返信先: 二元論への疑問

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#477
浦靖宜
ゲスト

私なりに答えますと(ごめんなさい。勝手に。今日休みで暇なんです)
1.「原因」と「結果」は因果律という特別な法則として観念されていて、「環境」・「評価」etc…は全て「原因」と「結果」に還元されてしまうのではないかと思います。仏教はそんな感じですよね。「環境」が「原因」の一つであることもあるし、「目的」を設定したことが「原因」になることもあるでしょう。「評価」は「結果」として得られるものでもあり、「悪い評価」が次の行動の「原因」になり得ます。

2.①何の色もついていない「無色透明」なものを本当に認識できるかどうかはわかりません。多分、コップの中の水とかを想定しているのかなと思います。確かに「無色透明」感はあります(厳密には僅かに青いんですがね)が、それも周りの風景に色があり、相対的に無色に見えると考えるべきでしょうか。もし世界が全く無色透明なら、無色透明であることを認識できないと思います。真っ暗で「何も見えない」というのも「「何も見えない」という風に見えている」わけですね。私は暗室に入ると黒いと感じますが、それは普段それ以外の色を光を通して見ているので、光の届かない暗室では、光を吸収して目に反射させない色である黒と同じように見えるのでしょう。

②0が存在する、0という数があるというのはインド的発想ですね。0はそれまで10や100といった時の一の位や十の位の空位、つまり位取りの0として使われていました。インド人が初めて、「いや位取りという便宜的な記号としての0ではなく、0という数が存在するんだ」と考えたようです。エクセルのセルに0を記入すると空白になるのは、0を位取りの0、空位と認識しているからではないでしょうか?もちろんセルの文字設定を数字に変えれば0として認識するでしょう。
①とも関わりますが、0が存在すると認められたのは、1や2といった他の数字の関係性からきているのではないでしょうか。「2個の石から1個とると残りは1個。そこらもう1個取れば、石はなくなる。いや無いという意味で石がある」みたいな。石が今はない=無と言えるのは、さっきまで石が1個あったからで、一個が無を認識させている。「一個は数字何だから、じゃあ無も数字でいいじゃん」みたいな。

これは唯識派における「空」の理解ですが、「空」は虚無ではありません。『瑜伽師地論』には「空」とは何かを論じる場面で「これにそれが存在しないことが、“それ”を正しく空であると観察したことである。また、これにおいてそれ以外のものが存在することが、それ以外のものが実在するとありのままに知ることである」と述べています。彼らはめっちゃ代名詞使うのでわかりにくいですが、「これ」を部屋、「それ」を人に置き換えると
「部屋の中に人がいないことが、人が空であると観察したことだ」となります。部屋という場所性なしに、あれがない、これがないというのは間違っている。何かが無いといえるのは、それが在る無いといえる場所が想定されている時のみだ。場所なしに、あるも無いも無いというわけです。逆に場所があることで、その場所に「無い」ことが在るわけです。ちょっとカントの感性論に似てますね。空間のアプリオリ性みたいな。
以上の「空」理解は龍樹などの中観派の「空」理解ともまた違うと思われますが(これから勉強します)、何かが在る無いというにも別の何かとの関係性として捉えなければならないというのがインドから伝わる仏教の考え方かと思います。

③訴訟却下は、単に手続き上、間違いがあったり、理由が妥当じゃなから却下されるものでは無いでしょうか。

3.星雲は肉眼では二次元的に見るしかないし、今の科学技術を使えばスクリーン上では三次元で見れそうですね。宇宙遊泳ができたら時間の推移も考慮しないといけないかも・・・。ただ「星雲」が存在しているわけではなくて、ある宇宙の塵芥の塊のように見える部分を「星雲」とこちらが勝手に認識しているわけです。もちろん科学的に定義はありますし、それぞれの星の重力の影響関係みたいなもので、境界をある程度割り出せるでしょう。我々の認識もそれに基づいているわけですが、宇宙全体を見通す能力があれば、塵芥(でかいでしょうけど)がお互い影響し合いながら浮いているだけですよね。そして全く影響を受けない塵芥もある。そういうスケールであれば、そもそも「境」など無意味なのかもしれません。もちろん先ほど重力云々と述べたように「星雲」という科学的知が無意味なわけではなく、とても有用ですが。スケールを変えることで、見方を変えられるのが哲学の面白いところですね。

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