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#1390
浦靖宜
ゲスト

お気になさらず。単に、結婚と引越しで忙しくしていただけです。
コメントにしては随分長いエッセイをご笑覧いただけたらと思います。(暇になった証拠です)

 様々な価値観がフラットに並べられている現代においては、確固とした「正義」などなく、そもそもそのような概念自体が無効のような気もしてしまいます。しかし「正義」という概念が無意味かといえば、そうではないと私は思います。
確かに「正義」はない。今この瞬間には。「正義」は後から作られるものであり、未来からやってくるのです。どういうことでしょうか。

 それが最もわかりやすい形で現れたのが、女性たちのMeToo運動でした。ほんの数十年前までは男が女に対し抑圧的に振る舞うことが是認されていました。それが後になって今、「正義」の名の下に過去の男たちの所行が断罪されています。この例が男のセクハラという当時としても褒められた行為ではないという点で例として相応しくないのなら、BLM運動で話題になった、かつての白人の偉人たちの銅像が、彼らが人種差別主義者だということで、取り壊された例を思い浮かべれば良いかもしれません。
 銅像の彼らは確かに英雄だったはずでした。しかし現代の歴史は彼らが人種差別主義者であったという点に焦点を当てて再解釈されているのです。彼らを尊崇している右派の人々は左派によるこうした銅像破壊行為を歴史修正主義と非難するでしょう。この非難には一理あります。歴史を解釈することは常に修正を孕むからです。しかし、右派の人たちも30年前にソ連が崩壊し、レーニンの銅像が倒された時に、今、BLM(Black Lives Matter)で左派がアメリカの英雄たちの銅像を破壊している際のあの陶酔した気分、歴史が正されているというあの実感を感じていたはずです。

 「正義」は未来からやってくる。今を生きる私たちにはそれがどんな形をしているのか正確に知ることはできません。私たちの今当たり前と思っている行為は、数十年後は許されない可能性があります。私たちは常に、未来に裁かれる存在です。
 私たちができることは、未来の「正義」を想像し、それを先取りしているかのように振る舞うことだけです。
 ではどうすれば未来の「正義」を想像することができるのか。それは他者との、闘争も含めた交流なくしてはあり得ない。MeToo運動を駆動する「正義」は「女性」という男性社会にとっての他者との交わりなくしてはあり得なかったし、BLMは「黒人」という白人社会にとっての他者との交わりなくしてはあり得ないものでした。
 私たちが「正義」を作り直す時、そこには必ず他者が伴います。そして忘れてはならないのは、そこには失敗も伴うということです。私たちが次の他者とあった時、私たちは失敗を犯すでしょう。そして私たちは未来の「正義」に断罪されます。しかしその「正義」は私たちの失敗を糧にして作られた「正義」なのです。

 もしかしたらこう反論されるかもしれません。MeTooにしてもBLMにしても、その「正義」は近代国家における価値観、「人権」を前提にしてのものであり、このような「正義」が可能だったのも、男性も女性も、白人も黒人も同じ近代国家のプラットフォームに依拠しているからにすぎず、そのプラットフォーム自体を共有しないものとの「正義」の共有は不可能ではないか。と。
不可能だと言い切ることは避けたいですが、確かに著しく難しいのも事実です。

 ここで私が想起したいのは、カール・シュミットというワイマール期のドイツの政治哲学者です。彼はナチスドイツの御用学者としても悪名高いですが、何よりも有名な彼の政治哲学は友/敵理論でしょう。「政治とは友と敵を分けることである」という彼のテーゼは、人々を友と敵に分断し、友の中では全体主義化を生じさせるとして、ナチスの結果も踏まえて危険視されています。確かに彼の思想はまさしく危険であり、かつ的確であるがゆえに、現在の政治状況を「友/敵に分ける危険な状態だ」と分析する論者が多数います。シュミットの政治に対する理解が的確だからこそ、使えるのです。

 しかし私はシュミットの「友/敵理論」のポジティブな面に着目したいと思います。ポジティブな面とは何か。それは「敵が存在することを認めること」です。それのどこがポジティブなのか。
 「政治とは友と敵を分けることである」というテーゼの逆を考えてみましょう。それは友と敵がなくなることです。シュミットが最も危惧していたのは実は「敵の消滅」です。彼が念頭においていたのは当時、世界平和のために設立された国際連盟でした。それは経済的な自由と民主主義が結びついた、(今の私たちにも馴染み深いアメリカ的な)自由と平等を重んじた体制の世界的な広がりでした。この体制においては、それに従わない者は犯罪者とされ、処罰の対象、抹殺の対象とされます。それが世界規模で適用されるのです。
 
 「友/敵」の「敵」は戦いの相手であって、「悪」ではありませんでした。「敵」は時に「友」の存在を脅かすものであり、「「友」が生きるためには時として戦わねばならない存在なのであって、「悪だから、正義に反するから、抹殺しなければならない対象」ではないのです。それが国際連盟によって、「敵」は犯罪者となり、殲滅しなければならない「悪」とされました。現代では「ならず者」や「テロリスト」という言葉がそれにあたるでしょう。シュミットは『政治的なものの概念』(1932)のほぼ末尾に近いところでこう記します。「(…)そこにはもはや戦争という語はなく、ただ執行・批准・処罰・平和化・契約の保護・国際警察・平和確保の措置だけとなる。対抗者はもはや敵とは呼ばれず、その代わりに、平和破壊者・平和攪乱者として、法外放置され、非人間視される。また、経済的権力地位の維持ないし拡張のために行なわれる戦争は、宣伝の力で「十字軍」とされ、「人類の最終戦争」に仕立てられざるをえない。」(カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩/原田武雄訳 未来社p.102)
 私たちはもう一度「敵が存在することを認めること」に立ち返る必要があるのではないか。「政治とは友と敵を分けることである」というのは少し認識論的なニュアンスのある言い方です。結果、シュミット的な状況を危惧する現代の論者は友と敵を分けるような見方を危険視します。確かにそのようなものの見方が、下はネトウヨから上はトランプ大統領まで溢れています。しかし本当にそうした見方が危険なのは、それが人々を友敵に分けているからというよりも、友敵に分けた上で、敵に「悪」のレッテルを貼るからではないのか。敵はただ敵として存在している。それを認める寛容さが必要だと思うのです。

 敵は敵として存在している。敵は必ずしも「悪」ではない。では、「敵」とは私たちにとってなんのなのか。私は最後にもう一つキーワードを出したいと思います。それは「毒」です。ここではドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー)での議論を念頭においています。
 「毒」は体に悪いものであり、それを摂取することで、私は死ぬ可能性もあります。つまり毒という存在が、私の存在を脅かす。「敵」は「友」の生存を脅かすものでした。「敵」とは「私(友)にとって毒になる存在」なのです。もし「敵」が「悪」だとするなら、それは倫理的な意味での「悪」ではなく、単に体に「悪い」という意味での「悪」なのです。なぜ毒は体に悪いのか。それは毒が体のあり方を化学的に変えてしまうからです。その変化が大きすぎると、それはもはや元の体ではなく、存在を維持しえなくなります。
 何が言いたいのか。現代思想で散々言われてきた「ファルマコン」のことです。「ファルマコン」とは古典ギリシア語で「毒」のことで同時に「薬」のことでもあります。別に難しい話ではなく、ある存在が毒にもなれば薬にもなるという、ギリシアに限らず、どこにでもありそうな教訓です。
 敵はただ存在する。私たちにとって毒になる草がその辺に生えているようにただ存在する。そして敵=毒は時に薬となる。それは友の体を化学的に変化させてしまうもので、友は敵を食らうことで、かつての友でなくなるのです。それは敵(敵は敵にとっては友)にとっても同様です。

 中国は今後もチベットを、香港を呑み込むでしょう。それを武力で阻止することは現実的ではありません。もし私がチベットや香港に期待することがあるとしたら、武力による独立ではなく、それらが中国の内部で、中国の国家体制に毒として作用し、内側から変容させる可能性です。(そういう点では今回、香港のデモで、指導者となった若者たちが軒並み逮捕されているのが悔やまれます。香港が今後中国に呑まれた時、毒として作用するはずの彼らに、既に参政権が剥奪されているからです。前科のある彼らが政治家になるのは極めて困難です。毒は毒になる前に中和されてしまったのです。)

 「正義」は未来からやってくる。それは敵=毒と出会った私たちが否応なしに変えられてしまった結果見えてくるものなのではないか。私たちの周りには敵がいる。それは摂取すれば死に至るかもしれず、必ずしも無理に摂取しなくてもいい(=関係を持たなくてもいい)。しかし時に摂取せざるをえない時がある(=戦争、交流)。その結果、特に関係が変わらないこともあれば、お互いに変容していることもある(毒=薬の摂取)。未来の「正義」は変容した未来の私たちの「正義」なのです。

 以上が、私が、異なる他者との接触や、共有すべき「正義」とは何かを考える時に、とりあえずこう構えておくべきなのかなと思っていることです。今この瞬間、何が正しいのかは判然としないことが多いですが、接触において生じる様々な交渉(暴力的なものも含めて)が、未来の何かにつながると信じて、たとえ未来に断罪される可能性があったとしても、未来においても正しいと思った行動をすることが大事なのではないか。(厄介なことに、その未来の「正義」もまた、そのさらに先の未来の「正義」に断罪されるかもしれないのですが。)そして交渉において暴力的なものを含めたとしても、敵の消滅はあってはならないこと、敵の存在を認めることが、未来の私たちの可能性を担保する上でも大事なのではないかと思います。
 
 本当は未来と同時に過去のことも踏まえて考えたかったのですが、そこまでは至れませんでした。未来を考える上で、過去を想起することが重要になるとは思うのですが。そして過去や未来という時間軸を持たないような存在における正しさについても含めて考えてみたいですね。

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