1 ソクラテスの恋
プラトンの対話篇『ゴルギアス』の中で、ソクラテスは対話の相手カルリクレスに向かって、自分には二人の恋人がいると告白します。そのうちの一人は、美男子として知られたアルキビアデス。そしてもう一人は、哲学であると。エッ、哲学が恋人⁉ 意外に思われるでしょうが、それにふれる前に、人間相手の恋について説明します。
古代ギリシアは、少年愛の世界です。ソクラテスを死刑に追いやった告発理由の一つは、若者を堕落させたというもの。アルキビアデスとの親密な関係が、理由の一つとされたようです――中澤務訳『饗宴』(光文社古典新訳文庫)の「解説」には、そのあたりの事情がくわしく説明されています。現代に生きる私たちの「常識」では、哲学の元祖ともいえるソクラテスが、少年愛にハマっていたなんて!と意外に受けとられるかもしれません。LGBTをやかましく言う現代社会ですが、人が人を愛するということの意味を、一から考えてみるチャンスだと言えるように思われます。『饗宴』の副題は、「恋について」。登場する人物名をタイトルとする『パイドロス』の副題は、「美について」。両作ともに、恋や愛について書かれた一級の文学作品です。後者では、恋が「神的狂気」であるということの本質を、ソクラテス自身が、ミュートス(神話)のような語り口で、見事に語り明かしています。現実のソクラテスは、写真から窺われるように、醜男(ぶおとこ)だったようですが、比類のない精神の気高さに、美男子アルキビアデスの心が傾いたのではないかと想像されます。
さて、哲学との恋について。カルリクレスとの対話の中で、ソクラテスは、人間は心変わりするけれども、哲学には移り気なところはない、という言い方で哲学という恋人を称えています。恋の相手である哲学が、心変わりしないのは当然です。では、恋する側の人間は、どうでしょうか。ソクラテスの哲学に対する恋は、アゴラ(広場)を通りかかる人たちをつかまえて、問答を吹っかけるというやり方です。対話することは、ソクラテスにとって、哲学への恋が稔るかどうかを賭けた、そのつど一回きりの勝負だったと思われます。人々と対話することをつうじて、おのれがいかに無知であるかを相手に悟らせたこと、それが彼を刑死に追いやった根本原因です。その行為が、アテネの市民たちよりも自分を上位に置く不遜なふるまいである、として告発されたわけです。しかし、それはまったくの誤解であり、ソクラテス自身は、他の人々と同じく無知であるけれども、その無知を自覚している点において、人々よりも半歩先んじているにすぎない。『ソクラテスの弁明』からは、本人のこうした説明に嘘偽りのないことが伝わってきます。それが、哲学との生涯をかけた恋であるなら、その結末がみずからの死を招いたことも受け容れよう、というのが彼の態度であったことに間違いありません。
関大在任中、卒業式のスピーチで、ソクラテスの死を取り上げたことがあります。死刑執行当日の早朝、国外脱出の手はずを整えてやってきた友人たちを前に、ソクラテスは、自分が死ななければならない理由を語り出して、逃亡への誘いを拒絶します(関心のある方は、『クリトン』を読んでください)。その行為は、この話の文脈で言えば、哲学との恋を成就するための最後の決断であったと考えられます。私が卒業生に送った言葉は、君たちもこの私自身も、ソクラテスとは違い、逃げようとするはずだ、それは避けられない。けれども、逃げたことを忘れるな、哲学にかかわる者のできることはそれだけだと。はばかりながら、稔るかどうかも判らない哲学相手の恋に、後期高齢者となった今日まで、しがみついてきた私です。ソクラテスなら、意外にシブトイ奴やな、と認めてくれるかもしれません――陰の声:自分で言うとりゃ、世話ないわ!
2 「木岡哲学対話の会」参加者募集
◎募集人数:若干名
「木岡哲学対話の会」は、本年6月より会場を変更して、従来どおりの活動を続けています。12名定員の旧会場から20名収容の現会場に移ったことにより、新たに参加者を受け容れることのできる状況が生まれました。参加を希望される方は、下記のアドレス宛に、理由を添えてお申し込みください。申し込み先着順につき、ご希望に添えない場合があることを、あらかじめご了承ください。
→申し込み先:n.kioka@s3.dion.ne.jp(木岡伸夫)
3 木岡哲学塾の活動状況
Ⅰ 木岡哲学対話の会
2026年度の第5回は、以下のとおり行われました。
◎2026年度第5回木岡哲学対話の会
《対話は誰のために》
○日時:7月5日(日)13:00-16:00
○会場:大正会館(大正区コミュニティセンター)2F第7会議室
○内容:
1)哲学講話:《対話の哲学――ソクラテスとプラトン》
対話の目的を、対話それ自体と考えるソクラテスと、知識に到達するための最終学課と把えるプラトン。哲学および対話をめぐる両者の対照的な立場を紹介して、二つの選択肢があることを示しました。
2)哲学対話:《AI時代の知力とは?》
AI agentとの協働作業を模索する発表者が、豊富な資料を用いて自身の実践例を示しながら、「知見をデータに代える」ことの必要性を訴えました。
3)その他
「対話の哲学」をテーマとする新著の執筆に向けて、アンケートを実施しました。同時に、「哲学対話」における発表の意義が、自己表現をつうじて〈問い〉を共有することである、という哲学対話の原点を再確認しました。
◎2に記したとおり、新しい会場に移転して最初の開催となりました。これまでの会場に比べると、ゆったりしたスペースで、対話により好適と感じられます。
Ⅱ 哲学ゼミ
6月に行われたゼミは、次のとおりです。
〇日時:2026年6月14日(日)13:00-16:00
○内容:
1)ルソー『社会契約論』第3回
テクストの第二篇第一章~第五章を読み合わせました。次回は、「第六章 法について」以後を読む予定です。
2)研究ガイダンス
主宰者自身の研究歴を振り返り、メンバー各位のテーマに沿った研究の進め方について助言を行いました。
Ⅲ 個人指導
参加者個々の事情に合わせて、読書指導・論文指導・発表指導などを続けています。常時7,8名を相手に、3~4週に1回程度のレッスンを継続しています。「木岡哲学対話の会」や他の催しでの発表に合わせた指導も行っています。遠隔地に移住したメンバーとは、Zoomを利用したリモート形式の指導を行っています。参加者と相談して取り上げてきたテクストには、次のようなものがあります。
プラトン『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『国家』、ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』『思想と動くもの』『精神のエネルギー』、ホワイトヘッド『過程と実在』、サイード『パレスチナ問題』、アレント『責任と判断』、『中庸』、『荘子』、武内義雄『易と中庸の研究』、山内得立『新しい道徳の問題点』『意味の形而上学』、和辻哲郎「日本語と哲学の問題」、宗左近『宮沢賢治の謎』。