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#1410
浦靖宜
ゲスト

「ラウンドロビン型でもネットワーク型でもよいのでは?」
それで具体的にどのように正義が機能するのでしょうか?
定義上そうだからとしか言いようがありません。

「「正義の戦争より不正義の平和」「命あっての物種」「命より誇り」「命より神の栄光」等を想定しています。」
良い例だと思いますよ
たとえば「命より誇り」と「命あっての物種」は時に対立する。最近だと尊厳死や安楽死の議論がそうですね。普段は命が一番大事だとされているのに、時として、死を選ぶ権利を重視すべきだとも考えられる。ではどういう状況なら「命あっての物種」から「命よりも誇り」にシフトしていいのかの誰もが共有できるルールが定まれば、それがここで論じられている「正義」となります。

まず、現代においては「人間」は生物学的な「ヒト」として認識されており、私たちグローバルな社会はそれを共有しています。黒人も白人も同じ「ヒト」であり、「人間」なので、そこに差別があってはならないとされています。(ただし将来的にはこの定義が拡大される可能性はあります)
一方で部族社会、特に例に挙げたような習俗がある社会では、「人間」はその視点にまさに立っている存在を指します。簡単に言えば「人間」とは自分たちの視点に立つもののことです。どういうことかと言うと、ヒトにとってヒトは人間です。そして(ヒトからはオオカミに見える)オオカミにとってオオカミこそが人間で、ブタにとってはブタこそが人間です。こうした世界観はパースペクティブ主義と呼ばれており、アメリカ大陸先住民に見られ、さらには環太平洋の部族社会に広く見られる世界観ではないかと考えられています。アイヌなどもこうした世界観を持っているように思われます。
そうした世界では「人間」という概念の意味が異なる。また部族社会はグローバル社会の仲間入りがしたいわけでもないので、私たちの「人間」という概念に合わせる必要もない。なのでそれはそれで勝手にやってもらっていればいいのではないか。

さて問題はかつて白人が黒人やアメリカ先住民に対して酷いことをしたのも、「人間」観の違いゆえでした。では部族社会と同じではないのか?
ヨーロッパ人は、新大陸の「ヒト」がヨーロッパ人が理解する「人間」と同じなのかそうでないのか考えることになります。現代からすれば「人間」に決まっているわけですが、現代と、かつてのヨーロッパ人ではやはり「人間」という概念の意味が異なる。
ヨーロッパ人にとって「人間」とは「神を理解する魂を持つもの」です。要は「魂があるかないか」が人間かそうでないかの基準であり、そうでないと見做されたなら、動物ということになる。

ちなみに先住民のパースペクティブ主義では、「人間」とは自分たちのことなので、それ以外は人間ではない。よって私たちから見れば同じ「ヒト」も人間とは見做されない可能性がある。ヨーロッパ人が魂のあるなしで人間かそうでないかを判断したのに対して、ヒトにもオオカミにも精霊にも魂がある(ゆえに、ヒトにとってヒトこそ人間であり、オオカミにとってオオカミこそ人間という発想になる)とする先住民にとって、人間かそうでないかの違いは同じ身体を持っているかどうかです。そこで彼らは白人を捕まえてきて、水につけて身体が腐るかどうかを確かめたという記録があります。腐れば人間で、腐らなければ精霊かなにかだろうと。

ヨーロッパ人と先住民の出会いにおいては、お互い様なところがありますが、その後ヨーロッパ人の方は先住民を人間と認めた以上、かつて非人間として酷い仕打ちをしたことを反省すべきだし、人間と認めてからも差別的な扱いをすることは許されない。私たちが先住民よりもヨーロッパ人の方に批判の矛先を向けるのは、ヨーロッパ人の世界観(人権という考えがその代表です)こそ私たちグローバル社会の世界観に直結していると考えるからです。

これはこれで、ダメな感じですね。じゃあたとえば江戸時代の身分制を批判するにはどうしたらいいのでしょう?という問題が出てきました。ヨーロッパと関係ないのなら批判できないのではないか?

ちょっと話がずれるかもしれませんが、安倍首相がアメリカの議会で民主主義は(敗戦後)アメリカがくれたと演説した後で、美智子皇后が誕生日か何かの談話で「五日市憲法など、日本では明治の頃から民が議論し政治に関わる土壌があった」的な発言をしていました。一般的な歴史認識としては「敗戦後、アメリカのおかげで日本は民主主義となった」ですが、それを「日本はもともと民主主義を持っていた」と過去を解釈し直しているわけです。
こういう「実はもともと….だった」という歴史の再解釈は危険をはらむ一方で、共同体に、ある価値観を埋め込む上で大事なのではないか。アメリカでも黒人差別への抵抗として独立宣言や憲法、建国の父たちの言葉を持ち出してきました。つまり「独立宣言を読めば、もともとアメリカは人種差別を否定する国家であり、人種差別をする人間はもともとアメリカ人ではないのだ」みたいな。現実の過去は差別だらけなのですが、こうしたアイデンティティの修正を図ることで、より良い社会にしていくみたいな考えが重要なのではないか。

これまでの未来から過去を評価することの議論はこうした歴史の再解釈のあり方も含めての議論でした。

ところで最初に一応戻ると
結局kibaさん自身はチベット問題をどう考えるべきだと思いますか?これまでの議論でkibaさんの立ち位置(何を重視すべきか)も見えてきたと思います。今一度もとの問いに戻るのはどうでしょうか?

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