なぜ三木清か?
猛志君:「30年代の哲学者」シリーズも5回目、これまでどおりのやり方で行けば、これが最終回です。最初に聞いた予定では、西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎、九鬼周造と続いて、最後の哲学者は三木清ということでした。三木清が最後に取り上げられる、と理解してもよいでしょうか。
中道さん:私も猛志君と同じく、三木清が最後に来ると予期していました。最初にお伺いしたいのは、どうして5人の最後が三木なのか、他の順序ではいけないのか、ということです。というのも、この人は5人の中で一番若く、そのうえ40代の若さで亡くなっているからです。そういう人が、シリーズ最終回に取り上げられるというのは、どういう理由からでしょうか。
直言先生:シリーズの最後に三木をもってきたのには、それなりの訳があります。いちばん大きな理由は、日本の哲学にとって1930年代がもつ意義を考えると、ここで取り上げた順序で論じることがふさわしく、とりわけ時代の犠牲者となった感のある三木清にシリーズのトリを務めてもらうことが最適だということです。
中:1930年代という時代の性格から、このラインナップを考えられたということですね。これまでにも伺ったかと思いますが、30年代の特色についてもう一度ご説明いただけないでしょうか。
直:ご承知のように、明治以後の日本は欧米水準の文明に近づくことを目標にして、近代化を進めてきました。その中でも、あらゆる文物の根柢に、ものの考え方を導く哲学が存在します。まずは西洋哲学をそのまま受容するとして、しかしそれだけではなく、日本人の精神文化の伝統とすり合わせることによって、日本人の使える哲学、「日本の哲学」を仕上げていく努力が求められるわけです。本シリーズに登場する5人は、西洋の哲学のエッセンスを正確に吸収する点にかけては、誰にも引けをとらない、その意味でエリートと見るべき人たちです。しかし、私が彼らをここで取り上げたのは、西洋哲学の受容に秀でていたという理由からではなく、西洋哲学との〈対決〉をつうじて、自分なりに「日本の哲学」をうちたてようとするパイオニアであったという理由からです。
猛:いま「パイオニア」という言い方をされました。この5人以外に、そう呼ぶべき哲学者はいなかったのですか。
直:西洋哲学が入ってきたばかりの明治時代から、「日本」を意識した取り組みをする哲学者は少なくありませんでした。例えば、井上哲次郎。しかし、それは外来種の植物を移植するにあたって、受け入れる土地の状態が吟味されるように、日本の精神的伝統を意識する必要があったという、いわば初期段階の対応に過ぎません。この例で言うなら、移植が進んで、外来の植物がそれなりに生育するのを見守りながら、それを日本の植物として育てるために何が必要かを検討する必要が生じてきます。1930年代というのは、西洋哲学が日本社会に根づいてきた事実をふまえて、そこから日本の哲学をつくっていくための新たな挑戦が行われた時代だと考えられます。
中:シリーズ2回目に田辺元を取り上げられたとき、昭和初頭にマルクス主義が日本社会に入ってきたことの影響を話されました。田辺が、それまでとは違った「弁証法」の立場に変わったきっかけが、マルクス主義との出会いであったと聞きました。
直:そうです。田辺はもちろんのこと、西田や和辻のようにもともと保守的な体質の哲学者までもが、「弁証法」を唱えるようになった。マルクス主義のもたらしたインパクトが、いかに大きかったかを物語っています。
猛:日本哲学史の講義で、西田哲学を受けついた人たちの中から、右派と左派とが分かれた、三木は戸坂潤と並んで、左派を代表する一人だという説明を受けました。
直:そう、三木は西田の弟子たちの中で、マルクス主義の影響を強く受けた左派の代表と言える人物です。ですが、三木は左派の他の人々――舩山信一や梯明秀などが有名です――とは違って、「マルクス主義者」のカテゴリーには入らない、独特な位置に立っています。
中:マルクス主義に影響を受けた左派であるのに、マルクス主義者ではなかったと。その「独特な位置」というのは、具体的にどういうものでしょうか。
直:「マルクス主義」の柱である唯物史観や階級史観について、共産主義陣営がとる公式見解をそのまま受け容れ、日本を共産社会に変えるべく、革命を惹き起こそうとする立場が、当時の主流です。そういう公式見解に沿った発言をする知識人が、「教条的」マルクス主義者と呼ばれる。そういう立場とは違って、三木は自分の頭でマルクスの思想を活かそうと努める思想家であったということです。
中:世にいう左翼、「共産主義者」ではなかったということですね、なるほど。でも、それだけでは、三木の占める「独特な位置」がどういうものか、シリーズの最後に三木をもってこられた理由が何かまでは判りません。
直:そうですか。それでは、時代と独特なかかわり方をした三木清の生涯について、ひととおりおさらいをすることにしましょう。
講義:三木清の生涯と学問
三木清(1897-1945)は、兵庫県揖保郡平井村(現たつの市)に農家の長男として生まれ、地元の龍野中学校を卒業後、東京の第一高等学校に進学、同郷の和辻哲郎と同じく、地方出身の秀才らしいエリートコースをとります。しかし、一高から東京帝国大学には進学せず、京都帝国大学に入学しました。この前代未聞の選択の理由は、在学中に読んだ西田幾多郎『善の研究』に感銘を受け、西田のもとで哲学を研究したいと考えたことにあります。西田との出会い、師弟関係が、その後の人生に決定的な影響を与えた事実は、後ほど「形の論理」を取り上げる際に明らかにします。
京大卒業後、1922年から1925年にかけてドイツに留学、ハイデガーの新しい哲学を知って、本人から親しく教えを受けています――和辻が留学したのは、三木よりも後の1927年、『存在と時間』が刊行された年ですから、三木が指導を受けたのは、それよりも前の時期になります。ちなみにこのシリーズで取り上げた日本人哲学者5人のうち、4人――留学しなかった西田を除く――が、多少時期の違いはあっても、ハイデガーに接して影響を受けたという事実には、重大な意味があります。ここでは、その点には立ち入ることはしませんが、ハイデガーとの出会いが、彼らにとって「日本の哲学」をつくろうとするきっかけになった、という一点だけを挙げておきます。三木の場合は、独自の「人間学」(アントロポロギー)という構想に、ハイデガーから受けた影響が顕著に認められます。
三木がマルクス主義に接近するのは、帰国してまもなく、ちょうど日本にマルクス主義が入って来て、ブームを起こすようになる直前の時期でした。「人間学のマルクス的形態」といった、一見「マルクス主義者」らしい論文を発表するものの、それは先に述べたように、教条主義的内容の文書ではなく、自分の関心にもとづくマルクス解釈です。それを理解しない左翼の陣営は、三木が元からの一貫した関心によって手がけた『歴史哲学』(1932年)を、マルクス主義に対する裏切りのようにとらえて攻撃しました。
三木は、留学中にハイデガーやパスカルから強い影響を受けました――パスカル『パンセ』を読んだことがきっかけで、ドイツからパリに移って一年を過ごしたほどです。ハイデガー、パスカルといった哲学者とマルクス。直接には結びつかないような別々の系譜に立つ思想が、三木の人間学に取り込まれていきます。そういう三木哲学の最大のルーツに挙げられるのは、西田哲学。三木自身が、遺作となった『構想力の論理』「序」で、それを告白しています。「構想力の論理」は「形の論理」という客観的な表現を見出すことによって、「私の思想は今一応の安定に達したのである」。自身の思索の歩みをそのように結んでから、こう続けています。
かようにして私は私自身のいわば人間的な問題から出発しながら、現在到達した点において西田哲学へ、私の理解する限りにおいては、接近してきたのを見る。私の研究において西田哲学が絶えず無意識的にあるいは意識的に私を導いてきたのである(『構想力の論理 第一』岩波文庫、2023年、12頁)。
三木がその学問的遍歴の末にたどり着いた目標点として、西田哲学が挙げられます。というと、(?)と思われるかもしれません。昭和初期からマルクスに傾倒した三木の関心の中心が、西田哲学だとは?そうです、まさしくそのとおり。「30年代の哲学者」――その筆頭は西田幾多郎――に共通するのは、西洋哲学を積極的に受容する努力と、受容された哲学をもとにして「日本の哲学」を切り拓こうとする企てとが、切り離しがたく一体であったということです。そのうえで言うなら、西田と他の4人との違いは、いちはやく独創的な「無の論理」を創出した西田に対して、それにどう対応するかという課題が、後続の4人に生じてきたこと。つまり、西洋哲学との対決に加えて、日本のトップランナーである西田の哲学とどう対決するか、が大きな課題になったということです。西田門下の自他ともに認める最優秀生として、三木は西田のオリジナルな「無の論理」と最新のマルクス主義とをともに活かすような新しい立場をうちださなければなりませんでした。この難しい課題に対して、三木の用意したものが「構想力の論理」でした。「構想力の論理」は、「形の論理」。しかし三木は、その完成に至ることがないまま、1945年3月、治安維持法の容疑者をかくまったことによって逮捕され、終戦後の9月に獄死します。未完に終わった「構想力の論理」(形の論理)がどういうものかは、対話をつうじて明らかにすることにしましょう。
師弟の絆
直:「構想力の論理」を考えつくまでと、以後の歩みを、簡単にたどりました。お二人には、どんな印象がありますか。
中:三木が西田からどんな影響を受けたのか、哲学の素人としては、よく分かりません。けれども、ドイツから帰国してマルクス主義に近づいた三木が、西田哲学との縁を語っているところに惹かれました。
直:〈縁〉という言い方をされましたね。どういう意味で、そう言われたのでしょうか。
中:西田と三木、二人の哲学にどういう性格の違いがあるのか、専門的なことは何も言えません。ですが、『善の研究』を読んだことが西田に弟子入りするきっかけになったのは、それが三木にとって運命的な出会いだったからでしょう。先生がよく言われる〈縁〉の例ではないかと思いました。
直:『読書と人生』という三木の随筆集には、恩師に寄せる真情が率直につづられています。美しい師弟関係の見本のような文章です。機会があれば、ぜひ読んでみてください。
中:読みたいと思います。「美しい師弟関係」を感じられたのは、どんなところでしょうか。
直:難しい議論ではない、たとえば、久しぶりに先生の家を訪ねたとき、先生から「どうだ、勉強しているか」と問われることがある。怠けているときにそれを言われると、実に痛い、というような述懐が綴られています。弟子の成長に心を配る師、師を尊敬する弟子、それぞれの思いが伝わってきます。
中:西田と三木の哲学の立場は、そんなに近くないのでしょう。なのに、たがいを思いやる師弟の絆が生き続けている。何か不思議な気がするのですが……
直:そうおっしゃるのも、もっともです。人間同士、考え方がちがえば、人間関係も疎遠になるのがふつう。世間一般の人付き合いは、そういうものです。親子など肉親同士の関係でも、チョットした行き違いで壊れることがあるのは、ふつうの話です。ところが、師弟の絆だけはそうならない。不思議ですが、私の経験上からも、そう思います。
猛:師弟の絆は別にして、三木が「形の論理」を主題化してから、続いて西田も「形の論理」ということを言い出したと。先生はそういう事実を指摘されています。そういう事実があったことは、二人の哲学に共通点があることの証拠ではないでしょうか。
直:本質的なポイントにふれてくれましたね。そのとおり、最初に弟子の三木が唱えた「形の論理」を、遅れて西田も言い出すようになりました。この点に関して、通常の師弟関係とはあべこべの事態が生じています。
中:先生が先に言ったことを生徒が繰り返す、ということならふつうのあり方ですが、「形の論理」に関しては、その逆の事態が起こったわけですね。どうして、そうなったのでしょう。
直:「京都学派」と呼ばれる人々のあいだでは、誰かが使い出した用語や概念を、周囲の者が遠慮なく利用する習いがあったと。そういうことが書かれている文章を、読んだことがあります。西田哲学の用語を、弟子たちは自分のもののように使用する。その代わりに、弟子が発表したアイディアに、師である西田もはばかりなく便乗する。「形の論理」も、そういう事例の一つと考えられます。
中:私の知るかぎり、技術の世界では、他人のアイディアを無断で借用するということは許されません。昔の京都学派では、それが許されていたということですか、フーン。
猛:だとしても、「形の論理」が師弟で共有されたということは、三木と西田の考えに共通する部分があったからでしょう。二人の哲学に本質的な近さがあった、という風に考えるべきではないでしょうか。
直:そのとおりです。三木と西田に共通する考えがあるからこそ、同じ「形の論理」を唱えているわけです。それについては、しばらく前、6月-7月の〈かたちの論理〉(上)(下)と、8月からの本シリーズ第一回(西田幾多郎)でも言及しています。同じ話にしないために、ここでは『構想力の論理』を取り上げて、そのポイントを見ることにしましょう。
『構想力の論理』総括
猛:三木の主著だということですが、僕はまだ読んでいません。どんな本なのですか。
直:現在、岩波文庫から刊行されているのは、『構想力の論理 第一』と『第二』の二巻。1937年から着手された『第一』は、「神話」「制度」「技術」の三章、『第二』は「第四章 経験」として、1943年までに書き上げられたところで終わっています。第四章の最後に、続いて「言語」を扱うとして、第三巻の予定が告げられていますが、その計画は実現しませんでした。この書物は「未完」でありながら、三木の哲学全体を物語る代表作、主著と見られているわけです。
猛:未完に終わった理由は何ですか。先ほど講義でおっしゃった「獄死」ということですか。
直:そうです、それが決定的な理由です。
猛:ということは、もしそれがなければ、『構想力の論理』は書き継がれて完成した、ということでしょうか。
直:くわしい事情については、藤田正勝先生の書かれた文庫版の「解説」を読んでください。三木の人間と思想について、非常にていねいな紹介が為されています。少しくわしく言うと、三木は治安維持法違反の疑いで追われている共産主義者をかくまった容疑で逮捕され、敗戦後の1945年9月26日に獄中で亡くなっています。死因は疥癬、不潔な環境がもたらした皮膚病です。
中:時局が生んだ悲劇ですね、もしそういうことがなければ、三木は生きながらえて『構想力の論理』を完成させたでしょうに。
直:言われたことの前半は、おっしゃるとおり。ですが、後半については留保したい点があります。
猛:それはどういうことですか。書物として完成させられないような事情が、獄死以外に何かあるのですか。
直:もし三木が獄死せずに戦後まで生き延びたなら、「言語」やの他の章が予定されていれば、それらを仕上げて、書物を完成させることは、たぶんできたでしょう。私が言いたいのは、そういうことではありません。「構想力の論理」の主旨は、先ほども言ったように「形の論理」。「神話」から始めて「経験」に至る論述の内容から推して、目標とする「形の論理」には到達しないということが予想されるのです。
猛:「構想力の論理」が「形の論理」に到達しない、とはオドロキです。それはどうしてでしょうか。
直:簡単に一言で説明がつく話ではありません。しかし、出来るだけ説明してみることにしましょう。君は、三木が「ロゴスとパトスとの統一」を、人間学のテーマとしたことは知っていますか。
猛:そういうテーマが追究されたというぐらいのことなら、知っていますが、あまりくわしいことは知りません。
直:ロゴスとパトスとは、反対の概念です。この二つをいかに統一するかということが、三木人間学の課題でした。こういう言い方で通じますか、中道さん?
中:ロゴスとパトスを〈理性と感情〉というように考えれば、ついていくことができます。日々の生活の中でも、理性と感情の葛藤はしょっちゅう起こっていますから。
直:それで結構です。西洋哲学の主流は、合理的に思考するロゴスの立場。それに対して、三木がパスカルやハイデガーからつかんだのは、人間が合理的に割り切ることのできない情念、パトスに動かされる存在であるという事実でした。
中:ふつうの者にとっては、理性は大事だけれど感情も大切だ、両方のバランスをとる必要がある、という風に考えます。そういう問題ではないのですか。
直:おっしゃるとおり、何でも程々にバランスをとる、というのが生活の智恵。ところが、哲学の世界ではそういう〈常識〉が通用しない。なぜだか分かりますか、猛志君?
猛:エッ、そんな急に言われても……「程々」という解決が、哲学の論理ではできないということでしょうか。
直:どうやら君も、私の言いたいことに先回りできるようになりましたね。そうです、「適当」とか「チョボチョボ」という考え方が哲学にはない。なぜなら、哲学の論理で中心になっているのは、物事を白か黒かで分ける二分法、二値論理だからです。この点を突いた人が誰かは、ご存じですね。
中:山内得立。〈中の論理〉は、白でもなく黒でもない、もしくは白でもあり黒でもある、という〈中間〉を言い表すということを、先生から教えられました。
猛:それは僕も承知しています。でも、それが「ロゴスとパトスの統一」というテーマにどう結びつくのですか。
直:ロゴスとパトスとの「弁証法的統一」を果たそうという狙いで、『構想力の論理』が書かれました。弁証法は、白か黒か、二つに一つという論理形式を表します。ですから、弁証法で「ロゴスとパトスの統一」を果たすことは、無理だということになるのです。
猛:「第四章 経験」は、カントの『判断力批判』に出てくる「構想力」(Einbildungskraft)が考察のテーマになっています。それでも、弁証法について言われたような限界があるということですか。
直:カントであろうと誰であろうと、同じことです。西洋哲学の概念には、二分法的な割り切りがつきまといます。白か黒かに分けてしまう発想の長所と短所、その短所が「形の論理」の実現を妨げると言わなくてはなりません。
猛:確認ですが、そういうことなら、たとえ三木が生き延びて『構想力の論理』を仕上げることができたとしても、その中で目標とされた「形の論理」は、実現されずに終わっただろうということですね。
直:タラレバは禁物ですが、三木あるいは西田が、従来どおり西洋哲学のイディオムに固執し続けるかぎり、「形の論理」は砂上楼閣に終わる以外にない。そのことに気がついた者は、彼らとは異なる戦略を立てることから始めなければならないのです。
〈かたちの論理〉へ
猛:先生の言われる〈かたちの論理〉は、三木や西田が追究した「形の論理」とは異なるそうですが、具体的に何がどう異なるのですか。
直:ご覧のとおり、〈かたち〉と〈形〉の違い、仮名表記と漢字表記の違いです。
猛:そんな些細な違いに、どういう意味があるのですか。僕には判りません。
直:仮名表記〈かたち〉は日本語を表し、漢字表記「形」は翻訳語を表すと言えば、些細な違いというわけにはいかないでしょう。三木は、「形」を英語で「フォーム」と訳されるような概念として取り扱っています。私の場合は、〈かたち〉が日本語であって、他の言語に置き換えることができない意味をもつというところから考えています。
猛:おっしゃることの意味が解りません。僕からすると、「形」と「フォーム」に意味の違いがあるようには思えません。
直:フォームを「型」を表す言葉として、パターン、タイプ、スタイルなどの類義語から区別する研究があります(源了圓『型と日本文化』創文社、1992年に収められた同名の論文参照)。これら三つの単語に意味の違いがあることは、英語を学んだ生徒ならだれでも理解できます。ですが、「型」と「形」の違いをキチンと説明することができますか、中道さん?
中:こちらにお鉢が回ってきましたか。先生が「型」と「形」の区別にこだわっておられることは知っています。しかし、私はそんなことを考えたことがありませんから、何とも言えません。
直:『型』(創文社、1989年)という立派な本を書かれた源先生は、「型」を表す語としてフォームを取り上げています。ところが、「形の論理」を追及する三木の方は、「形」はイメージ(文中の表記は「イメージュ」)ではなくフォームである、と主張しています(『構想力の論理 第一』116頁)。一人は「型」を、もう一人は「形」を意味する言葉として、フォームを使用しているわけです。この事実から、何が判りますか、猛志君?
猛:フォームという英語が、「型」と「形」のどちらにも対応するということは、「型」と「形」との区別が日本語ではハッキリしない、ということではないでしょうか。
直:そのとおりです。日本人研究者は、イメージやフォームといった西洋語の概念については、意味の違いをうるさく詮索するけれども、それに対応する日本語について、「形」と「型」の違いを問題にしていないのです。
猛:そうかもしれないけれども、フォームとイメージの違いに相当するような明確な差異が「形」と「型」にはないから、どちらの語でもかまわない、ということになるのじゃありませんか。
直:語意の違いがハッキリしないということと、混用してよいかどうかとは、別の問題です。「形」と「型」には微妙な違いがあって、混用されることもしばしばある――たとえば、『日本文化のかくれた形』(岩波現代文庫)という本、「形」に「かた」というルビがふってあるように、「形」と「型」の区別をあえて無効にするような語用が見られます。オカシイと思われませんか。
中:言われてみれば、変ですね。「かたち」と「かた」、この二つに意味の違いがあるからこそ、違う漢字が充てられているのでしょうから。
直:柔道や剣道では、「形」と書いて「かた」と読ませるのがふつうです。そういう慣用があるぐらい、〈かたち〉と〈かた〉の区別には難しいところがある。日本語で哲学をするならば、そういうデリケートな問題から始めなければならない。そう考えて、私は日本語の意味に無神経な「形の論理」に背を向けて、仮名表記による〈かたちの論理〉に取り組もうとしたわけです。
三木清の遺産
中:いまのお話で、先生が〈かたちの論理〉を追究してこられた理由がだいぶ判ってきました。〈かたち〉と〈かた〉とは、「ち」があるか無いかのわずかな違い。しかし、そこに日本語の世界ならではの哲学的な問題が関係してくるのだ、と考えられたわけですね。
直:こちらの意図を理解していただけたことは、ありがたい。日本人が日本語で考え、日本語で表現する。この事実からスタートしないかぎり、「日本の哲学」をつくりあげることはおぼつかない。そういうことを言いたかったのです。
猛:日本語にこだわって考えなければならないと言われたことは、なるほどと思います。けれども、三木清がカントの「構想力」に注目して「形の論理」をめざしたことは、翻訳語でしかなくても、「形」を手がかりに人類普遍の問題に取り組もうとした証(あかし)ではないかと思うのです。三木がめざしたものは、「日本の哲学」というより、もっと大きな「世界の哲学」「人類の哲学」ではなかったのか。そういう気がするのですけれども。
直:君の言おうとすることは、よく解ります。哲学がめざすべきは、「人類の哲学」というものだと。その点に、異存はまったくありません。私が言いたいのは、そういう普遍的な地平を開くためにこそ、まず自分自身が位置する特殊な地点、日本という風土に根ざした「日本の哲学」に取りかからなければならない。日本人がその地点に立って、〈特殊をつうじて普遍へ〉という課題を引き受けなければならないということです。
中:いま最後におっしゃったことが、「30年代の哲学者」シリーズの結論であると受け取ってもよろしいでしょうか。
直:ええ。西田から三木に至る5人を取り上げましたが、彼らの取り組みは、すべて日本という特殊と世界という普遍とをいかに結びつけるべきか、という「日本の哲学」ならではの課題への挑戦でした。三木のしたことは、西田の「無の論理」をベースにして、新しいものをいかにしてつくりだすかを、「形の論理」に仕上げることだったと考えられます。その企てがうまくいかなかった、という話で終わるのは残念ですが、仕方がない。彼らの後につづくわれわれは、彼らの残した貴重な遺産を活かさなければならない責務を負っています。




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