- このトピックには2件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 6ヶ月前に更新されました。
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河村晃太郎ゲスト
山内先生の『ロゴスとレンマ』においては、テトラレンマが全てであるかのような印象を受けるのですが、私の浅薄な理解では、中観派は最終的に空によって四論=レンマを否定する、という構造になっていたかと存じます。即ち、両否・両是の後、空により、両否も両是もない、と今一度ひっくり返すのが、空=縁起の思想かと思っております。先生の「邂逅」は、そのレンマを超えた空と同じものと考えて差し支えないものなのでしょうか?
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木岡伸夫ゲスト
テトラレンマは、「Aでもなく非Aでもない」(両非)という第三レンマから、「Aでもあり非Aでもある」(両是)という第四レンマに転じる、という独特な論理を意味します。二重否定から二重肯定に転じる、という常識的には考えられない飛躍自体が、「空」の開けであると私は考えます(それが、山内の真意であると見ています)。「両非・両是の後」ではなく、「両非から両是への転回」そのものを「空」と捉える点が、貴方のお考えといささか異なります。肯定でも否定でもないあり方を「絶対否定」というなら、それを「空」と呼ぶことができる。その点は、お説と別に異なりませんが、否定・肯定の切り替わるダイナミクスに重きを置くところが、私のこだわりです。というのも、このダイナミクスによって開かれる〈あいだ〉(中)こそ、〈邂逅〉の成立次元であって、「中」なしに〈出会い〉はありえないというのが、私の〈邂逅の論理〉の要となる主張なのです。
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浦靖宜ゲスト
ちなみになぜ否定の否定のような七面倒くさい論理が(大乗)仏教で必要とされるのかというと、
例えば愛は一般的に良いものだとされていますよね。親子の愛、夫婦の情愛をあからさまに否定する人はいません。
でも仏教では否定しますよね。それは煩悩だ、執着だと。愛に執着するから私たちは苦しむんです。愛別離苦というやつです。
仏道の基本は執着を捨てること。だから出家して、家族を、妻や夫を捨てる必要があるのです。愛の否定です。でも日本での仏教のイメージはなんとなく慈愛に満ちた観音様が衆生を救うみたいな感じですね。本来の仏教と真逆です。なぜこんなことになったのか。
それは、「執着を捨てなければならない」「愛を捨てなければならない」という思いもまた執着になっちゃうからです。
執着を捨てて悟りを得たいという利己心と、欲に塗れてはいても自分を捨てて他を思いやる面もある愛とどちらが大事なのか。
だからもう一度、愛を肯定するのです。愛の否定の否定です。
それも単に肯定するというより、愛を肯定するのも否定するのもどっちでもいいくらいの境地に立つということです。観音様はそんな感じですね。
私が誰かを愛するのを、「執着だ」と後ろ指差す奴も執着してるダメな奴なんです。
執着も愛も、対象にはなく、そうした区別をする心にある。対象そのものが愛であったり執着であったりするわけではない。それが「ものは空である」ということです。という言い方をすると結構分かりやすいのではないでしょうか。抽象的な「空」も、具体的な実践の中で生まれてきた思想です。
とはいえ、「愛の否定の否定」とか「ものは空である」という言葉もまた囚われを生むので、とにかく否定の否定の否定の・・・という無限の運動が必要というか、そう表現するのもまた囚われなので、まあ言葉を信用してはいけないということになります。(この言葉を信用すべきかどうか・・・)
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