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#509
浦靖宜
ゲスト

ある一つの回答から様々なことが触発されていくのが、哲学の面白いことであり、めんどくさいところでもあります。
土屋さんの回答からめんどくさいことを考えてしまいました。

それは「水はH2Oなのか問題」です。

確かに土屋さんのいう通り、光が物体にあたる時、一部を吸収し、一部を反射することで我々はそれを色と認識しています。そうした仕組みは科学で説明可能です。では「白」とは「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているもの」なのでしょうか。我々は「白」という言葉を、そういう意味で使っているのでしょうか。「赤」は「660ナノメートルの波長」のことなのでしょうか。「紅色」はどうなるのでしょうか?「あかねいろ」はどうなるのでしょうか
日常的にはそういう意味で使ってなくても、科学的にはそうなのだ。紅色も、あかねいろもなんらかの波長の長さに還元可能だと主張するかもしれません。ある民族は「温かい色」と「冷たい色」という表現しか持たないみたいな話をソシュールの入門書かなんかで読んだ記憶がありますが、それも「ある長い波長からある短い波長までの色が彼らのいう温かい色だ」みたいに言えるかもしれません。

では、人類がもし科学を発展させることができず、永久に光の波長など気づかない歴史を歩んだとして、その歴史の中の人類の「白」という言葉も「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合しているもの」であり、「赤」は「660ナノメートルの波長」のことなのでしょうか。

これは結構難しい問題です。私はそうじゃないと思いますが、そうでないという人を完全に論破できるとも思えません。

とはいえ、もし厳密に科学的たれと思うなら、曖昧な「白」という言葉は禁止にして、「波長600ナノメートルの赤と580の黄色と520の緑が一定の割合で混合して見える歯は綺麗だな」とか「水」という言葉は禁止にして「喉が渇いたからH2Oが飲みたい」というべきような気もしますが、これは意地悪な言い方ですね(笑)

土屋さんの言葉を借りれば「男と女」と同様、色も日常言語においては質的な何かな気がします。科学もまた日常言語を借用せざるを得ない。我々が言葉を使って表現している以上、これは避けられないような気がします。

「脳死」自体は科学的判定できても、それを「死」と見なすかは文化によって異なりますし、個々人で違うこともあるでしょう。
日本で「脳死」が「死」と受け入れられない理由に仏教の影響があるんじゃないかと思います。もしかしたらすでに何かの本で指摘されているかもしれません。
仏教は「死」を「識」と「温かさ」を失うことと捉えています。「識」はとても厄介な用語ですが、とりあえず精神ということでOKでしょう。「温かさ」は体温のことです。肉体が冷たくなった時が人が死んだ時です。私も子供の頃、大ばあちゃんの遺体を触って、それがとても冷たかった時に、はじめて「死んでる」ってことをリアルに感じた気がします。
「脳死」では肉体は生きているので温かいんですよね。「死んでいる」とは実感しづらいと思いますね。

美術の授業で一番苦手なのが、彩色でした。色の微妙な変化、グラデーションを捉えて、彩色するのが本当に難しい。普通に「ここは白だから白をベタ塗りすりゃいいだろ」って塗ってましたね。ひどい。
「白だけど白じゃない」っていうのは彩色の心構えに良さそうですね。

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