インタヴューの前に
中道さん:前回、先生が9年間勤められた大阪府立大学を辞められ、1997年に関西大学に転出されてからの数年間、特に2002年のパリ留学をめぐって、いろんなお話を伺いました。留学をきっかけに、本格的にご自身の学問として風土学を志し、『風景の論理――沈黙から語りへ』(世界思想社、2007年)を発表されました。猛志君のご意見では、この著書によって、先生はベルク風土学との立場の違いを自覚されたとのこと。そうでしたね、猛志君?
猛志君:そうです。僕のそういう意見に、先生も同意されました。前回、そこから本の内容に入ると期待したのに、インタヴューは留学中の話に戻ってしまいました。
直言先生:たしかに、そう。ベルク先生の風景論では、人類共通の「元風景」(proto-paysage)が前提されているのに、私の本では、人類共通の風景などというものはない、風景は場所ごとに異なる「世界の見方」である、ということを強調しました。このあたりから、風土学の立場は人によって異なる、そしてそれが当たり前なのだ、というふうな考えに変わっていきました。
中:風土学という学問の中身は、それに取り組む人によって、さまざまに変わってくるというわけですね。私どもが教えられる近代科学は、どこの誰にとっても内容が一定で変わらない学問である。そういう常識からすると、学者ごとに内容が異なる風土学というのは、ずいぶん風変わりな学問のように見えます。
直。そうでしょうね。近代科学は、普遍的な理性にもとづくディシプリン(学問、規律)として、それぞれの専門ごとに唯一の標準モデルをうちたて、その基準をみんなが受け容れるという約束事で成り立っていますから。
今回、いきなりこういう難しい話から入っていっても大丈夫ですか、中道さん。
中:すみません。つい自分の興味が先走りしてしまいました。今回のインタヴューは、フランスから帰国された後、現在に至るまでのご自身の歩み、学問研究はもちろんですが、社会とかかわって何をしてこられたのかをテーマに、お話を伺いたいと思います。
直:承知しました。留学後、20年余りの間、どういう生き方をしてきたかが、テーマだということですね。その間に研究したこと、著書などについては、どういう取り上げ方をしたらよいでしょうか。
猛:僕としては、先生が書かれた著書や論文についてのお話をくわしく伺いたいと思います。自分自身の研究を進めていくうえで、参考にしたいことがいろいろありますから。
直:なるほど、そうでしょうね。では、こうしましょう。「自分史に挑む」のシリーズは、5回目の今回でおしまい。つぎからは、「自著を語る」というシリーズを立ち上げることにして、そのインタヴュアー役を猛志君に代わっていただく。そういう段取りでいかがですか。
中:そのご提案に賛成します。私がインタヴュアーを務めるのは、今回まで。これまでがそうであったように、先生の人生の歩みを追わせていただく、というような役回りに徹したいと存じます。それでよろしいでしょうか。
直:異存ありません。それでお願いします。
猛:僕も同じです。よろしくお願いします。
日本の現実に戻って
中:留学中に大きな出来事があったことを、前回伺いました。2003年に帰国されてからの生活は、どういうものだったでしょうか。留学される前と何か違いがあったとすれば、どういう点でしょうか。
直:20年も経つと、その頃の記憶はボンヤリしていますが、一言でいうと天地雲泥の差。フランスから日本に帰ってきた当初は、日本で暮らしていた昔の感覚に戻ることができずに苦労しました。およそ半年から一年ぐらい、違和感と言うか、フランスの生活とのギャップに悩みました。
中:そのときの感じは、どういうものでしたか。私も海外駐在を終えて帰国するとき、帰りたくない、このまま居続けたいという気持ちと、早く帰りたいという気持ちとが、半分半分で複雑だった記憶があります。
直:私の場合もそれに似ていますが、日本に戻りたくない気持ちの方が強かったことを覚えています。
中:それはどうしてでしょう。パリでの生活に、魅力があったからでしょうか。
直:それもありますが、ありていに言えば、「日本」に帰って「日本人」に戻るのはイヤだ、という斥力が強く働いたように思います。
猛:先生がそんなことをおっしゃるとは、まったく意外です。人間は、自分の生まれ育った土地に愛着をもつ、ということが先生の本には書かれています。「原風景」を風景論の中心に置かれているのも、そういう考えからではありませんか。
直:まさにおっしゃるとおりですが、そういう原則があるからこそ、日本に帰りたくないという思いに支配されたのです。そう言って、解ってもらえるかな?
猛:解りません。日本に生まれたからこそ、早く母国に帰りたいと願うのが、自然な人情じゃないのですか。
直:まだ外国で暮らしたことのない君が、そう考えるのも無理はない。少し説明しましょう。住み慣れた日本を離れて、異国の地に暮らす。言葉の壁をはじめ、いろんな障害を体験しながら、ともかくパリの生活にそれなりになじんでいくうちに、一年が経過した。その時点で、フランスは「第二の故郷」のような自分の世界になりつつあります。そういう状態に終わりを告げて、母国に帰ることに抵抗が生じるのは、やむをえないというか、ふつうのことです。
猛:おっしゃることを自分なりに理解するなら、先生にとって、パリでの暮らしの方が、日本での生活よりも気に入っていた、と。そういう感じがするのですが、違っているでしょうか。
直:そうとっていただいても、かまいません。日本人に戻りたくないというのは、半分フランス人になっている証拠ですから。
中:いま「半分フランス人」とおっしゃいました。それは、先生の風土学の立場と大いに関係があるような印象を受けたのですが、その点はいかがでしょうか。
直:ズバリ、私の風土学の目玉と言いたいポイントが指摘されました。風土を生きるということは、自分の世界(風土)と他者の世界(風土)とにまたがり、いわば双方の〈あいだ〉に立つということを意味します。フランスに一年間住みついたことで、もちろんフランス人になるわけではないけれども、半分フランス人、半分日本人、と言いたいような〈中間〉的な感性が生まれてきます。
猛:そのことは、風土学の理論として具体的に説明されているのでしょうか。
直:もちろんです。あなた方との対話の最初のセッション『〈出会い〉の風土学 対話へのいざない』(幻冬舎、2018年)の「第7回〈脱中心化〉と〈再中心化〉」を、その説明に充てています。
中:シリーズⅢ「ベルクの風土学」最初の回でしたね。そこでは、ベルク先生が日本に留学したことによって〈脱中心化〉が成立した。その後、フランスに戻ることで、〈再中心化〉が生じた、と説明されています。
直:仰せのとおり。そのときベルクに生じたような変化が、日本からフランスに渡った自分の身にも起こったということです。風土学の根本にかかわる問題ですから、今回このテーマについて講義しましょう。
講義:〈脱中心化〉と〈再中心化〉
どの地域・場所に生まれたとしても、人はそこを拠点として自分の生きる世界をつくります。「世界」というのは、自分がかかわるもの(人間、人間以外の事物や自然)との関係の総体であって、人ごとに異なります。各自にとっての「世界」が、「風土」の実質になります。ベルクによる「風土」の定義は、「社会の空間と自然に対する関係」ですが、社会を構成する個人ごとに「関係」の内容・質が異なるという点に注目するなら、風土は人の数だけ存在するということになるでしょう。
それぞれの主体にとって、「風土」ないし「世界」は、一つの〈中心〉を形づくります。たとえば、私の世界は、何十年も住みついた大阪という土地で育まれてきた関係の全体ですから、そういうものを離れては生きられない。主体にとって決定的な生存の条件という意味で、私はそれを〈中心〉と呼びます。誰もが〈中心〉をもち、〈中心〉を占めて生きています。問題は、そういう〈中心〉を離れる場合が生じるということです。それは、どんな場合でしょうか。長年住みついた土地を離れて、異郷に移住する場合、あるいは短期的で小規模な移住としての旅行、がそれに当たります。別にそんなことをしなくても生きていけるのに、あえて〈中心〉から出ていくということが、しばしば起こるのは、もちろん多くの場合、人が意識してそれを求めるからです――求めていないのに、そうせざるをえない場合も、しばしばありますが。自分がそれまで占めていた〈中心〉を離れ、他の土地に移り住む、それが〈脱中心化〉ということです。
ベルク氏が風土学の手本とした和辻哲郎がそうであったように、私もまた母国日本を離れて異国フランスに移ることで、〈脱中心化〉したわけです。「留学」は、それまで知らなかった他の世界にふれ、自分の世界を大きく変える事件として、意義をもちます。それは、必ずしも幸福を意味しません。異なる風土にあって、言葉をはじめとする文化の違い、とりわけ価値観の違いに衝撃を受ける。〈他者〉を知ることをつうじて、自分の生き方が揺さぶられる。いわゆる「アイデンティティ・クライシス」、危機的状況が生じます。たとえばベルク氏は、日本語のように主語がない言語が存在することを知ったことで、深刻な「カルチュア・ショック」を経験しました。私はそれと裏返しに、あらゆるものに性がある――例えば、フランスパンのバゲットは、女性――フランス語の世界に入り込むことで、ほとんど戦慄を感じたことがあります。想像してみてください、自分の周囲にある事物が、すべて男性か女性かに分かれるなんて!
〈脱中心化〉したと言えるのは、自分がそれまで抱いてきたものの見方や考え方が大きく揺さぶられ、ときに「自分が変わった」とまで思える変化を体験する場合です。一年間のパリ滞在による変化は、先ほど「半分フランス人」と言ったように、自分自身がもはや元々の日本人ではない、というような自覚を生み出したこと。そういう状態で帰国したわけですから、自分が何ものなのか、日本人なのかフランス人なのかがハッキリしない。そこに違和感が生じないでは済みません。同じような感じを、おそらくパリに何年も住み続ける日本人留学生なら、帰国したさいに抱くだろうと思います。
このさい、自分自身に引きつけて言うと、帰国した折に生じた抵抗感は、いったんなじんだパリの風土から、日本・大阪という風土に戻る〈再中心化〉によるものです。それまで〈脱中心化〉していた自分が、元の世界つまり〈中心〉に復帰する。それは、留学生ならだれでも体験する〈再中心化〉の過程です。そのさい重要なことは、日本とフランスといった異なる風土の〈あいだ〉に立つということ。それは、どちらか一方がよくて他方はよくない、といった式の総括をしてはならない、ということです。お国自慢と外国崇拝――この二つは、たがいに裏表の関係――のどちらにも陥らないような仕方で、他者認識と自己認識とを両立させることが大切である。このことが、留学の体験をその後何年にもわたって反芻することをつうじて、私が辿りついた結論であり、それが私の風土学の土台になっています。
留学後の気づき
中:前回は、留学中のことが話題に挙げられました。今回の講義はその続きで、帰国してから考えられたことがテーマであると感じました。そういう理解で、間違いないでしょうか。
直:間違いありません。留学先のパリで、いろんなことを体験しました。それは、滞在しているあいだはカオス状態で、その意味がハッキリしない。それが、帰国してから何年かすると、スープの上澄みのように、意味がクリアーになってくる。留学によって、自分が何を得たかについての〈気づき〉が生まれてくるわけです。
猛:それが、講義の中でおっしゃった〈再中心化〉ということですか。
直:そう、そのとおり。ですが、正確に言うと〈再中心化〉だけではなく、〈脱中心化〉も含まれます。他の風土を知ったことで〈脱中心化〉し、元の風土に戻ることによって〈再中心化〉する。〈脱中心化→再中心化〉と〈再中心化→脱中心化〉、この両方のプロセスを繰り返していくというのが、留学以後のルーティンともいえる体験でした。こうしたプロセスをつうじて生まれた〈気づき〉によって、風土学三部作の構想が徐々に具体化していきました。
猛:講義でおっしゃったことから、何だか「ショック療法」を連想しました。留学して他の風土に接することによって、アイデンティティ・クライシスが生じる。そこから、どうやって立ち直るかが、ポイントだと。
直:ショック療法ですか、言われてみれば、まさにそのとおりですね。私の受けた「ショック」の一例を挙げましょう。現地で知り合った留学生――早稲田の院生――との雑談中、日頃苦労している名詞の性の区別について、冗談に「フランス人かて、間違えるで」と洩らしたことがあります。すると彼は、「それが、間違えないんですねえ」と返してきた。そのときは笑って済ませましたが、後で事の真実に想い到って、ゾッとしました。それは、フランス人――だけでなく、西洋語の世界すべてに共通ですが――が、最初から事物に性の区別がある世界に生きているということです。そういう世界に生まれてくるのだから、フランス人が名詞の性を取り違えるなんてことは、あるはずがない。それは、性や数の区別を問わない日本語、つまり日本人の世界とは、根本から違う世界に、彼らが生きていることを意味します。名詞の「性」を、文法上の些細な約束事ぐらいにしか考えていなかったこちらにとって、それは戦慄的な事実でした。
中:そういうショック体験を重ねることをつうじて、風土学の方向性が固まっていった、と受けとめてもいいでしょうか。
直:そういう体験がもしなかったら、自分の学問の目標が風土学に定まるということには、たぶんならなかったと思います。
中:そうでしたか。そういうことでしたら、風土学三部作の構想も、留学体験から得たものの意味を考える中から、熟してきたと。そういうことになりますでしょうか。
直:ええ、振り返ってみれば、そういうことになると思います。
風土学三部作へ
中:三部作最初の『風景の論理』の刊行が2007年、次の『風土の論理』が2011年、最後の『邂逅の論理』が2017年に刊行されました。足かけ10年、ほぼ等しいペースで著書が出されているという印象を受けますが、計画されたとおりに進んだのでしょうか。
直:そんなことはない。結果がたまたまそうなったということで、予定どおりに本を出版するなんてことは、ありえない話です。
中:それぞれの書物については、次のシリーズ「自著を語る」の中で明らかにされるかと思いますが、聞き役の猛志君、いま先生から伺っておきたいというポイントはありますか。
猛:自分としては、三部作がどうしてこの順序で書かれたのか、そうなる必然的な理由があったのかをお訊きしたいと思います。
直:最初の『風景の論理――沈黙から語りへ』(世界思想社、2007年)については、留学に赴くだいぶ以前から、「風景」というテーマが懸案だったことが大きい。大阪府立大時代の共著『環境思想を学ぶ人のために』(加茂・谷本篇、世界思想社、1994年)、編著『環境問題とは何か』(晃洋書房、1999年)で私が扱ったテーマは、いずれも「風景」です。関大に移ってからも、「沈黙から語りへ」(安孫子・佐藤編『風景の哲学』ナカニシヤ出版、2002年)を発表しています。この論文は、留学したその年に刊行されました。
猛:タイトルは、『風景の論理』の副題と同じですね。風景論が最初に取り上げられた事情はよく分かりました。第二作が『風土の論理――地理哲学への道』(ミネルヴァ書房、2011年)として発表されたのは、どういう経緯からでしょうか。
直:自分なりの風土学というものを目標として、最初に取り組んだのが風景論。それを仕上げる過程で、気づいたことがあります。君が先月指摘されたとおり、私の立場がベルク先生と同じでないということが、『風景の論理』執筆をつうじてハッキリしてきた。ベルク風土学は、西欧の中心地――ということは、ほぼそのまま世界の中心を意味する――で考えられたことに対して、風土学は〈中心〉ではなく〈周辺〉で考えられるべき学問である、というふうな自覚が、次第に目覚めてきたわけです。
中:いまおっしゃった〈中心〉と〈周辺〉は、先ほどの講義で説明された〈脱中心化〉と〈再中心化〉の考えに関係しているように思われますが。
直:そう、そのとおり。〈脱中心化〉というのは、〈中心〉から出て〈周辺〉に赴く行為を意味します。
猛:ということは、先生のお考えでは、〈中心〉がフランスで、〈周辺〉が日本だと。そういうことになりますか。
直:最初の考えは、そうでした。でも、よく考えてみると、フランスが〈中心〉になるのは、ベルクのようなフランス人にとってのこと。日本人である自分にとっての〈中心〉は、日本じゃないか、ということに思い当たった。いま当たり前と思われるこういう事実に、注意を向けるまでに、数年、いや十年くらいはかかったかもしれません。
猛:どうして、そんなに時間がかかったのですか。
直:理由は、ハッキリしています。哲学もそうですが、われわれ日本人が学びとってきた学問は、西洋から導入された。その点において、西洋が絶対の〈中心〉、そこから学ぶ立場である日本などは、〈周辺〉とみなす以外にない。そういう思考習慣が身にしみついていたからです。
中:特定の地域を〈中心〉に固定しない考え、そこに住む人にとって、自分のいるところが〈中心〉である、という考えをおっしゃいました。その考えから取り組まれたのが、『風土の論理』だと受けとめてもよろしいでしょうか。
直:まさにそのとおりです。各主体にとって、いま自分の住んでいる世界が〈中心〉。それぞれの〈中心〉を「風土」と呼んで、それがどのように形成され発展していくかを、三つの段階(物語空間・社会空間・普遍空間)に分けて、理念的に考察しました。言って見れば、風土形成についての思考実験というものです。
中:いま「思考実験」とおっしゃいましたが、ご本は私のような素人には難しすぎて、とても読み切れませんでした。この書物については、いずれ猛志君の方からいろいろ質問していただきたいと考えています。
猛:承知しました。それぞれの本の内容は、いずれ取り上げることとして、第二作『風土の論理』(2011年)から6年後に、『邂逅の論理』(2017年)が刊行されました。〈邂逅〉というテーマが、三部作の最後に取り上げられたのは、どんな事情からでしょうか。
直:「風景」「風土」「邂逅」というラインナップが固まったのは、『風土の論理』に取りかかったころでしょうか。『風景の論理』を、風土の認識論、『風土の論理』を風土の存在論、に見立てるとすれば、風土における実践論ないし倫理学が必要ではないか、という思いが浮上してきたわけです。もっとも、『風土の論理』を刊行した翌年(2012年)に、脳卒中(小脳出血)で倒れるというという不慮の事態が生じ、その関係から、『邂逅の論理』に取りかかるのがだいぶ遅れました。
猛:風土の倫理学ということになると、大学で教えられる「倫理学」とは相当に違ったものになるのではないかと思われます。その違いを簡単に言うと、どういうことになりますか。
直:人間一般から出発して、個人なり共同体なりがもつ対他関係のルールをどう調整するかが、倫理学の問題になる。それぞれの主体が、異なる世界に生きているという現実からは出発しないのです。風土の異なりから出発した場合は、主体同士がどんなふうに出会うか、という〈出会い〉のあり方が、まず問題になる。そういう問題意識なしに、上位者が下位者を相手にするような仕方で、倫理が共有されるとしてきたのが、従来の倫理学。出会い方のマナーから考えようとするのが、風土学。とりあえず、そう答えておきます。
猛:いま言われたことは、現在の倫理学にはあてはまらないと思います。ですが、そういう疑問については、次のシリーズでお訊ねすることにします。
中:ぜひ、そうしてください。今回、風土学の発展を追ってきましたが、フランス留学後の20年間に、先生はいろんなことを実践されたかと思います。その中で、これはというポイントを挙げていただくとすると、何になるでしょうか。
大学を開く
直:教師生活32年間、いろんなことをやりましたが、その全体を一言で要約すると、〈学問を開く〉、自身の立ち位置で言うと〈大学を開く〉。これに尽きるという気がします。
中:〈大学を開く〉ですか。〈あいだを開く〉という言い方は、先生からよくお聞きしますが、学問や大学を「開く」というのは、どういうことでしょうか。
直:「開く」という言葉は、最近いろんな場面でよく見かけます。たとえば、『歎異鈔をひらく』という本の宣伝から察するに、「ひらく」とは、『歎異鈔』という難しい書物の内容を解りやすく平易に説明し直す、といった趣旨でしょうか。大学でも学問でも、一般の人にとってとっつきにくい「閉じた」あり方をしている。それを近づきやすい「開かれた」あり方に変える、という意味に理解してください。
中:具体的に言うと、どういうことでしょうか。
直:中道さんも参加されたことのある、大学院の講義「人間環境学研究」(通称「都市の風土学」)を、学内はもとより、学外の一般社会人も参加できるように、公開したことが挙げられます。
中:なるほど、それで分かりました。大学で行われている学問研究の成果を、社会に生きる人たちが知って活かすことができるように、門戸を開放する。それが、「大学を開く」ということなのですね。
猛:そういう方針は、先生が大阪府大で手がけられた地球環境問題についての共同研究と共通していると思います。関大では、テーマを「環境」から「都市」に切り替えて、継続発展させられました。その狙いは、何だったのでしょうか。
直:たしかに看板は、「環境」から「都市」に替わりました。基本方針は同じです。変更の理由は、都市問題のうちに環境問題が当然含まれること――府大でも、「都市の再生と創造」をテーマに、連続講義を組んだことがあります。多数の学部と優秀なスタッフを抱える関大では、「都市」をメインテーマに掲げる方が、チームを組織するうえで好都合だという判断も働きました。
中:私は、たまたま関大の図書館で見かけた「都市の風土学」のポスターに、「来聴歓迎」という一言があったので、研究室に電話をおかけしたところ、先生から「どうぞ」というご返事をいただきました。まさか大学院の講義に自分が参加できるなんて、夢にも思いませんでした。
直:そうでしたね。前任校との大きな違いは、府大でも試みた割に拡がらなかった一般社会とのパイプが太くなり、社会人がレギュラー参加されるようになった点です。
猛:社会人と学生とが、同じ教室の中で交流するというようなことは、他に経験したことがありません。僕の場合、参加した当時の身分は学部生でしたが、大学院の講義に堂々と出席させてもらいました。
直:それは、超法規的な「モグリ」が許されたということです。閉じた官僚的な組織であれば、そういう流儀は通りません。見てみぬふりをしてくれた関大当局の「寛大」な対応には、いまでも感謝しています。
〈縁〉を結ぶ
中;私の手許に、先生が出された編著『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12講』(萌書房、2019年)があります。これは、2000年から始められた共同研究のプロジェクトが終わった時点で、成果を一冊にまとめられたご本です。その中に、研究と教育をめぐる先生のお考えが、解りやすく説明されています。一つだけお訊ねしたいのは、この書物の表題に掲げられた〈縁〉――〈出会い〉も含めてですが――というテーマを、先生がいまどんなふうに考えておられるのか、ということです。私からのインタヴューを、この質問で締めくくらせていただきたいと存じます。
直:最後の質問とのこと、承知しました。先ほど私の教師人生の意義を、〈学問を開く〉こと、〈大学を開く〉ことと総括しましたが、別の言い方をするなら、〈縁を結ぶ〉ことになります。〈縁〉という仏教用語は、自分が関わり合った〈もの〉――人間も事物も含みます――に対して、責任があることを意味します。「責任」(responsibility)とは、自分が出会ったものからの呼びかけを聴いて、それに応える(respond)はたらき、「応答能力」のこと。自分が身を置いた学問の世界で、かかわりあった人間や事物と〈縁〉を結んできた、その生き方の基本は、ポジションの変わった現在でも貫きたいと考えています。
中:どうもありがとうございました。
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パリに金木犀があるとは驚きでした。学生の頃卒業旅行でヨーロッパを巡る旅に参加してフランスを訪れましたが
金木犀にはきづきませんでした。あの香りで 九鬼周造氏が気付かれたのでしょう。
その土地土地の植物や花 果物 作物を眺めているとおもうことがいくつかあります。フランスを訪れて感じた印象は大きな国であるという
思いでした。ヨーロッパはやはり建築物が石中心で都市も古くからのたたずまいがのこされておりルーブル美術館はピラミッド型の地下にはいるエスカレーターにのって館内にいくという造りになっておりました。この石畳に現代技術で下にはいるようにエスカレーターをつけたのかと思いながら中に入っていきました。一日いてもなかの絵画作品すべてみれないとのことでしたので モナリザをみにいこうと決めて館内を散策しておりましたら 案外美術品にはおおらかというか 無防備。モナリザだけ透明なガラスで絵画の前に防御窓がついいてるだけで館内には喫茶店はあるし 飲み食いが自由です。考える人の像はあしもとが観光客が触っていくので黒くなるほど汚れていました。
つぎに観光バスにのって田園地方にいきました。ゴッホのいた町をたずねるツアーでそこで見た風景は日本の北海道のそれと非常によく似ていました。
そういえばゴッホの絵の田園風景に日本の北海道の風景が重なるのはこのせいかと思ったりしました。
日本の北海道はいまこそ米の収穫量が大半ですがよくあの最北の土地に米作りをもちこんだものだと驚嘆します。米の研究をしてる友人がいて当たり前に食べてる米もかなりの風土の違い 環境の違いで収穫する場所によって味も形もちがうのです。東南アジアのコメはぱさぱさしてとんがってます。友人の研究は東南アジアの中で水はけの悪い土壌でモンスーンのときにも稲穂が洪水でたおれないように浮く米をつくるというものでした。米といえば日本のもっちりしたコシヒカリかササニシキしか思い浮かばない当方には目からうろこの話でした。洪水でも浮く稲穂?背がかなり高くないと無理だねといった話をしたことを懐かしく思い出していました。
風土の違いによって そこで育つ植物も同じ種であってもちがうように環境によってあるいは人工的に作為されて形をかえてのこってゆく
脱中心化 再中心化 周辺の話も人間だけでなく植物にもあてはまるものだと 思いました。