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#506
土屋隆生
ゲスト

木岡先生と浦さんとの間で議論されている「二元論」や「あいだの論理」興味深く拝読いたしました。その中で、説明の道具として「白」と「非白」または「黒」という「色」が引用されています。そのこと自体にも興味があったため、私が趣味としている油絵で使う色という点から考えてみました。それは、絵を描いているとき、「木岡哲学の会」で教えられた「あいだの論理」を思い浮かべるからです。

① まず、普通、風景や静物を描くとき、それらの色はそれ自体が本来もっている色だと思
い、それに合わせて絵具を選びます。それはそれでいいのですが、実は、対象物の色はそのもの自体がもつ本来の色ではなく、そこに当たって反射した光の色だということです。
② 次に、赤い薔薇は、薔薇に当たった太陽の白色光のうちに含まれている赤色を特に効率
よく反射しているため、人間の目には、赤く見えるということです。薔薇の成分自体が赤いためではないのです。同じように海の青も、みかんの黄も同じです。
➂ そして、太陽の白色は、光の三原色である 赤、青と緑の光が集まったものです。小学
生の頃、教師がプリズムを太陽にかざすと光が7色に分解されたことを思い出します。理論的には、7色以上の連続した無数の色に分解されますが、ほとんど人の目で判別することはできません。このことは、太陽の白色光は、その中にすべての色の光を含んでいるということを示しています。
④ では、白と黒以外の赤や青とは、何かということになりますが、人間は400(紫)から680(赤)ナノメートル(1ナノメートル=1/10億メートル)までの波長の色を見ることができ、一定の範囲の波長の光をそれぞれ反射する色に赤や青という名称がつけられています。ちなみに、色の見え方は、動物の種類によってかなり違うようです。鳥類は300ナノメートルの紫外線まで見えると言われています。

上記の ➂から、純粋の「白」は、波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているものです。それ以外の色はすべて「非白」となります。では、純粋の「黒」とは何かというと、それは光も色も一切ない状態です。したがって、「白」と「黒」との関係は、性質の違いではなく、光の要素が「すべて有る」というのと「全く無い」という量的な違いです。その他、赤、青、黄、灰色は、光の要素の一部のみをもっているため、波長や明るさを基準にすると、すべてその「あいだ」に入るものとなります。

色に関しては、以上のように数値を使って客観的な因果関係で説明することができます。一方、議論の中にある「男と女」や「西洋と東洋」の二項対立については、数値ではなく質的な要素が絡み合っています。そのため、集合論的な視点で「あいだの論理」を考えるのがいいのかも知れませんが、その場合でも、視点の違いによって全く異なる結論がいくつも出てくるはずです。そしてそれら結論は、場合によりすべて正しいということもあり得ます。ただし、困ったことに、その正しい結論どうしが相反するという場合も想定されます。

このように、文化や価値観が判断基準に含まれる場合は、「AとAバー」の違いは、「証明」することができなくなることが分かります。では、どうするかと言えば、「定義」することになります。「男と女」や「西洋と東洋」については、それぞれの分野の学者や研究者が自説にもとづく「定義」を百家争鳴すればよいと思います。問題は、脳死のような重い事案についてですが、その場合の「定義は」生物学的な面からの判断ではなく、実際的な人への対処の仕方をどうするかという視点で、判断することになるので、個々人の価値観や倫理観に加えて、その人の置かれた立場によって、無数の変数で構成される連立方程式を解くように難しいものになります。したがって、専門家が枠組みを示したうえで、国民が納得するような法令を制定したうえで、担当病院の倫理委員会等が家族の気持ちを汲んで決めるということになると思います。

話を絵の方に戻すことにすると、絵の初心者に対して、私は、「白は白でない」とアドバイスすることがあります。例えば、建物の壁を描こうとした場合、その壁がテトラレンマ第3の「白でもなく、白でないこともない。」と第4の「白でもあり、白でないこともある。」という「あいだの論理」が頭に浮かぶからです。また、建物や樹木の陰の部分を描く場合も、色と色との“あいだ“となるので、混色の仕方に気を配る必要があります。絵をそれなりに描いている者がとる方法は同じようなものだと思いますが、ときに、「あいだの論理」との関係でそう考える者は他にいるのかなと思いつつ・・・・描いています。 以 上

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