返信先: 縁の論理・倫理と凶悪犯罪者

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#494
木岡伸夫
ゲスト

 非常に難しい、重い質問です。〈縁の論(倫)理〉が仏教の理念に立脚する以上、仏教との距離をどう設定するのか――この問いかけから逃げることはできません。小杉先生のおっしゃったことを、少し違った角度から突っ込み直された、と感じます。人間として、他者との縁の有無を分ける、その上で麻原は「無縁」の徒として切り捨てる、というのがひとまずの回答でした。これは、〈縁〉の世俗的な活かし方、凡俗の凡俗に対する対応です。ですが、大乗仏教の理念に立つなら、麻原もヒトラーも阿弥陀仏の「摂取不捨」に与るべき存在である、そう言えるでしょう。救いようのない悪人すら、阿弥陀仏は見捨てることがない。そうでなければ、浄土教は意味をなさないと思います。貴方が「原理的に」とおっしゃる、そのお考えに同感です。この点、僧侶が質問者に立腹したというのは、信仰の問題のプロとしては、「失格」と言わざるをえません。やりとりのコンテクストが不明ですが、宗教上の立場と現実上の対応(犯罪者との接し方)をごっちゃにしてしまうような状況が、そこに生じたのかもしれません。
 となれば、お前の言う〈縁の倫理〉は、大乗仏教の根本理念から距離を置く、一種の世俗的倫理なのか、と問い返されるでしょう。そうだと申し上げます。私が〈縁の倫理〉を提起した理由は、対面状況に発生する「責任」(応答能力)しか問題にしない(できない)、今日の「倫理学」の狭さに対する不満です。ですから、おのれの不満解消に仏教を利用したのか、と反論されれば、それを認めざるをえません。一言だけ――罪業深重の悪人が、いかにすれば救われるかは、世俗的な倫理で解決できる生易しい問題ではありません。現にそれにもがき苦しんでいる、私自身の最大のテーマだと申し上げます。

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