投稿者による要約、という三段階を経ていますので、ⓐに不案内の当方として、「山本・大石氏の意見」は、あくまでⓒから窺うかぎりで、とお断りしなくてはなりません。
       戦艦大和の出撃が、合理的理由からでなく、場を支配する「空気」によって決定されたという事情は、太平洋戦争遂行の無謀さを代表する例として、よく挙げられます。「空気」による決定――意思決定に至る理性的反省のプロセスが無効となる点で、「決定」と称するのが憚られる――が、日本社会では普遍的に通用しています。かつての教師時代、私はいつも「空気を読む」習性ほど忌まわしいものはない、という考えをつねに表明していました。最近、かつてほど強い否定的態度をとらなくなったのは、②の大石氏がたぶんそうであるように、「空気を読む」肯定論にも、それなりの理由があるように思えてきたからです。数年前、さる邦楽の奏者から、当方の否定論に対して、「空気を読む」ことが演奏の場面でいかに重要であるか、を説かれたことがあります。これは、日本人の同調志向が、アンサンブルの強みになって働く事例と考えられます。ひところ流行したKY(空気が読めない)という誹謗語は、こちらの立場から発言されたものです。「空気を読む」ことが問題になる局面について、ポジとネガの両方の場合を区別して検討する必要があると思われます。
       現在の私は、この問題に対して、一刀両断式の対応をしません。「空気」の支配する場に身を置いて、その流れに従うかそれとも逆らうかを、自分の意志で決めること。これ以外の対応は、ないと考えます。Kibaさんからの「特定質問」にお答えしましたが、これを機に、「いじめ問題」その他も含めて、みなさんからの声が広場にこだましてほしいと思います。

    • #16186 返信
      kiba1951
      ゲスト

      木場が聴講した発表は「阪大哲学カフェ 希哲会」が主催した哲学カフェの出し物で、kibaは遅れて参加した為にオ・ドンフィさんが何者なのかは聞けませんでした。
      発表終了後、感想を求められたので以下の様に答えました。
       ⓵あらゆる議論が「最後には空気で決められる。」のは一般的な事である。
       ②しかし、空気は始めからあったのではなく、議論を通じて形成・合意された物である。
       ③出撃を無謀とする人々はデータや明確な根拠に基づきその非を主張したが、当然とする人々の責任感・美意識に基づく議論を論破できなかったのであろう?
       ④しかし「空気を読む」スキルとは言い方を変えると「他人に追従する」スキルとも言え、決して自慢できる代物ではない。
       ⑤従って、学校教育で教えるべきは「空気を創る」スキルであって「空気を読む」スキルではない!
      と述べましたが、今一つ満足できずに木岡先生に評価を求めた次第です。

    • #16248 返信
      直言居士
      ゲスト

      「空気を創る」スキル――はじめて聞きましたが、面白い表現です。「空気を読む」ことに、スキルは要りません。二千数百年にわたる農耕民族の歴史が、自己主張を控え、他に合わせてふるまうという「遺伝子」を、日本人社会に定着させてきましたから。しかし、かりに新しい空気が生まれたとしても、それを「読む」という習性が改まらなければ、他に追従するという従来の事態は何も変わりません。「空気を創る」ことと「空気を打ち破る」こと、この二つがセットにならなければならないと考えますが、いかがでしょうか。

    • #16264 返信
      kiba1951
      ゲスト

      ⓵「空気を創る」ことと「空気を打ち破る」こと、この二つがセットにならなければならないと考えますが、いかがでしょうか。
       革新的なアイデアは中核的な同調者によって広められブームとなり、一般化してルールとなり、ついには常識にまでなります。
       古い「空気は」流行おくれから時代遅れを経て歴史となり埋もれてしまいます。わざわざ、破らずとも上書きすれば良いだけだと思います。
      ②さる邦楽の奏者から、当方の否定論に対して、「空気を読む」ことが演奏の場面でいかに重要であるか、を説かれたことがあります。
       芸術家にとってはその舞台・その作品こそが己の最高傑作であるべきです。その為には己を殺してでもその舞台の全体価値を上げるべきです。
       しかし、研究者は永遠に続く真理への道を次代に託しながら拓き続ける人々だと思います。
       研究者にとっては今の行き詰り・誤りすらその方法の間違いを証明する事であり、別人が他の方法を探る事へ貢献となります。
       ですので芸術家と科学者は達成目標・評価期間・評価基準が違うので同等に考える事は出来ないと思います。

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