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#1403
浦靖宜
ゲスト

①もちろん個々人の選択は諸般の事情を考慮してですが、というよりも諸般の事情であれ、それぞれの事情は、それ相応の正しさの裏打ちがあると思いますよ。家族を守るためとか、個人の自己保存のためとか、社会を維持するためとか。じゃあ、どれを優先すべきなのかが問題で、少なくとも一方的に他者の権利を侵害するようなことは許されないというのが一応広く通用している正義であり、それを無視するような行動は事情がどうあれ駄目だと思います。(ちなみにワンオブゼムのゼムは具体的にはどのようなものですか?諸般の事情の一つに正義があるのではなく、正義を前提に諸般の事情を考慮するのが、「正義」という概念の正しい言葉遣いではないでしょうか?)

また前のコメントで上がった非近代の宗教に於いては、そもそも人間の権利として何が与えられているのかの考えが違うので(たとえば、私たちには結婚の強制など女性の権利の侵害と思えることが、ある宗教では認められているのは、その宗教の世界観では結婚の自由が女性にあると認められていないからであり、そこはどこまで折り合いがつけられるのか対話を続ける必要があると思います。

⑦事なかれ主義云々は正義の議論とは関係がないので、あのように答えました。正しさを理由にではなく、雰囲気とか圧力を理由にそれが選ばれることは残念なことです。ただ結果、正義が実現するなら、何よりでしょう。今度は心の底からそれを正義と思ったからそうしたと言えたらいいですね。

私はセクハラや差別はいついかなる時も不正義であり、普遍的だと考えていますよ。これに関しては昔の人とは正義感が異なるのではなく、昔の人が端的に間違っていたと思います。
コカインについては、私個人の見解では正直自由だと思います。それ禁止することを正当化するためには、コカインの使用の結果、必ず不正義が起こるのだと立証する必要があります。必ずしもそうでないなら使用の自由の余地はあると思います。コカイン云々はkiba さんが持ち出した例であり、私もわかりやすいかなと思ったので乗っただけです。ただし注釈(教育)はやはり必要ですよ。車の運転は誰でも自由ですが、一定の教育を経た上でないと駄目というのと同じです。

以前似たような議論になった時に私は善と正義を分けて説明しました。kibaさんが正義はそれぞれだという時のそれぞれは、実は正義ではなく善だと思います。何を善いとするかは確かに共同体や時代によって異なります。異なる善をなんとか調停するために、要請されるのが正義だと考えています。わかりやすく言えば法律(善)は各国によって異なるが、とはいえそれらの法律は、せめて国際条約(正義)に抵触しない範囲で調整してくださいということです。
もちろん国際条約の締結はとても困難であり、それ以上に幅の広い正義を定めるのは事実上は不可能です。でも不可能だと諦めてなんでもありにするくらいなら不可能でも正義を追求すべきです。完全な正義は無理でも不完全な正義は可能で、不完全さをより完全に近づけることも可能だと思います。

私がよくないと思うのは、「正義は人それぞれだから正義なんかないんだ」ということが、当然のように広まっているように思われることです。そんなの小学生でも言えます。で、どうするかを考えないと意味がない。ちなみに私は「善は人それぞれだから、それらが折り合いがつくように正義を作らないといけない」と考えています。

「しかし現在の常識に従っている多くの人にそれを求めようとは思いません。」
私が褒められた態度でないと言ったのは、もうすでにその常識が間違っていたと分かったのに、あの時は間違っていたと反省しない態度ですよ。例をあげれば
1950年に常識と称して人種差別を行う人物がいた。
2000年にそうした常識は間違っていたと人類は気づいた
ところが2000年においてその人物は1950年にとった人種差別的行動を「あの時はそれが常識だったんだ。私は悪くない」と反省しない。
それは褒められた態度ではないし「反省しろ」というべきでしょう
すくなくとも私は軽蔑します。「あの時はそれが常識だったけど、やっぱりいけないことだったなぁ」と反省するならいいですが。

神様云々は上記の共同体や宗教によって善が異なる云々の議論ですね

奴隷制云々に関しては、正義が不確実というより端的に不正義だと思います。強いていうならその時代の善の一部はそうだったってことでしょうね。しかしそれは正義による調停の結果、取り下げてもらうこととなりました。正直、私はある人が「〇〇人は人にあらず」と信じること自体は、彼らの善として認めていいと思います(ただし、信念を改めてほしいとは思います。)しかしその信念に基づいて実際に〇〇人を物として扱ったら、その行為は不正義として修正させるべきです。でも彼らはそんな正義に同意しないでしょうね。すくなくとも修正を求めくると思います。その時は彼らと議論せねばなりません。
もし彼らが正義そのものをいらんとつっぱね、どんな努力を重ねても突っぱねるなら、一旦棲み分けて互いに干渉しないことにするしかない。ただその前に彼らの共同体の中にいる人で、こちら側に来たい人は全員連れ出してからが理想ですね。彼らがそれに抵抗するなら、武力で応じる必要があるでしょう。この辺りを考える上で私は「敵」という言葉を出したのでした。

おそらく現実において「敵」となりうる存在は部族社会の形態をとると思います。部族社会は広がりを持たないので、その範囲内での不正義(たとえば生まれた赤ちゃんを精霊として焼き殺し天に返す)は、私たち「人間」の外のこととして慇懃に無視します。なぜなら、そもそも「人間」とは何かが私たちと彼らとで根本的に異なるからです。
一方でかつての白人も黒人を人間とは見なさなかったり、ある宗教が特定の性別を私たちが思うような意味での人間と見なさなかったりすることはありますが、それらの共同体が互いに関わり合う状況であれば、正義にかなった「人間」とは何かを定めて、各人間観をそれに合わせてもらう必要があるでしょう。部族社会は彼らの中だけで小規模に完結している限りで、その不正義を無視できます。

なかなか苦しい理屈だと思いますが、たとえ現実には不完全だとしても簡単に正義を捨てるわけにもいかない。一方で、不完全な正義は常に実はそれは正義でなくある共同体の善に過ぎなかった可能性があのる。単なる善が正義と称して他なる善を駆逐するのは、それこそ不正義だ。よって私たちの正義が単なる善である可能性を踏まえて「敵」という概念で、正義の外の存在を認める措置を取っておくことにします。

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