1 易の不思議
はや一年の終わり、さて何を書こうか?というとき、これしかないというテーマがあることに思いあたりました。それは「易」。このテーマに頭が占領される状態が、ここしばらく続いています。年の瀬にそんな近況報告でお茶を濁すことを、お許し願います。
易というのは、平たく言えば「占い」のこと。頭に小さな帽子を載せた易者が、手にもった細い棒――筮竹(ぜいちく)――を操作する手順をつうじて、相談者の運勢を予言する。TVなどでおなじみのシーンですが、中国では未来予測の技術として三千年以上昔に発生し、代々受け継がれて今日まで伝わってきました。長い歴史の中で、最初は亀の甲羅や獣骨を焼いて、そのひび割れ方から吉凶を占う方式だったものが、筮竹を用いる占筮(せんぜい)にとって代わられ、占いの結果を一定数のパターンに分類する理論が、易経にまとめられました。原始的なおまじないの類であった占いの技術が、易経というテクストを生み、易学という学問になった。そのこと自体、オドロキではないでしょうか。
もっと驚くことがあります。中国の思想史に登場する最初の偉人が孔子、孔子から始まる学問が儒教であることは、どなたもよくご存じでしょう。易は、殷王朝かそれよりも以前に始まり、儒教は周代につづく春秋戦国時代以後の学問。この二つは、まったく異なるルーツに立つ流れですが、二つの伝統はやがて合流して一体になったと。儒教の古典である『中庸』に関心のある私は、この事実を知って仰天しました。だって、『論語』に出てくる「仁」などの教えは、道徳の哲学。それが占いの技術である易と結びつくなんて、まさか!どう思われますか。
半信半疑でいた私に、そのことを納得させてくれた書物が、武内義雄『易と中庸の研究』(岩波書店、1943年)です。孔子の孫である子思が書いたとされる『中庸』は、子思一人の著作ではなく、弟子である子思学派が手を加えることで出来上がった。そうした経緯から、儒教に易の考えが入り込む一方、易が儒教以外に道教、仏教などと融合していく過程について、武内著は「なるほど」とうなずかせてくれます。『中庸』冒頭の「天の命ずるをこれ性と謂う…」に表現された「天命」は、易が想定する宇宙――天地人――の構造に結びついており、天と人とが切り離せない「天人相関」――それを表現したのは、孟子――に立つということが、よく分かります。『中庸』の核心にあるのは、宇宙全体と自身とが連帯していることを己の「性」として自覚せよ、という教えです。天命に忠実な生き方が、書物後半のテーマである「誠」のスローガンに込められているのです。
占いの理論である易経には、宇宙論・自然哲学が含まれているから、その部分を一種の「科学」と見ることも不可能ではない。易と儒教とが一体化したということは、「科学」(自然哲学)と道徳哲学とが一体になった「百科全書」的な学問が中国に成立したことを意味します。そういう展開が生じたことを納得させてくれる書物を挙げましょう。本田済『易学――成立と展開』(講談社学術文庫、2021年)。冒頭、「易は占筮(うらない)の書である」から始まるように、そこには易を深遠な思想書として持ち上げる解釈は見られません。易を脱神秘化する姿勢が徹底しています。しかし、「divination[占い]という低級な技術」(113頁)が、どういう事情から倫理と一つになったのか。本田著では、春秋戦国の群雄割拠の時代から統一王朝である秦漢帝国へ、という歴史の流れが、易の宇宙論と儒教の倫理道徳との合体を生み出すように方向づけた、という歴史的な解釈が行われています。
必要あって、これまで縁のなかった易に目を向けた私に、武内、本田両先生の研究は、文字どおり「目からウロコが落ちる」発見をもたらしました。そのうえで、なお残る根本的な疑問――どうして中国人は、昔から今に至るまで、易にこれほど深い関心をもち続けてきたのか?どなたか、このナイーヴな疑問に答えてくださる方は、いらっしゃいませんか。
2 木岡哲学塾の活動報告
Ⅰ 木岡哲学対話の会
12月7日(日)に、本年度第9回を開催しました。
◎2025年度第9回木岡哲学対話の会
《運命に向き直る》
○日時:12月7日(日)13:00-16:00
○会場:大阪駅前第三ビル17F第7会議室
○内容:
1)哲学講話:《偶然と必然のあいだ》
占いの技術である易と儒教の道徳哲学とが結びついた中国特有の事情を参照しながら、運命をいかに切り拓くかという課題について、意見を交わしました
2)哲学対話:《宿命を運命に変えて生きる》
自身と伴侶とを相次いで襲った災厄に直面して、発表者が何を考えどうふるまったかを、現在の視点から振り返りました。
3)その他
第9回までを振り返る「総括討議アンケート」を実施しました。回答は、本年度最終回(2026年1月4日)の資料として役立てられます。
Ⅱ 哲学ゼミ
今月はお休みとし、2026年1月に次のとおり行われる予定です。
〇日時:2026年1月25日(日)13:00-16:00
○内容:
1)プラトン『国家』第九巻の読解
僭主独裁制の検討につづいて、幸福という観点から見た正しい生と不正な生との比較が論じられます。
2)発表と討論
メンバーによる発表、それを承けての討議が行われます。
3)その他
Ⅲ 個人指導
参加者各自の事情に合わせて、読書指導・論文指導・発表指導などを続けています。常時5,6名を相手に、2~4週に1回程度のレッスンを継続しているほか、「木岡哲学対話の会」での発表などに合わせて、臨時の指導を行うこともあります。