浦さんには、面倒くさいことを考えさせてしまい、またお返事が遅くなてしまい、申しわけありません。ただ、「哲学には面白いところもある」ともおっしゃっていますし、そのとおりに、「白い歯」の話には一瞬ひとり笑いをしてしまいました。本当にああなったら、ウカウカお隣さんともおしゃべりできないし、恋人に手渡す薔薇でも、花の色が話題になったとき、薔薇の波長の数値を忘れてしまわないか心配で、気持ちを伝えるどころでありませんね。
浦さんの「赤なら赤という事実または現象を正確に伝える場合、どんな表現が適切なのか。」という疑問について考えてみました。私の説明が不十分だったせいがありますので、補足・修正させていただきますと、「波長680ナノメートルが赤色である。」と書いた部分は、正確には「人間には波長680ナノメートル近辺の一定の幅のある波長の光が赤色と認識される」ということです。例えば、730ナノメートルを越えていくと紫みのかかった赤色の「紅色」や「あかね色」に近づき、逆に、630ぐらいに落ちると黄みがかった「橙(オレンジ)色」に近づくというように、日常語で「赤」と表現した場合には、波長の幅が許容されているためです。
これに関連して考えると、「赤・あか」という言葉は、「7色の一つ。血のような色。また、緋色・紅色・朱色・茶色などの総称」(広辞苑)とあり、茶色まで含まれる広い範囲だと言っています。ところで、この「あか」という日本語は、有史以前の古代日本人から受け継がれてきた間に、「赤に近い色」を一定範囲で集約して、最大公約数の人が「あか」とひとくくりにしてもかまわないと認識したものを「赤・あか」という言葉を一種の「記号」として使うことにしたと理解することができるのではないでしょうか。
したがって、言葉としての「赤・あか」は、波長の基準での「赤」より、はるか昔から、人々の合意のもとに言葉として存在していたわけです。それに対して、波長による色の区分は、物理学の進歩によって、「赤・あか」という言葉の示す現象の内容が「680ナノメートル近辺の波長である。」ことが分かり、その「証明」ではないかと思います。そう考えると、両者は、日本人の合意にもとづく「記号」と研究と観測にもとづく「証明」という関係にあると思いますがいかがでしょうか。
それから、浦さんの「“男と女”と同様、色についても日常言語的には質的なものを感じる。」というご指摘については、まったく同感です。このことから、思い出したのは、相対性理論か何かに関連して、アインシュタインの「量は質を決定する。」という言葉です。その時は、まったく理解できませんでしたがーーー当たり前のことですがーーー光の波長の長短や、その量の違いによって、白や赤になったり青になったりと質的な面が変化するというのは、この理論が光や色に関してもピッタリ当てはまるのではないかと思いました。
あまり哲学的でない部分で、くどくどとした説明になってしまいましたが、浦さんからの疑問をいただいたお陰で、私も考えを広げることができたのではないかと喜んでいます。お返事を書いている間に思い出したことは、以前、絵のグループで研究会を開いた際に、みなに画用紙を2枚ずつ配り、それぞれに朝日と夕日を描き分けてくださいと言ったときの皆のとまどった顔が目に浮かんできました。お顔も存じあげない浦さんとこのように親しく意見を交わすことができるのも、木岡先生のホームページのお陰だと感謝しています。