- このトピックには19件の返信、1人の参加者があり、最後に土屋隆生により4年、 6ヶ月前に更新されました。
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kiba1951ゲスト
二元論について「原因と結果の関係が、二元論である」とも「白は白であって、黒ではない。黒は黒であって、白ではない」とも書かれています。
1、物事・事件には「原因」と「結果」以外にも「環境」・「評価」・「目的」・「手段」・「組織」・「方法」・「手順」・「効果」等がありますが、これ等は何処に位置するのでしょうか?
2、「白」と「黒」以外に「限りない灰色」があると思います。それでは以下の様な事態も多いと思いますが如何でしょうか?
①何の色も付いていない「無色透明」若しくは真っ暗で「なにも見えない」ような状態。
②0も数に含まれますが、セルに何の数値も入力されていない空白という場合。
③裁判でも無罪判決とは別に訴訟却下というのがあります。
3、「境」が平面上の線なら簡単にイメージできますが、星雲の一部が重なった様な場合は三次元構造となり何処が境なのか判別し辛いですし、移動中ならば4次元構造で境界は変化し続けます。 -
浦靖宜ゲスト
私なりに答えますと(ごめんなさい。勝手に。今日休みで暇なんです)
1.「原因」と「結果」は因果律という特別な法則として観念されていて、「環境」・「評価」etc…は全て「原因」と「結果」に還元されてしまうのではないかと思います。仏教はそんな感じですよね。「環境」が「原因」の一つであることもあるし、「目的」を設定したことが「原因」になることもあるでしょう。「評価」は「結果」として得られるものでもあり、「悪い評価」が次の行動の「原因」になり得ます。2.①何の色もついていない「無色透明」なものを本当に認識できるかどうかはわかりません。多分、コップの中の水とかを想定しているのかなと思います。確かに「無色透明」感はあります(厳密には僅かに青いんですがね)が、それも周りの風景に色があり、相対的に無色に見えると考えるべきでしょうか。もし世界が全く無色透明なら、無色透明であることを認識できないと思います。真っ暗で「何も見えない」というのも「「何も見えない」という風に見えている」わけですね。私は暗室に入ると黒いと感じますが、それは普段それ以外の色を光を通して見ているので、光の届かない暗室では、光を吸収して目に反射させない色である黒と同じように見えるのでしょう。
②0が存在する、0という数があるというのはインド的発想ですね。0はそれまで10や100といった時の一の位や十の位の空位、つまり位取りの0として使われていました。インド人が初めて、「いや位取りという便宜的な記号としての0ではなく、0という数が存在するんだ」と考えたようです。エクセルのセルに0を記入すると空白になるのは、0を位取りの0、空位と認識しているからではないでしょうか?もちろんセルの文字設定を数字に変えれば0として認識するでしょう。
①とも関わりますが、0が存在すると認められたのは、1や2といった他の数字の関係性からきているのではないでしょうか。「2個の石から1個とると残りは1個。そこらもう1個取れば、石はなくなる。いや無いという意味で石がある」みたいな。石が今はない=無と言えるのは、さっきまで石が1個あったからで、一個が無を認識させている。「一個は数字何だから、じゃあ無も数字でいいじゃん」みたいな。これは唯識派における「空」の理解ですが、「空」は虚無ではありません。『瑜伽師地論』には「空」とは何かを論じる場面で「これにそれが存在しないことが、“それ”を正しく空であると観察したことである。また、これにおいてそれ以外のものが存在することが、それ以外のものが実在するとありのままに知ることである」と述べています。彼らはめっちゃ代名詞使うのでわかりにくいですが、「これ」を部屋、「それ」を人に置き換えると
「部屋の中に人がいないことが、人が空であると観察したことだ」となります。部屋という場所性なしに、あれがない、これがないというのは間違っている。何かが無いといえるのは、それが在る無いといえる場所が想定されている時のみだ。場所なしに、あるも無いも無いというわけです。逆に場所があることで、その場所に「無い」ことが在るわけです。ちょっとカントの感性論に似てますね。空間のアプリオリ性みたいな。
以上の「空」理解は龍樹などの中観派の「空」理解ともまた違うと思われますが(これから勉強します)、何かが在る無いというにも別の何かとの関係性として捉えなければならないというのがインドから伝わる仏教の考え方かと思います。③訴訟却下は、単に手続き上、間違いがあったり、理由が妥当じゃなから却下されるものでは無いでしょうか。
3.星雲は肉眼では二次元的に見るしかないし、今の科学技術を使えばスクリーン上では三次元で見れそうですね。宇宙遊泳ができたら時間の推移も考慮しないといけないかも・・・。ただ「星雲」が存在しているわけではなくて、ある宇宙の塵芥の塊のように見える部分を「星雲」とこちらが勝手に認識しているわけです。もちろん科学的に定義はありますし、それぞれの星の重力の影響関係みたいなもので、境界をある程度割り出せるでしょう。我々の認識もそれに基づいているわけですが、宇宙全体を見通す能力があれば、塵芥(でかいでしょうけど)がお互い影響し合いながら浮いているだけですよね。そして全く影響を受けない塵芥もある。そういうスケールであれば、そもそも「境」など無意味なのかもしれません。もちろん先ほど重力云々と述べたように「星雲」という科学的知が無意味なわけではなく、とても有用ですが。スケールを変えることで、見方を変えられるのが哲学の面白いところですね。
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浦靖宜ゲスト
あ、でも質問は、それと木岡先生の二元論理解がどう関わっているのかですよね。失礼しました。木岡先生の応答が楽しみです。
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木岡伸夫ゲスト
「二元論とは何か」という問いに対する内容豊かな反省が、お二人から提出されるのを、感嘆して読んでいます。当方、こういう場では大雑把な説明で済ませる習いがあり、このトピックについても、若干の卑見を呈するにとどめます。
1)二元論批判の意図:私の意図は、「二元論とは何か」を究明することではありません。〈あいだを閉ざす〉近代合理主義の根幹を、「二元論的思考」に認め、その由来がプラトン以来のフィロソフィア(哲学)にあるという見当をつけ、古代から現代に至る西洋思想が、二者を弁別する「ロゴス的論理」=二元論にもとづく、という図式を立てたのです(すべて、山内得立からの示唆による)。そういう大雑把な括りを立てるのは、「敵」の旗印を見定め、その本陣にひたすら迫るための便宜として、です――大坂夏の陣で、家康の本陣に真田幸村が突入したように。なぜ、いかなる意味において、それが「敵」なのか、という点については、より新しい大竹太郎さんのコメントに対する意見として、いずれ説明します。
2)零の意味:昔、吉田洋一『零の発見』(岩波新書)という名著がよく読まれました。零の発見が、インドだかアラビアだか非西洋世界で起こったという事実は、きわめて重要な歴史的意義をもつと考えます。これは以前、ロゴスとレンマの線引きが簡単ではない、という文脈で、大学院講義「都市の風土学」に参加されていた土屋隆生さん(投稿者)から伺ったポイントです。遺憾ながら、それ以後、当方はゼロについて考える機会をもたないまま、今日に至りました。
3)「空」の理念:現時点で申し上げられるのは、私の風土学がどれだけ世の中に寄与できるかが、「空」の理念にかかっている、ということだけです。それは、二元論を肯定し、かつ超える、という二重の手続きが、「空」によって可能になるだろう、ということです。ロゴスとレンマの対立および統合のカギが、「空」――非の地平――にあるということを、最後(?)の著書『瞬間と刹那』で論明したいと考えています。 -
浦靖宜ゲスト
おお、次の御著作の予告が!
楽しみにしています。 -
土屋隆生ゲスト
木岡先生と浦さんとの間で議論されている「二元論」や「あいだの論理」興味深く拝読いたしました。その中で、説明の道具として「白」と「非白」または「黒」という「色」が引用されています。そのこと自体にも興味があったため、私が趣味としている油絵で使う色という点から考えてみました。それは、絵を描いているとき、「木岡哲学の会」で教えられた「あいだの論理」を思い浮かべるからです。
① まず、普通、風景や静物を描くとき、それらの色はそれ自体が本来もっている色だと思
い、それに合わせて絵具を選びます。それはそれでいいのですが、実は、対象物の色はそのもの自体がもつ本来の色ではなく、そこに当たって反射した光の色だということです。
② 次に、赤い薔薇は、薔薇に当たった太陽の白色光のうちに含まれている赤色を特に効率
よく反射しているため、人間の目には、赤く見えるということです。薔薇の成分自体が赤いためではないのです。同じように海の青も、みかんの黄も同じです。
➂ そして、太陽の白色は、光の三原色である 赤、青と緑の光が集まったものです。小学
生の頃、教師がプリズムを太陽にかざすと光が7色に分解されたことを思い出します。理論的には、7色以上の連続した無数の色に分解されますが、ほとんど人の目で判別することはできません。このことは、太陽の白色光は、その中にすべての色の光を含んでいるということを示しています。
④ では、白と黒以外の赤や青とは、何かということになりますが、人間は400(紫)から680(赤)ナノメートル(1ナノメートル=1/10億メートル)までの波長の色を見ることができ、一定の範囲の波長の光をそれぞれ反射する色に赤や青という名称がつけられています。ちなみに、色の見え方は、動物の種類によってかなり違うようです。鳥類は300ナノメートルの紫外線まで見えると言われています。上記の ➂から、純粋の「白」は、波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているものです。それ以外の色はすべて「非白」となります。では、純粋の「黒」とは何かというと、それは光も色も一切ない状態です。したがって、「白」と「黒」との関係は、性質の違いではなく、光の要素が「すべて有る」というのと「全く無い」という量的な違いです。その他、赤、青、黄、灰色は、光の要素の一部のみをもっているため、波長や明るさを基準にすると、すべてその「あいだ」に入るものとなります。
色に関しては、以上のように数値を使って客観的な因果関係で説明することができます。一方、議論の中にある「男と女」や「西洋と東洋」の二項対立については、数値ではなく質的な要素が絡み合っています。そのため、集合論的な視点で「あいだの論理」を考えるのがいいのかも知れませんが、その場合でも、視点の違いによって全く異なる結論がいくつも出てくるはずです。そしてそれら結論は、場合によりすべて正しいということもあり得ます。ただし、困ったことに、その正しい結論どうしが相反するという場合も想定されます。
このように、文化や価値観が判断基準に含まれる場合は、「AとAバー」の違いは、「証明」することができなくなることが分かります。では、どうするかと言えば、「定義」することになります。「男と女」や「西洋と東洋」については、それぞれの分野の学者や研究者が自説にもとづく「定義」を百家争鳴すればよいと思います。問題は、脳死のような重い事案についてですが、その場合の「定義は」生物学的な面からの判断ではなく、実際的な人への対処の仕方をどうするかという視点で、判断することになるので、個々人の価値観や倫理観に加えて、その人の置かれた立場によって、無数の変数で構成される連立方程式を解くように難しいものになります。したがって、専門家が枠組みを示したうえで、国民が納得するような法令を制定したうえで、担当病院の倫理委員会等が家族の気持ちを汲んで決めるということになると思います。
話を絵の方に戻すことにすると、絵の初心者に対して、私は、「白は白でない」とアドバイスすることがあります。例えば、建物の壁を描こうとした場合、その壁がテトラレンマ第3の「白でもなく、白でないこともない。」と第4の「白でもあり、白でないこともある。」という「あいだの論理」が頭に浮かぶからです。また、建物や樹木の陰の部分を描く場合も、色と色との“あいだ“となるので、混色の仕方に気を配る必要があります。絵をそれなりに描いている者がとる方法は同じようなものだと思いますが、ときに、「あいだの論理」との関係でそう考える者は他にいるのかなと思いつつ・・・・描いています。 以 上
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浦靖宜ゲスト
ある一つの回答から様々なことが触発されていくのが、哲学の面白いことであり、めんどくさいところでもあります。
土屋さんの回答からめんどくさいことを考えてしまいました。それは「水はH2Oなのか問題」です。
確かに土屋さんのいう通り、光が物体にあたる時、一部を吸収し、一部を反射することで我々はそれを色と認識しています。そうした仕組みは科学で説明可能です。では「白」とは「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているもの」なのでしょうか。我々は「白」という言葉を、そういう意味で使っているのでしょうか。「赤」は「660ナノメートルの波長」のことなのでしょうか。「紅色」はどうなるのでしょうか?「あかねいろ」はどうなるのでしょうか
日常的にはそういう意味で使ってなくても、科学的にはそうなのだ。紅色も、あかねいろもなんらかの波長の長さに還元可能だと主張するかもしれません。ある民族は「温かい色」と「冷たい色」という表現しか持たないみたいな話をソシュールの入門書かなんかで読んだ記憶がありますが、それも「ある長い波長からある短い波長までの色が彼らのいう温かい色だ」みたいに言えるかもしれません。では、人類がもし科学を発展させることができず、永久に光の波長など気づかない歴史を歩んだとして、その歴史の中の人類の「白」という言葉も「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているもの」であり、「赤」は「660ナノメートルの波長」のことなのでしょうか。
これは結構難しい問題です。私はそうじゃないと思いますが、そうでないという人を完全に論破できるとも思えません。
とはいえ、もし厳密に科学的たれと思うなら、曖昧な「白」という言葉は禁止にして、「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合して見える歯は綺麗だな」とか「水」という言葉は禁止にして「喉が渇いたからH2Oが飲みたい」というべきような気もしますが、これは意地悪な言い方ですね(笑)
土屋さんの言葉を借りれば「男と女」と同様、色も日常言語においては質的な何かな気がします。科学もまた日常言語を借用せざるを得ない。我々が言葉を使って表現している以上、これは避けられないような気がします。
「脳死」自体は科学的判定できても、それを「死」と見なすかは文化によって異なりますし、個々人で違うこともあるでしょう。
日本で「脳死」が「死」と受け入れられない理由に仏教の影響があるんじゃないかと思います。もしかしたらすでに何かの本で指摘されているかもしれません。
仏教は「死」を「識」と「温かさ」を失うことと捉えています。「識」はとても厄介な用語ですが、とりあえず精神ということでOKでしょう。「温かさ」は体温のことです。肉体が冷たくなった時が人が死んだ時です。私も子供の頃、大ばあちゃんの遺体を触って、それがとても冷たかった時に、はじめて「死んでる」ってことをリアルに感じた気がします。
「脳死」では肉体は生きているので温かいんですよね。「死んでいる」とは実感しづらいと思いますね。美術の授業で一番苦手なのが、彩色でした。色の微妙な変化、グラデーションを捉えて、彩色するのが本当に難しい。普通に「ここは白だから白をベタ塗りすりゃいいだろ」って塗ってましたね。ひどい。
「白だけど白じゃない」っていうのは彩色の心構えに良さそうですね。 -
土屋隆生ゲスト
浦さんには、面倒くさいことを考えさせてしまい、またお返事が遅くなてしまい、申しわけありません。ただ、「哲学には面白いところもある」ともおっしゃっていますし、そのとおりに、「白い歯」の話には一瞬ひとり笑いをしてしまいました。本当にああなったら、ウカウカお隣さんともおしゃべりできないし、恋人に手渡す薔薇でも、花の色が話題になったとき、薔薇の波長の数値を忘れてしまわないか心配で、気持ちを伝えるどころでありませんね。
浦さんの「赤なら赤という事実または現象を正確に伝える場合、どんな表現が適切なのか。」という疑問について考えてみました。私の説明が不十分だったせいがありますので、補足・修正させていただきますと、「波長680ナノメートルが赤色である。」と書いた部分は、正確には「人間には波長680ナノメートル近辺の一定の幅のある波長の光が赤色と認識される」ということです。例えば、730ナノメートルを越えていくと紫みのかかった赤色の「紅色」や「あかね色」に近づき、逆に、630ぐらいに落ちると黄みがかった「橙(オレンジ)色」に近づくというように、日常語で「赤」と表現した場合には、波長の幅が許容されているためです。
これに関連して考えると、「赤・あか」という言葉は、「7色の一つ。血のような色。また、緋色・紅色・朱色・茶色などの総称」(広辞苑)とあり、茶色まで含まれる広い範囲だと言っています。ところで、この「あか」という日本語は、有史以前の古代日本人から受け継がれてきた間に、「赤に近い色」を一定範囲で集約して、最大公約数の人が「あか」とひとくくりにしてもかまわないと認識したものを「赤・あか」という言葉を一種の「記号」として使うことにしたと理解することができるのではないでしょうか。
したがって、言葉としての「赤・あか」は、波長の基準での「赤」より、はるか昔から、人々の合意のもとに言葉として存在していたわけです。それに対して、波長による色の区分は、物理学の進歩によって、「赤・あか」という言葉の示す現象の内容が「680ナノメートル近辺の波長である。」ことが分かり、その「証明」ではないかと思います。そう考えると、両者は、日本人の合意にもとづく「記号」と研究と観測にもとづく「証明」という関係にあると思いますがいかがでしょうか。
それから、浦さんの「“男と女”と同様、色についても日常言語的には質的なものを感じる。」というご指摘については、まったく同感です。このことから、思い出したのは、相対性理論か何かに関連して、アインシュタインの「量は質を決定する。」という言葉です。その時は、まったく理解できませんでしたがーーー当たり前のことですがーーー光の波長の長短や、その量の違いによって、白や赤になったり青になったりと質的な面が変化するというのは、この理論が光や色に関してもピッタリ当てはまるのではないかと思いました。
あまり哲学的でない部分で、くどくどとした説明になってしまいましたが、浦さんからの疑問をいただいたお陰で、私も考えを広げることができたのではないかと喜んでいます。お返事を書いている間に思い出したことは、以前、絵のグループで研究会を開いた際に、みなに画用紙を2枚ずつ配り、それぞれに朝日と夕日を描き分けてくださいと言ったときの皆のとまどった顔が目に浮かんできました。お顔も存じあげない浦さんとこのように親しく意見を交わすことができるのも、木岡先生のホームページのお陰だと感謝しています。
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浦靖宜ゲスト
「恋人に手渡す薔薇でも、花の色が話題になったとき、薔薇の波長の数値を忘れてしまわないか心配で、気持ちを伝えるどころでありませんね。」←そんなSF、ありそうですね(笑)
別に謝る必要はありませんよ。
むしろ私の方が、哲学的な疑問をうまく表現することができていないので。すみません・
土屋さんがいいこと言ってくれました。
「日本人の合意にもとづく「記号」と研究と観測にもとづく「証明」という関係」
そう、その関係についての哲学的疑問です。
波長に幅をとっても、科学者は「赤とは波長680ナノメートル近辺の一定の幅のある波長の光を人間が認識したときに感じる色だ」みたいに定義するでしょう。
でも科学を知らなかった頃の日本人はそんな知識を知らずに赤という言葉を使っていた。科学的知識が導入された時に「赤」の定義が「波長云々」になってしまった。それどころかそれ以前からずっと「赤」とはそういうものだったということになってしまった。というところの不思議さを問題にしています。それで「水はH20か」という誰かが言ってた疑問を思い出したのですが、これはクリプキとパトナムの論争でしたね。彼らの本は実家にあるので機会があればGW中に取り寄せようかと思いますが、クリプキが科学によって水がH2O分子であると判明したことによって、「水はH20である」という命題は「アポステリオリに(経験的に)必然的に真である」としました。それに対して、パトナムは「もし地球と全く同じ双子の地球があって、そこの人間も我々と同じように海や川の液体を使ったり、飲んだりしていて、やはり我々と同じ言葉でそれを「水」と呼んでいたとする。ところが双子の地球には一つ大きな違いがあって、双子地球の「水」の科学組成はH2Oではなく、XYZだったのだ。それでも「水はH2Oである」という命題は「必然的な真」と言えるのか」みたいな反論をしたみたいな話だったと思います。(間違っている可能性があるので、要注意)
私は科学的なあるいは論理的な普遍性と、人々が偶然やってきたこと(言葉を使うこともそうですね)の結びつきに時々興味を抱くので、土屋さんに変なコメントをしてしまったのでした。
この種の問題に似たものとしては、ピタゴラスが「三平方の定理」を発見しなくても「三平方の定理」は存在しているのか(確かそんな感じ)、というフッサールが『幾何学の起源』で論じた問題がありますね。フッサールは「それでも誰かが「三平方の定理」を発見せねばならない」と主張しました。「三平方の定理」という普遍的=非歴史的知は、ピタゴラスによる発見という歴史に支えられているんだと。
最近は木岡先生の影響で、第三次仏教ブームが私の中に来てるのですが、仏教もまた普遍を扱うものとして同種の問題を抱えていたんだというのを師茂樹『論理と歴史 東アジア仏教論理学の形成と展開』という熱い(そして厚い…)本で知ったので、すぐ思考がそっちに引っ張られます。
朝日と夕日の違い。面白いですね。みんな戸惑うでしょうね。もし戸惑わないとしたら、よほど日頃観察している方か、仏教のコスモロジーを理解している人かですね。
仏教では東西南北の空(というかスメール山の四面)はそれぞれ(白)銀、水晶、エメラルド、金でできてるので、それで太陽の色の変化を説明しているようです。僧侶からすれば、朝日と夕日の色が違うなんて当たり前だろってところでしょうか。仏教でそこまで説明する必要あるのかと思わないではないですが(笑)、全部説明できないと普遍的でないですからねぇ。アインシュタインの「量が質を決める」って慧眼ですね(めっちゃ上から目線な言い方ですが)。実際、僕たち生命が原子に比べてなぜこんなに大きいのかも、「量が質を決める」からですよね。ミクロの世界じゃ、量子はランダムで捉え所がなく量子力学を使うしかないですが、僕らくらいの大きさ(ミジンコから銀河くらい幅がありそうですが)ならニュートン力学が適用できますし。
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土屋隆生ゲスト
早速ですが、浦さんが提示された「記号」と「証明」の関係についての疑問について、上手く伝わるかどうか分かりませんが、次のとおり考えてみました。「水」と「H2O」を例としておられるので、それをそのまま使って集合論的に説明させていただきます。
まず、世間で広く水と認識されている物質である「水」が1ℓあるとします。そして、その「水」は、「純水」100cc、海水100cc、雨水100cc、その他川の水等が700ccの不純物の混じった混合水だとします。もし、その混合水から「純水=H2O」だけを正確に分離した場合、その量は、100cc <「純水=H2O」の量 <1ℓ の範囲となり、残りが不純物です。この場合、「純水」は世間でいう「水」の範疇に入り、かつ「水」を構成する主要な要素であるということができます。
人びとが「純水」が「H2O」であることなど知らずに生きていた時代が過ぎて、近代に入って、元素とか分子という概念が確立され、「水」を構成する「純水」が水素2と酸素1の割合で化合した物質であることが発見され、実験で再現することもできるようになり、それが「証明」されるまでになった結果が「H2O」です。このように、「H2O」ももちろん「記号」ですが、この記号化はHもOも量的にも質的にも実験等で「証明」された事実についての「証明」を簡潔にするための手段として、発見した科学者が主となって決めたものです。一方、同じように記号化された「水」の方は、広辞苑の説明にもあるように、日常生活において「時代をまたぐ多数の人がその呼称でいいよ」ということを基準として長い間に共通の言葉として記号化されたものだという違いがあります。これとの関係で言えば、説明の最後の方で書いておられたXYZの件については、XYZという手段として記号化された呼称が“片方の地球”とは違うというだけで、水素と酸素でできているという本質には変わりないと考えればいいのではないでしょうか。
三平方の定理は、発見したのはピタゴラスですが、定理自体は人間が存在しない太古の昔から存在していたことは確かです。宇宙に関する現象や物質の発見はこれからも続いていきますが、観測等にもとづく証明ができた都度記号化された呼称で呼ばれることになるのだと思います。今回も、あまり大したことも書いていないのに、説明がくどくなってしまいましたが、もっとスッキリした説明ができるといいのですが・・・・・・・・。 土屋
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浦靖宜ゲスト
まさか解答を頂けるとは…
ありがとうございます。
めんどくさい話なので無視されてもしょうがないのですが。なるほど、常識的にはそう考える他ないような気がしますね
あと土屋さんは「言葉というのは(みんながそれでいいと認めた)約束事みたいなものだから、言葉とそれが指す対象との関係に必然性はない」という考えでしょうか。ちなみにめんどくさいことに、双子地球の水の化学組成XYZは化学組成の表記が異なるのではなく、本当に元素から異なる、違う物質だったらどうだ?という話なんですよ。
それでも「水はH2Oである」という命題は経験的に必然的に真といえるのだろうかという、誰得?な問題です。極めて可能性は薄いと思いますが、今後の科学の進展で「水は実はH2Oではなかった」みたいなことが発覚する可能性を否定できない以上、「水」と「H2O」の関係に必然性はないだろうと私は思います。
いや、未来にそれが何と呼ばれることになるのかわからないので、現在における「水」と呼ばれてるものが「H2O」でない可能性はないという意味では、現在において必然と言えるのでしょうか。歴史のどこかの段階で、「水」と呼ばれているものと「H2O」は同種のものだという同定があったのだろうと思いますが、それがどういった行為を意味するのか…
やっぱり最も本質的な何かを指定することなのでしょうか。(今のところH2O)「三平方の定理が発見されなかったとしても三平方の定理は存在する」
理系的な知識はそういうものですね。アインシュタインが「相対性理論」を発見しなくても誰かが代わりに発見しただろう。
その点、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書かなくても、誰かが代わりに書いたとは言えない文学とは違いますね。
文系は一回限りの事象の意味を考えることが主になりますね。とはいえ現実の歴史はこの一回しかなく、この歴史上においてはピタゴラスが三平方の定理を発見しました。(あまりに過去なので確証ないですけど)
その発見がなければ、そもそも「三平方の定理はピタゴラス以外の人が発見する可能性があった」と言うことができません(あるいは「誰も発見しなくても三平方の定理は存在していた」とも)。ピタゴラスによる三平方の定理の発見という動かしがたい歴史的事実があってはじめて、別の人間による発見もありえたという可能性が私たちに認識されます。でも本当は可能性がない。じゃあ、私たちにとっては、ピタゴラスなしに三平方の定理はありえないのではないか。ピタゴラスなしに三平方の定理は存在しないのではないか(これはかなり飛躍がありそう)。実は別の地域の人間が同様に三平方の定理を発見していた可能性はありますね。(あるいは別の惑星の知的生命体が。)ただそれは記録に残らなかったか途絶えたか。(地球まで伝達されなかったか。)じゃあ可能性はあると言えるのかしら。とはいえやっぱり私たちが三平方の定理を知らないとその可能性は問えない。じゃあピタゴラスの発見が特権的地位を占めることになるのでしょうか。
この辺りの問題は理系的な考え方と文系的な考え方が絡み合うので面白いですね。
理系は何度も何度も繰り返すことを前提にしています。(実験や統計)
文系は一回限りしか起こらないことの意味を探求します(歴史や人生)
という分け方が一つ可能です。フッサールの議論とも関係しますが、政治的にもややこしい問題があります。
西洋でキリスト教を背景にして科学が芽生え、産業革命が起こり、全世界を支配するようになったのは必然的なのか。(フッサールはこっちを主張して西洋中心主義だと批判されたんでしたか?)
それとも何度も地球の歴史をやり直せば、次は中国が最初に科学革命を起こすかもしれないし、イスラーム圏やアフリカ、アメリカ大陸が先に到達し、世界を支配するかもしれないと言えるかもしれません。
でも現実の歴史は一回限りで、ヨーロッパによる支配しかありえないんですよね…(ジャレド・ダイアモンドなら、理系的に実験でやり直せてもユーラシア大陸優位なのは変わらないというでしょうが。でも地球の歴史をガチでやり直したら、大陸の形が変わってもおかしくないのでは?それともそれは物理的因果法則で、このような形になると決定されているのか?であれば、西洋で科学が展開するのも物理的因果法則に則って必然ということになるのでしょうか?理系的にも必然?)みたいなことを考える(というより読んだりして、ほぇ〜となる、そして頭の中でもう一回議論を思い出してちょっと考えてみる)のが趣味ですね。
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土屋隆生ゲスト
浦さんの疑問というか設問について、答えではありませんが、次のように考えてみました。
1.「言葉とそれを指す対象との関係に必然性」があるかないかについて
浦さんが言われているのと大意は同じですが、「言葉は一定の交流のある人びとの間で合意された「記号」のようなもので、モノや現象、人の感情や意思等あらゆることを伝えあう情報の「伝達手段」です。そういう点から言えば、浦さんの言われる「言葉とそれを指す対象との関係に必然性はないといことでしょうか?」と言っておられる「必然性」の部分が少し分かりにくいのですが、「水」と「H2O」との関係を例にすると次にように考えられるのでではないでしょうか?① 太古の昔、日本列島に住む一人の原日本人が、不純物の入った水も含めて、これを「水」とよんだところ他の人々もその呼び方に合意し、以降一定の範囲の不純物の入った自然にある液体を「水」という「記号」で呼ぶようになった。日本語と英語の表現が違うのもこの上記にいう「伝達手段」の細部が違うということだけです。
② ところが、近代の科学者が、純粋の「水」とは何かと疑問をもち、その性質・構成物質を解明したところ、それは「H2O」という化合物であることが分かったということです。そして「純粋の水」=「H2O」は実験によって確かめられ、「事実」であることが「証明」されたということです。したがって、くどくなりますが、「水」も「H2O」も情報伝達のための「記号」であることは同じですが、使う人びとの立場や目的等いわゆるTPOの違いによるものであるということができます。繰り返しになりますが、2つの間の違いは、「水」は不純物を一定範囲含んだものを一つのまとまりとして「水」とある意味「定義」した結果の「記号」であり、「H2O」は、不純物を除いた「純水」の成分を分析し「証明」した結果の質的なものを表した「記号」であるということです。
それから、「H2O」と双子地球の「XYZ」のケースについては、
地球では、・・・・・・・「純粋の水」= 「H2O」 として、
双子の地球では、・・・・「純粋の〇○○」=「XYZ」 ≠「H2O」 ということにすれば、答えはどうなるのかという疑問を呈しておられるのだと理解しましたが、そうであれ前提がさらに広がり、「純粋の〇○○」や「XYZ」中に入る変数も無限にあるはずです。答えは出るのでしょうか? さらに言えば、答えはあるのでしょうか? という心配が出てきます。はっきり申しあげれば、あまり生産的な答えは出てこないのではないかと思いますがいかがでしょうか?
2.文系と理系の証明方法の違いについて
ここらへんは確かに面白いところですね。「理系は繰り返し実験等で確かめることができるが、文系は一回限りでしか起きないことの意味を探究する」ところに意義があるというニュアンスでおっしゃっています。確かに、理系の証明は再現性の確認が主体になっていますが、実は、理系も1回しか起きなかった過去のことを証明することに躍起になっているケースがあります。私は理系ではないので、常識的なことしか説明することができませんが、138億年かなんかはるか昔に、宇宙はビックバンによって、ゼロからつくられ、現在もすごい速さで膨張しているということは誰でも一度は耳にしたことがあると思います。138億年前に一回だけ、しかもすでに起きたことをどうやっても、再現させて証明するのか、できるわけがありません。私は、新聞で読むぐらいの知識ですが、次のようなことでよいのではないかと思います。① “かぐや”まで宇宙ロケットを飛ばして、そこにある石を採取して太陽系の誕生や遠い過去の生命誕生の秘密を解き明かそうとするような本来の証明方法もありますが、科学者は、再現性のない宇宙創造の過程を証明するためには、すでに証明済みの法則や理論または観測(場合により実験も)結果を援用して、まず、自分の仮説を立てます。
② 次に、①の仮設を「証明」するため、観測したり、カミオカンデン等の実験装置を使って宇宙に存在するはずのある種の粒子を捕まえて行う方法を採るわけです。最近、光も飲み込むと言われたブラックホールの撮影が成功し、その写真が公表されましたが、今まで光さえも吸収するため観測できないと思われていたのが、撮影という形で「証明」ができたということになります。なお、最近では、ビックバンの起きた時、「宇宙には何も存在しない“ゼロ”の状態だったのか? 本当は何かが存在していたのではないかという議論もされているようです。現在、確認できる宇宙の質量を合計すると理論上の質量より大幅に少ないので、真空のような宇宙にも何らかの物質が大量に存在するはずだということで、それを仮に「ダーク・マター」と呼んで(記号化して)、科学者たちがその物質の研究に注力していることを聞いたことがあります。こうなってくると、「ゼロはゼロであって、ゼロはゼロではない。」ということにもなってきますね。まさにレンマの世界です。
いろいろ言い過ぎたきらいがありますが、ここでのテーマは、「文系と理系の証明方法の違い」でしたね。私は、上記のことを端的に言えば、「文系は“真理”を証明し、理系は“事実”を証明する。」という違いだと思っていますが、浦さんはいかがお考えですか?
3.「西洋で科学が展開することになった必然性」について
浦さんが新たに取り上げられたこのテーマについては、私の知る範囲でも、やはりキリスト教が科学や技術の進展に大きなかかわりをもっていると考えます。そりの合わないと見られている宗教と科学とのあいだの意外な補完関係ですが、世界の田舎だった中世ヨーロッパが近代科学に先鞭をつけて、世界を引っ張り支配することになった理由がここにあるという事実は否定することはできません。ローマ法王庁が中世ヨーロッパの精神世界に君臨している間にも、哲学者たちは生命を危険にさらす場面にも会いながら、「神は本当に存在するのだろうか」という疑問をもち続けた結果、「神の存在を直接証明することはできないので、天地創造の神が創り給うたこの世の現象や人またはモノの実際の姿を解明することによって間接的にでも神の存在を証明しよう。」ということで、ケプラーや、ガリレオ、ニュートンなどの科学者が排出し。ワットの蒸気機関などの発明にも繫がってヨーロッパ諸国が文化と技術の面で世界のルーラーとして君臨したのが近代だということではないでしょうか? そして、その時期に、学問としての自然科学が哲学から分離、独立していったということを聞いています。
では、神道、仏教、イスラム教、ヒンズー教または儒教の世界では、何故そのようなことが起こらなかったのかという疑問が出てきます。特に、ヨーロッパ諸国より先に、ギリシャの古代哲学や数学を受け継いで高い水準にあったといわれるイスラム教諸国での科学や技術がヨーロッパ諸国のように花開くということにならなかったのは何故か? これは、哲学的なテーマというよりも、どちらかというと歴史的なテーマですが、面白いかも知れません。
この掲示板は、「二元論」と「あいだの論理」が最初のテーマでしたが、そこからはだいぶ離れたところまできたことでもありますし、議論も進み、ある程度のまとまりもついたように思えますので、これが済んだら一休みするのもいいかも知れませんね。 土屋
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浦靖宜ゲスト
たしかに元々なんのスレッドだったのか?みたいな感じになってきましたね(笑)
この辺りで一旦閉じましょう。楽しかったです。1. 双子地球ではXYZという元素でできた液体を、我々同様に「水」と呼んでいる。だから科学的調査など行わず、地球人と双子地球人とで普通に会話しているだけでは、互いの「水」という言葉が指している対象が違うことに気づかないという設定です。じゃあ指している対象は違うんだから、それぞれの「水」は全く違う言葉なのか。でも、何も知らなければ、全然会話が成り立つんだから、それぞれの「水」は同じ言葉とするのか。
言葉と対象の関係がどのようになっているのかを哲学的に考察することは意味のあることだと思いますよ。流石にかつてのように、言語と対象が一対一対応している(すべきだ)という言説は通用しなくなりましたが。言葉はただの伝達手段であり、それぞれの意味も複数間の人間同士の約束事に過ぎないと言われればそれまでですが、とはいえなぜそのようなことがそもそも可能なのか、何かを名指したり、定義するとはどういうことなのか。日常言語と科学用語や数式では対象との結びつき方にかなり違いがありそうだが、どのような違いがあるかなど、まぁそれ考えてなんか役に立つのかと言われたら趣味ですねとしか言いようがない気もしますが。
哲学を議論するうえで一番重要で難しいのは問いの意味を伝えることですね。私もまだ問いの意味を十全に理解しているとは言えませんし(そういう問題はあるとはリアルに感じてるんですが)、過去の議論を想起するのも不正確でしたね。これを機にもう一度勉強しようかしら。
2. 私もちょくちょく理系の本を読むのですが、だいたい宇宙物理か進化生物学ですね。なぜなら土屋さんも仰るとおり、一回限りの事象を扱っており、理系と文系が混ざって面白いからです。
進化も直接観察できるわけではないので、どう実証するのか難しいです。一時期はカール・ポパーの「反証可能性」の議論を持ち出して、進化論は万能理論=非科学的だとする議論もありました。
とはいえ流石に現代ではポパーの「反証可能性」だけで科学が非科学かを論じるのは不十分だと認識されてきましたが。それは土屋さんが仰るように、たとえ全てを再現はできなくても、仮説を立てて、観測できることを絞って実証すれば確からしさを高めることができるからですね。ヒッグス粒子発見も99.9999999(9の数忘れました)%確からしいと分かって、その実在を認められました。(私は発見よりも、そっちの厳密さに感動しましたね。しかもまだ不十分という意見もある!また100%とは言わないことの誠実さ!)
理論を立てれば、「その理論が正しいなら、このようなことが観測されるはずだ」ということが想定できるので、それを一つずつ潰していくことになりますね。
最近の話題であればヒッグス粒子もですが、土屋さんがあげたブラックホールや重力波もそうでしょう。これらも相対性理論が正しければ観測できるはずという仮説から始まり、観測できたのでやっぱり相対性理論は正しかったことになりました。
ビックバン証明の場合は宇宙背景放射の発見ですね(発見は偶然でしたが)ダークマターもたしかに想定しないほうが不都合なので、実在性が高いようですね。似たような言葉のダークエネルギーは宇宙の加速膨張を説明するための推論ですが、どう実証すればいいのかまだ不明なようです。(こういうことだけをひたすら駄弁り合う飲み会がしたいです…)
文系と理系の大きな違いのもう一つは、理系には神がいて、文系にはいないということですね。なので文系は真理を得られません(泣)
文系は神という言葉を安易に使うのは避けるので、「最終審級」みたいな表現をします。最後にそれが正しいと審理してくれる存在です。
理系の神は自然のことです。どんなに美しくそれ自体では無矛盾な理論を作っても、観測した自然がそうなっていなければ、誤りということになります。答え合わせができる(ダークエネルギーのようにそれ自体困難なのが多いとはいえ)のが理系の強みです。だいたい理系文系の争いもこの対立ですよね。片や「正しさを証明しようもない問題、答えの出ない問題を考えるなんて不毛だ」と馬鹿にし、もう一方は「答えが存在すると分かっていることを追求するのは二次的なことで、本当に重要なのは答えがないことを探求することであり、それこそが本当の知性である」と相手を馬鹿にする傾向があります。
まぁ僕も文系人間なので、後者にシンパシーを感じますが、別にそれで理系が馬鹿だとも思いません。時々素朴だなと思ったりはしますが。「目の前のPC は本当に存在するのだろうか」とか考えちゃいますからね。私たち哲学オタクは。でも宇宙物理学も相当あの世の話的ですよね。科学は科学で実在とは何か結構考えているんじゃないかなぁ。
文理の対立は不毛な喧嘩という気がしますが、とはいえ文系と理系の違いを理解したうえでそれらに望むのは、大事かなと思います。
文系の証明方法ですが、
文系の特に哲学研究とかの場合は、哲学の真理を証明するというよりは、過去の哲学者の哲学書を読み解いてその解釈の妥当性を問うことの方が主流ですね。厳密な答えはないですが、妥当性はある程度、専門家共同体で判断できるので。
なかには専門家同士の共通了解をあえて踏み越えてアクロバットな(ラディカルな)読みをする人もいます。あえて誤読もしたり。生産的誤読というやつです。大抵は愚か者扱いですが、それが素晴らしく上手な人が、その時代の思想を担ったりします。フーコー、ドゥルーズ、デリダなどがそうですね。最近、木岡先生の影響で、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』を読んでいるのですが、彼のその中でのカント解釈もアクロバティックで面白かったです。社会学、経済学、政治学など社会科学は一応観測、実証できることに取り組みますね。理系に近いです。
3. 先の私のコメントでは、中国でも近代科学に近いところまでいったという歴史研究があったことを念頭に、もしもう一回やり直して近代科学が起こる可能性の筆頭に中国を先頭にしました。イスラームも一時期、他の文明を牽引し、ヨーロッパにも大きな影響を与えましたね。(アリストテレスの再輸入とか。忘れるなよ、ヨーロッパ人。)『中世の覚醒』を去年読んだのを思い出します。読んだことしか覚えてませんが(笑)
とはいえ、キリスト教やそれに関する思想が科学の誕生に大きな影響を与えたのは事実ですね。神が世界を創造したのなら、その秩序を人間も理解できるはずだという強い思いが当時の科学者=哲学者にあった。ニュートンは万有引力で惑星が恒星の周りを回っているメカニズムは説明できましたが、じゃあそもそもなぜ回っているのか、最初に何があったのかは分からなくて、「神が地球を押した。その後は万有引力に従って回転している」と説明したそうです。
その後、カントが「いや、星雲の塵芥が重力に従って蠢いているうちにぶつかり合って星が形成されたんだ」という今の惑星形成理解とかなり近いことを提唱しました(彼の最初の著作がそれです。でも印刷会社が潰れてほとんど不出世に。)。数十年後に数学者のラプラスも同様の説を発表し、カント=ラプラス星雲説と呼ばれています。カントは無秩序の集まりの動きがいつの間にか秩序を生み出してしまうことに神を見出していたようです。(人間の蠢きが、歴史を進めるうちに「目的の王国」という人類理想の世界を築くみたいな発想をカントはします)そういう思いで三批判書を書いた結果、思想的にも文系と理系が別れ、科学と宗教が別れていった感じでしょうかね。今回はキリスト教でしたが、別の歴史ではイスラームでも中国でも、どこかの部族でも我々の知るような科学が起こっても不思議はないと思ってます。それほどの普遍性が科学にはあると思いますから。
とはいえ、先に到達しやすい条件というのが、やはりあるんでしょうね。別に先に到達するのが偉いというわけではないのですが。そもそも到達しなくても良い。(レヴィ・ストロースがいう、部族社会の「野生の思考」も科学に負けず劣らず賢いです)深夜にもかかわらず、楽しく書いてしまいました。でも流石に疲れましたね(笑)デリダが『有限責任会社 (Limited Inc.)』で、議論が終わるのはインクが切れた時だみたいな話をしてたのを思い出します。会社を示すInc.とインクを掛けてる洒落ですね。我々は有限な存在なので、結論に到達したからではなく、疲れたから(インクが切れたから)議論をやめるのです。
また別の機会にお話ししましょう。ありがとうございました。
浦 -
土屋隆生ゲスト
詳しいご返信有難うございます。いつものように浦さんが設定されたテーマと考えに対して、私の考えを以下のとおり書いてみました。
1.「双子地球のXYZ」のケースについて
問題の設定が複雑ですが、分解すると次のようになると思います。
① 双子地球では、元素「XYZ」でできた液体を・・・・「水」と呼んでいる。
一方、地球では、「H2O」で でできた液体を同じく・・・「水」と呼んでいる。
② ところが、「XYZ」は「H2O」とは異なる物質である。
➂ そうすると、双子地球人と地球人との間で、「水」という言葉を使っても、話をしても、対象が異なる。
④ であれば、同じ「水」という言葉を使っても会話が成り立たない。上記は、簡単に言えば、日本語その他外国語にも見られる「同音異議」に当てはまる現象だと思います。日本語の場合「同音異議」は数多く見られますが、日本人の場合、 例えば、同じ発音の「しじ」と聞いたとき、「支持」か「指示」または「私事」かの判別はそれを含む文節の中での使われ方で考えます。場合によれば頭の中でこれらの漢字を思い浮かべてこのうちどれかを間違いなく判断するので、日常生活で困ることはないと思います。言葉は単語だけが独立して存在するものでも、使われるものでもないからです。「議論するうえで問いの意味が大切だ。」とおっしゃっていますが、浦さんの問いの意味は上記のように理解したうえで、私の考えを記載しました。
双子地球語と地球語が、「水」以外の単語も文法もことなるという前提を追加すると「同音異議」の領域を越えて、すべての会話において通訳が必要になると思います。2.「宇宙物理学と進化生物学」について
実は、私も、人類進化の過程について大変興味があります。「人間の先祖はチンパンジーではない。」と主張する更科功氏は著書「絶滅の人類史」の中で、人類七百万年の間の進化の過程を理系の謙虚さをもって、証明できないことも正直に述べながら、DNA鑑定もできない古い化石から得られる事実を繋ぎ合わせて論理を組み立て、新しい事実を解明しています。7万年前にふるさとであるアフリカを出発したホモサピエンスが3万年前に日本列島に到着した話は数多くのDNT分析ができているので、さらに興味深いものがあります。3.「理系には神がいて、文系にはいない。」について
これは最初に聞くと「エッ 逆ではないのですか?」と質問がきそうですが、端的で面白い表現だと思います。ニュートンが「万有引力で惑星が恒星の周りをまわっていることは説明できたが、そもそも何故地球は回っているのかの質問に、神が地球を押したからだ。」と答えた話は作り話かも知れませんが、これも面白いですね。そういう意味で、理系はどこかの段階で神が出てこないと、締めくくりができないところがあるのでしょう。実際、ニュートンも「自分が信じるものは科学と神」という逸話がありますし、アインシュタインも一部の神学者から無神論者だと見られていたが間違いなく神を信じていたということが伝えられています。ただその「神」は人格神ではなく、「自然法則を創り世界を導くもの」の中に神を見出したと言われています。人間が今まで神の領域だと考えられていた宇宙の創造過程を究明したり、遺伝子技術を実際に利用したりして神に近づいたと思った瞬間、「では何故そうなのか?」、「その前はどうだったのか?」と遡って疑問が出てくると、最後は、「大自然の法則に従ってそのようになっているのだ。その自然法則こそ神である。」というところに落ち着くのだと思います。
ですから、科学者の信じる神は、キリスト教や仏教という教義をもつ宗教ばかりではなく「自然法則=神」ということなのでしょう。旧約聖書の中の「天地創造」の話と関連させて、キリスト教の神ヤファウェイが「自然法則」と「宇宙」を創ったと言う一部のキリスト教もありますが、科学者のいう神と同じではないことが分かります。ついでに言わせていただけば、「月や星はどうして光るの?」と子供に聞かれたとき、親が「神様がそうしたからだよ」と答える場合の「神さま」とも違うということです。この場合は、幕が開いたとたん「神さま」が出てきますが、科学者の場合の「神」は、最後の最後にしか出てきません。
4.上記との関係で、浦さんの「文系は真理を得られません。(涙)」について
「理系には神がいて、文系にはいない。」、故に、「文系は真理を得られません。」と読ませいただきましたが、面白い言い方ですが、「文系は真理は得られないというか、不要である。」とも読めるのですが、私は、普通に考えて、文系には真善美、それも中心になる「真」がないと、世の中が迷宮に入り、文系の存在意義が失われてしまうのではないかと思います。「理系は事実を追求し、文系は真理を追求する。」ものと私は思っています。すなわち、理系は自然法則にもとづくこの世の現象や物質に関する事実を追求し、文系は、人間社会の歴史や宗教、文化、芸術、伝統、政治、経済、倫理等に関するあらゆる面から「真理」を追求するものだと思っています。
「文系には神がいない。」という見方をされていますが、宗教を含めると、ちょっと無理があります。 3.で記述した神とは必ずしも同じではないところからきているわけですが、このことは少し横において、浦さんがおっしゃる「文系には神がいない。」について、考えてみます。理系の場合の神は前述のように、「確固たる事実のさらにそのうえに神がいる。」わけですが、文系の場合は、自然法則のような確固たる事実というものは必ずしもありません。
奈良時代まで遡らなくても、この20年、30年を振り返ってみるだけでも、宗教、文化、芸術、伝統、政治、経済、倫理等どれ一つを取っても、見方や考え方、価値観がいかに大きく変化したかが分かります。価値観等は、自然環境や経済環境の変化に影響を受けて簡単に変化するからです。すなわち、文系には、「自然法則=神」という人間がそこから逃げ出すことのできない枠組みがないため、その時代その時代の価値観が変化することができるわけです。それ故、おっしゃっているように「最終審判みたいな表現をする。」ところか出てくるのではないでしょうか? コロナによってもこれからの世界は、今までのような世界には戻らないという人もいますが、今回のコロナや大災害は、人の世の合意に大きな変化をもたらします。つい最近まで盛んに唱えられていたグローバル化や多様性などに対してどのような影響を及ぼすのか注目するところだと思います。
5.「答えのないことを探究することこそ本当の知性である。」について
この場合、「答えがないことが最初から分かっている」という大前提があって、次に、「答えのないこと知っている」のも「それを探究する」のも一人の人間であるという小前提を置くと、常識的には命題の設定自体が成り立たなくなります。二元論では「無いものを、有る。」と証明することはできないので、もっと別のことを考えておられるのだと思いますが、レンマ論で例をあげて分かりやすく説明することができれば面白いと思いますので、 何かいい説明が見つかったら教えてください。私は、いつも3、4日後にお返事を書いていますが、浦さんからは、夜中の2時半まで起きて今回も早々にご返信をいただき恐縮しております。木岡先生の掲示版を通じて浦さんと意見を交わすことを通じて、頭の整理をしながら新しいことを考える機会にもなり喜んでいます。ただ、私もさすがに少々疲れましたので、ここらでひと休みしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。浦さんの最後の「有限責任会社のインク」の話は和洋折衷の落語の高度な「落ち」のような話しで、この議論が楽しかったことを象徴しています。有難うございました。
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浦靖宜ゲスト
上があまりに長いので略します(あと修正も)
1.同じ文法、語を使って会話が成立しているのに、ある語の指す対象だけが異なる。
土屋さんの仰るとおり「同音異義」ですね。
本当は「水」と「H2O」の結びつきの強さ(必然性)を批判的に検討するつもりでしたが、土屋さんがその立場に立っていないので、不要な議論でした。「白とは波長云々」と述べてた時は「土屋さんは『白』という言葉と『波長云々』という対象が素朴に結びついていると思っているのかな」と思ってしまったのでした。4.理系は神あり。文系にはなし。問題
学問は一定の枠内、一定の手続きに則って行われる営みであり、文理問わず真理は限定的。どちらも究極の根拠はない。
ただ理系は自然を観測し答え合わせができる面がある。土屋さんの仰るように、ここでの「神」は自然や自然法則をレトリカルに言い換えたもの。
科学者が最後に求めがちな「神」と、宗教の「神」は重なり合う部分もあるが、基本的に異なる。これも土屋さんの仰る通りでした。5.「答えがない問題云々」
「答えがない」と分かっているのは矛盾。その通りで、正確には「答えがあるかどうかわからない」です。ただ「答えがない」可能性のほうが高く、根拠づけは人間業では無理だろうというのがポストモダン哲学の潮流。短い!
上のは読まなくていいですね!-
浦靖宜ゲスト
冒頭の「上があまりにも長い」は間違い
本当はこのコメントに続く、次の私の長い文章のことです。
最初に返信したのが、それでしたが、一旦終わらせたくせにあまりに長くなり、土屋さんに迷惑だろう(この掲示板の趣旨にも会ってるのかどうか不安ですし)と思って短くしました。この下の「一つだけ。」から始まる文章は読んでも読まなくてもいいです。
返信されても、また返信し返すと土屋さんに迷惑かなと思うので、再返信はしません。このスレッドではこれまでとします。
すみません。
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浦靖宜ゲスト
一つだけ。
会話は成り立っているんですよ(汗)
地球人も双子地球人もそれぞれ日本人で日本語話者で文法も(単)語も我々現代人と全く同じで、なので双子地球人が「水が飲みたい」といって双子地球の水道水を飲んでも、我々地球人の日本人は理解できるんです。でも彼らの飲んで、言明している「水」はH2Oとは全く違うXYZという物質だったという問題です。
これはこの問い(語と、それが指す対象の関係性についての問い)の意味を成り立たせる大前提なので、前提を変更してしまっては意味がないのです。
とはいえ、言葉は単独で成立しないというのはその通りですね。だからこそ、「水」と「H2O」の結びつきの問題が発生する気もするのですが。たまたま歴史的な都合で結びついただけで済ましていいのか…。あ、でも5についても説明あればとのことなので、それも。(4の文系に神がいない問題とも関連します)
「答えのない問題を考えるのが本当の知性」
たしかになんで「答えがない」って知ってんだ…一本取られましたね。
ただ20世紀に至るまで、さまざまな哲学が存在や倫理を根拠づけようとしました。根拠もないのに真理とはいえないからです。近代以前は「神」が根拠でしたが、近代以後は素朴に神を信じることはできなくなったので、「神」を使わずに根拠づけようとしました。(仮に神を信じてたとしても、それはその人の勝手だし、無根拠であることに変わりありません。神を信じない人たちにとってまで普遍的な真理たり得ませんね。)
そこで何とか、それ以外の手で物事を根拠づけようとしたんですが、もうそれは無理だろうというのが、20世紀の特にポストモダン哲学の潮流ですね。ミュンヒハウゼンのトリレンマという有名な三つの困難があります。
1.Aの根拠はB、Bの根拠はCとやっていっては無限に根拠づけられる(無限背進)ので、根拠が確定しない。
2.無限背進を避けるために、究極の根拠を持ち出す場合(「神」がその最たる例)、それ自体は無根拠な信仰である。
3.Aの根拠はB、Bの根拠はCと続けて、どこかの時点でZの根拠はAと帰ってくる論があるが、それは循環論法のため、やはり根拠はないことになる。この3つを避けて、真理を確定させることは不可能だろうというのが、文系に神はいない=答えのない問いの探究だということです。
では、なぜ科学には神がいるのか(あるいは文系も学問たりえるか)といえば、それは科学がきちんと問える範囲あるいは観測できる範囲をその都度きちんと限定して論じているからです。世界の究極根拠なんてわからないですけど、ビックバンがなぜ起こったのかのメカニズムは、探究できるはずです。(インフレーション理論ですね)じゃあインフレーションがなぜ起こったのかを今度はとうて、、、と無限に探究できます。(科学はトリレンマ1の無限背進をどこまでできるかをやっている感じですね。そういう意味では科学も究極的な根拠を得られるわけではありません。ただ最終的な根拠は得られないだろうけど、どこまで背進できるのかを実証していくことは意義のあることです。)その都度、「今探求するのはこの範囲で、それは〇〇という方法で、▲▲の結果がえられたら正しいとわかる」ときちんと設定することで一応学問的に意味のある論証は為せます。文系も学問である以上、基本的にそうですね。論文とかで「今回明らかにしたいと試みていることは云々カンヌン・・・。その方法は云々カンヌン・・・。」絶対に問いの設定を行います。
ただ、それは科学共同体、学の共同体の中では真理かもしれませんが、それはその共同体内部の話、あるパースペクティブからみての話なので、いつでもどこでも、もしくは人間がいなくても成り立つ普遍的な真理かと言われると、究極の根拠はないだろうという認識が少なくともある立場の文系の学者はとりますし、私はそれが一般的になっているのではないかと思っています。
そう思わない人ももちろんいますが(そういう人は私たちを「相対主義者」と批判します)、少なくともポストモダンの哲学においては、究極根拠を基礎付けようとする人たちを基礎付け主義者と批判します。(もちろんその基礎づけの無根拠さも論証してです)ただ自然科学については、一応、自然は誰もが同じように観察可能だろうということで、普遍性のレベルが高い(ほぼ全人類が受け入れ可能だろう(もちろん受け入れない人もいますけどね。「進化論よりも神の創造が正しい」とか。私は創造説は信仰で無根拠だと思います。))ので、解釈の幅の大きい(あるいは土屋さんの仰るように価値観の違いが前提にある)文系の学問よりも客観的だという風に思われています。
とはいえ、「観察する」とはどういうことなのか、本当に同じようにみんな見ているのか、みたい問いは発生しますし、先程述べたように宇宙発生の起源も無限に遡れそうですので、究極の真理に到達できるか不明です。あるいはニュートンの万有引力も、あるいはその後の相対性理論も重力のメカニズムは説明できても、なぜそうなのかは未だに説明できていませんね。物理的因果法則がなぜ存在するのかもわかりません。*何年か前に哲学界隈で話題になったカンタン・メイヤスーは自然法則は必然的に偶然的であると論じていました(彼は偶然性の必然性を論証している人です。九鬼周造をより徹底した感じですね。)。今この瞬間、これまでの自然法則と全く異なる自然法則に切り替わっても不思議じゃないということです。そうなったら僕たちもおしまいですが。(おしまいと気付く前に消滅するかもしれませんが)
カントが「物自体」を認識することはできないと主張してから、科学もまた真理を得られないという印象が強まりました。科学者が原子の構造とかを解明しても、「それはあくまで人間の色眼鏡を通して見た物に過ぎないのであって、それを素朴に実在していると思い込んでるのはアホでは?カントくらい読んどけよ」みたいに上から目線なのが文系でした。
ところが科学が人々の生活や人類の文明の発展にあからさまに貢献するようになると、理系が「存在の声(ハイデガー)とか聞いてなんか意味あるの?」と逆襲する状況になり、立場が逆転。今の文系不要論にいたります。*先程のメイヤスーはカント以降の哲学は相関主義であるとして、なんでも色眼鏡論を批判し、物自体は認識できないとしても思考できる立場をとります(思弁的実在論)「人間の認識なしに物事は成り立たないというのもわかるけど、お前らちゃんと人類誕生以前の太古の化石とか、宇宙とか探究できることの意味考えてんのか」と
心ある人は文理どっちもそれ相応に大事じゃない?という感じですね。もちろん心なくどっちかに偏ってみるのもありだとは思いますが。
ドーキンスのように『神は妄想である』って論じる科学者もいれば、稲垣良典のように神の実在性を論じる哲学者もいます。
私は基本的には無神論が正しいと信じている(信仰!?)が、とはいえ人間が神について考えてしまうことは事実なので、神について考えることも、あるいはそうした営みについて論じることも無意味ではないという考えです。カントの影響が強いので、「神とか自由とか錯覚みたいなもんだけど、錯覚なしに生きられないのも事実じゃん?」って感じです。結局、長くなりました。もう怒られても仕方ないですね。。。
電話でも基本は2時間、下手したら7時間くらい喋るような人間なので、なかなかひどいです。
土屋さんの返信があろうとなかろうと、もう返信はしないことを私は私に義務付けます。(何と冷たい表現!)「答えのない」ではなく「答えのあるかどうかわからない」がぴったりですね。さらに「『答えがあるかどうかわからない』なんてなんでわかるんだ」とも問えそうです。
本当はそこから、「不一不異」という木岡先生もよく取り上げられる言葉について論じることも可能ではないかと思ったのですが、どうでもいいことを書き過ぎましたね。アウトラインも何も考えず書いているので。ちなみにすぐ返せたのは、なぜか掲示板を訪れると何分か前に土屋さんが返信したばかりで、暇だから掲示板を訪れたのでその場で返信できたというわけです。今回もそうです。即答で返事できるのも、自動機械のように知ったことを思いつきでつらつら書いているからです。きちんと私の無秩序な文章に沿って考えてくださる土屋さんとは大違いですね。(もちろんきちんと読んでますけど、書いているうちに勝手に話が飛んでいってしまうのです。じゃあコントロールしろよという話ですが。)
言い訳ばかり続き良くないと思うので、私はこの文章を終えることを宣言します。
最後にもう一つ言い訳。以上述べたことは、「私はそう理解している」ということなので、カントとかメイヤスーとかの私の理解は全部間違いである可能性があります。ありがとうございました。
浦靖宜
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土屋隆生ゲスト
ご返信はないものと思いパソコンを開かなかったため、お返事が遅くなりました。たくさんの内容の中のいくつかについて、最終回ということで、つぎのとおり、私なりの考えを記載いたしました。
1.「存在や倫理の根拠もないのに真理とは言えないーーーーだから20世紀に至るまで哲学は根拠づけようとしてきた」について
これを少し言い換えてみると「20世紀に至るまで真理を見出そうとして、哲学が存在や倫理を根拠づけようとしてきた」ということだと思います。ここでは、文化等に関することについて論じているため、この場合の「根拠」は「原因」(ある現象等を成立させる事実)ではなく、「理由」(真理が成立するための基礎となる考え等)であると私は理解しました。であれば、その「理由」はその時代や個人の価値観によって異なるので、特定の「理由」に説得力があって賛同する人が多ければ、それが世の中の大勢になります。すると、それ以上のところに「神」を求める必要がなくなるので、文系には「神」はいないということになるのだと思います(ただし、この場合、特定の宗教上の「神」ではありません。)。もちろん、違う価値観をもち、それに賛同しない人が別の「真理」を主張することは、常にあり得ることで、それはそれでいいと思います。文系の場合の、「真理」は複数あってよいと考えているからです。
2.「ミュンヒハウゼン」について
この哲学者に関する知識の持ち合わせは、私にはありませんが、書いておられた3つのトリレンマは、A,B,C が・・・・・それぞれ単独の原因となって、その一つ一つから結果が生まれさらにその結果が原因となって無限に繫がっていくという想定のもとに、「Zの根拠(原因)がAに戻るという循環論」になってしまうことにも触れておられますし、逆に、ある時点でその連鎖を止めれば、「雨が降れば・・・・桶屋が儲かる。」という説得力のない話でおわってしまう結果になる場合もあります。浦さんが、前に「経済学は理系と文系の間に位置する。」ということを言っておられましたので、経済学に産業連関(表)分析があることが思い浮かびました。例えば、「ある材料Xの価格が上がれば、それを材料とする生産物 Y、Z等の価格もいくらずつか上昇し、さらにそのY、Z等を材料として製造する他の多くの物品の価格も連鎖的に上昇し、賃金や金利、輸出や財政にもその影響が波及していく。」というような複雑な連鎖反応が起きます。すなわち、経済理論としては、一つの原因から種類や性格の異なる複数の結果が生じ、それらの結果からさらに複数の結果を生み出すということは理論としては、分かっていましたが、当初は大きな要素のみをとらえて予測していましたが。実際は、要素となる多数の変数が入り乱れて影響し合い複雑な状況が生じることになります。AIの進化によって、この複雑な関係も次第に分かるようになっていくのだろうと思います。
3.上記2との関係で、「文系と理系の情報(事実、真実)の伝わり方の違い」について
おっしゃるとおり、ある面で「経済学は理系と文系の間に位置する。」ことは確かですが、基本的には人間の社会的行動を対象としているため、文系に属する現象として捉えることができます。そうすると、前述のとおり価格が上がる等の情報(真実)は次々と「拡散」してゆき、現象が全体として均衡したところに落ち着く(価格ならば、需要と供給が一致したところで価格が決まり、一件落着する)と理解することができます。このように、一つの思想や理念が上記の産業連関のように他の思想等に次々と影響して、新しい思想や理念が生まれ広がっていきます。そして、どこまでも人間の思想や行動が探究の対象ですから、人間が決着を着けなければならないのです。一方、理系の場合は、小さな「事実」の証明は、さらにその先にある大きな「未知の情報(事実)を証明する」という共通の目標に向かって合流していく、すなわち、そこへ「収斂」していくようなところがあるのではないかと感じます。すなわち、「未知の事実を証明する」という共通の目標があって、小さな事実の証明は、さらに大きい共通の事実の証明に向かって合流していく、すなわち「収斂」していくように思えるのです。しかし、いくら知識や事実を収斂させても「未知」が残るので、「神」が必要になるのだと考えます。
4.「科学共同体のなかだけでの真理・・・・・人間がいなくても普遍的な真理があるのかというと究極の根拠はないだろう。」について
これは少し無理のある論法だと思います。欧米人の一部には、聖書の創世記にある「神は自分のかたちに人を創造し、地を従わせ、すべての生き物を治めよ。」という言葉を軸にして、「人間中心」の思想が強い人がいるのは確かです。だからと言って、人間が生まれるずっと以前から自然法則にしたがって存在する宇宙も地求も存在・変化してきたのですから、宗教上の教えは教えとして、哲学や科学の面からそう主張するのには大きな無理があると思います。5.「観察するとはどういうことか?」について
議論を進めるうえで、例にとったのが宇宙でしたから、「観察」と似た「観測」の語句を使っています。宇宙については、自然には違いありませんが、手に取って触ったり、解剖したりすることができないので、この議論では、望遠鏡で天体の動き等を見たり調べたりした結果も「事実」であるという意味で、「証明」するための手段と見たわけです。最近は、電波望遠鏡等の観測で、星を構成する物質の種類や性質等の判別もできるようです。万有引力や相対性原理の先の先の「何故」等の話もありましたが、未解明の現象や物質、宇宙の粒子やエネルギーを創ったり、動かしている法則や力を「神」という言葉で表現しているのだと考えています。6.その他について
カントが「“物自体”を認識することはできない」と主張したことは知りませんでしたが、浦さんがそのことを知ったときから「科学もまた真理(事実)を得られないという印象が強まりました。」と思われたということですが、「認識=知る作用とその成果」と常識的な定義に従った場合、この2つがどう繫がるのかが分かりませんでした。ここら辺は、本当に哲学的なとこなのでしょうね。また、「無神論が正しいと信じている。」とありました。繰り返しになりますが、ここでの議論は、「神」の存在そのものではなく、「事実の証明が行き詰まったとき、その先にある“何故”を知っているのが“神”である。」と言いかえているだけだと思っていただければよいと思います。
私は、浦さんが書いておられることの多くは納得できますが、納得できないところもありました。これまで、納得できない部分について私の考えを述べさせていただいてきましたので、その点ご了承ください。このたびの意見交換を通じて、浦さんがいかに哲学を深く研究されているかが分かりました。それに、浦さんの問題提起を受けたて、私も考えるためのよい機会を与えていただいたと喜んでおります。また、あらたな機会がありましたら、よろしくお願いいたします。 本当に有難うございました。 土 屋
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浦靖宜ゲスト
補足
『カントが「“物自体”を認識することはできない」と主張したことは知りませんでしたが、浦さんがそのことを知ったときから「科学もまた真理(事実)を得られないという印象が強まりました。」と思われたということですが』
私自身がそう思ったという話ではなく、カント以降の文系の人たちがそう考えるようになったと言うことです。カントをめちゃくちゃ単純にして言えば、「人間は色眼鏡を通して物を見ているので、その物自体を見ているわけではない」と言うことを論証したんですね。色眼鏡を外して、その物自体を見ることは不可能だから、科学もまた色眼鏡を通した知識でしかない。そんなのは真理とは言えないと考える人が19世紀以降増えたと言うことです。あるいは、科学もまた人間の認識によるものだから、その認識の条件を考える(カント)哲学は、科学が成り立つ条件を考えることと同義であり、科学よりも上位にたつと考える人が増えたということですね。
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土屋隆生ゲスト
浦 様
最後と言いながら、質問していました。ご丁寧にお答えいただき、カントとカント以降の文系の人たちの考え方がよく分かりました。
有難うございました。土屋
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