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#1392
浦靖宜
ゲスト

1.当時は罪に問われなかったことが、後になって罪に問われる可能性も含めて考えるべきだと思います。その時は良かれと思ってやったことが、後になって責められることは往々にしてあります。法律であれば、事後法の禁止原則がありますが、それでも戦争でカオスが生じた場合は事後法が止むを得ない場合もあります。ニュルンベルク裁判や東京裁判がその例です。当時は彼らなりの判断で正しいと思ったことをやったのかもしれませんが、今はそれは間違いだったという評価が主流です。また、やったもの勝ちどころか首を絞められています。
正しい判断が何かわからないままで判断せざるをえず、判断は歴史に委ねる他ない局面があるけれども、それは安易な居直りを許しているわけではないのです。居直る人はそもそも未来とか考えません。
もう少し具体例をあげて話せば、昔は精神病者は精神科病院に強制的に長期入院させられ、社会から隔離されていました。それ以前は座敷牢で劣悪な環境に置かれていたので、精神科病院への強制入院は彼らを救うために良かれと思ってやっていた面があります。しかし、今ではそれは人権侵害であり、精神疾患があっても支援を受けながら地域で過ごせる社会にすべきと考え方が変わってきています。今、かつて長期入院を促していた者たちは、それを反省すべき局面に立たされています。かつては自分は精神病者のために尽くしたと誇れたのかもしれませんが、今、それを誇ったら非難されるでしょう。
当時の価値観は今の価値観と違うから仕方ないと言えないこともないですが、しかし、過去に誰かが、「それはやっぱり間違っている」と思い行動したから今の価値観がある。過去の段階で未来への萌芽があった。それを掴めなかった責があると思います。
私も何かを選択する際は、この行動は100年後の未来にも許される行いだろうかと考えることがあります。
例えばペットの購入です。今は皆当たり前のようにペットショップで犬や猫を購入しています。しかしその流通過程においては大量の犬、猫が殺されてしまう。またペットショップの犬、猫は血統が価値を持つ。そのため、常に品種改良がなされています。ブルドッグは自然分娩では生まれず、必ず帝王切開で生まれます。顔を大きく品種改良しているので、産道が通らないのです。またダックスフントは膝に病気を抱えています。あの体型を維持するために生じている遺伝病です。現代は愛玩動物を飼うことが当然の権利として認められていますが、一方で動物愛護の考えも広まっています。今後はそれは反倫理的となるかもしれません。今の人が未来において直接責められることはなくとも、SNSなどのペットの写真は削除しておかないと炎上するかもしれません。私の実家もマルチーズを飼っていますが、もし私が犬を飼うとしたら、捨てられてたり、殺処分を待っていたりするような犬以外は飼わないでおこうと考えています。もちろんこの判断はまるっきり見当違いで、100年後の人類もあいかわらずペットを買い、殺しまくってるかもしれません。でも私は私の選択の方が正しいだろうと思っています。100年後ではなく200年後の未来の倫理なのかもしれませんから。
(動物をどう扱うかは近年極めてセンシティブな問題です。サーカスでショーをさせるなど言語道断な世の中になりました。日本ではイルカショーが残っていますが、ヨーロッパはイルカショーは動物愛護に反すると考えています。動物園のあり方も昔より遥かにそのあり方が問われるようになっています)

2.生態系に限らず、場合によっては戦闘にならざるをえない存在を指します。シュミットは領邦国家を想定していたと思います。日本だと戦国大名がわかりやすいでしょうか。小説やドラマの影響で、戦国大名は皆天下統一を目指していたかのようなイメージですが、そんなことはなく、多くは自分の所領と領民を維持できたらそれでよかった。隣国との戦争も、そのための手段でしかない。適当に戦って、ある程度決着がついたら、講和して、領土を割譲してもらったり、賠償金をもらったり。ヨーロッパも似たようなもので、戦争には一定の形式があり、敵を殲滅するまで戦うようなものではなかった。国民国家誕生後も、しばらくはそのような状態が続きましたが、徐々にその状態が崩れ始め、第一次対戦以後、「人類のための」や「民主主義のための」みたいなお題目が唱えられるようになると、いよいよ殲滅戦に入ります。相手の国家体制を完全に破壊し尽くすまで、戦いをやめられない。勝って領土を得たり、金を得ることが目的ではなく、非人道的な国家を消滅させることが目的だからです。第三帝国も、大日本帝国も今や存在しません。
それだと流石に人が死にまくるので、多少小競り合いがあっても、敵の存在を認めて、共存した方がマシではないかというのが、『政治的なものの概念』で考えたいところですね。どれだけ犠牲が出ても北朝鮮を滅ぼす方がいいか、多少、小競り合いはあるが、とりあえず存在は認めておくか。私は後者の立場です。

生態系に例えるなら、人間にとっての熊みたいなものでしょうか。熊は時に人を襲います。仲良く共存できたらいいですが、円滑なコミュニケーションは望めないので、とりあえず棲み分けておく。でも時に境界で小競り合いが生じる。人もただ殺されるわけにいかないから、その時は銃などで応戦する。ただ、熊も人も常に戦いあいたいわけではないので、遭遇すれば必ず殺し合いになるわけではなく、多くは互いに相手の出方を伺いながら、戦闘を避ける。
私は熊にあったことはないですが、スズメバチにはたびたび周りを囲まれることがありました(昔の偉人の墓とか祠とかに探索に行くと大抵、巣があるんです)。今のところ刺されたことはありません。ラッキーなことに、いずれもスズメバチが私の周りを囲んで、カチカチカチと警告音を鳴らします。「それ以上、攻め込むつもりなら刺すぞ」ということらしいです。ラッキーというのは、スズメバチは警告音を鳴らさず、有無を言わさずに刺してくることもあるからです。刺さずに、警告音を鳴らすということは、交渉の余地があるということです。向こうも人間一人撃退するのは結構体力のいることなので、できれば戦いたく何のでしょう。
カチカチと鳴らしつつ、スズメバチの並びに微妙に隙間ができます(できたように見えます)。そこにゆっくり動いていくと、サーとスズメバチも道を開けて通してくれます。
スズメバチも熊も害虫、害獣であり、時には殺しあう必要がありますが、絶滅させる必要はない。
そういうものとして人間同士の「敵」も捉えたらいいのではないか。人と熊の鬩ぎ合いに倫理も善悪もない(というと本当は微妙で、人類学的には多くの文化が、熊など人以外の存在ともコミュニケーションをしており、そこには倫理があるからです。)

3.物理的にも損傷を与え合います。敵と戦闘になれば互いに傷つけ合います。同時に敵との交流で互いの文化に影響を与えることもあります。敵との攻防に倫理も善悪もないと言いながら、とは言え、私たちは敵の影響を受けます。私たちは異文化に対し、様々な反応をします。それは毒に対するアレルギーのようなものです。ショック死することもあれば、完全に毒を跳ね返すこともある。一方で、ショック死には至らずも、毒の影響を受けてあり方が変わってしまうこともある。コロナのおかげで、人類もウイルスによって進化してきたという考えが、人口に膾炙しつつあります。例えば子宮の胎盤はウイルス由来です。赤ちゃんは母体にとって異物なので強いアレルギー反応が生じます(つわりですね)。しかしそれで赤ちゃんが殺されたら元も子もないので、胎盤が保護する役割を負うのですが、その性質がウイルス由来だそうです。アレルギーをなんとかかわそうとしてきた結果、ウイルスにアレルギーに対抗する能力がつき、それを借用しているみたいです。
同様なことが、異文化を受け入れる際にも言えないだろうか。私たちは他者にアレルギー反応を起こす一方で、私たちの体質も変わっていくのです。それは元の価値観や美意識の破壊なのかもしれませんが、新しい価値の創造なのかもしれません。

シュミットの「敵」という概念と、ドゥルーズ=スピノザの「毒」という考え方を結びつけたのは私の思いつきで、思想的に根拠があるわけでもないので、いろいろ穴はあると思いますが、結構鍛えられるんじゃないかと思い、述べてみました。
蛇足ですが、敵は当然、お互い同士が敵です。私にとっては彼は敵であり、彼にとっては私が敵です。

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