「恋人に手渡す薔薇でも、花の色が話題になったとき、薔薇の波長の数値を忘れてしまわないか心配で、気持ちを伝えるどころでありませんね。」←そんなSF、ありそうですね(笑)
別に謝る必要はありませんよ。
むしろ私の方が、哲学的な疑問をうまく表現することができていないので。すみません・
土屋さんがいいこと言ってくれました。
「日本人の合意にもとづく「記号」と研究と観測にもとづく「証明」という関係」
そう、その関係についての哲学的疑問です。
波長に幅をとっても、科学者は「赤とは波長680ナノメートル近辺の一定の幅のある波長の光を人間が認識したときに感じる色だ」みたいに定義するでしょう。
でも科学を知らなかった頃の日本人はそんな知識を知らずに赤という言葉を使っていた。科学的知識が導入された時に「赤」の定義が「波長云々」になってしまった。それどころかそれ以前からずっと「赤」とはそういうものだったということになってしまった。というところの不思議さを問題にしています。
それで「水はH20か」という誰かが言ってた疑問を思い出したのですが、これはクリプキとパトナムの論争でしたね。彼らの本は実家にあるので機会があればGW中に取り寄せようかと思いますが、クリプキが科学によって水がH2O分子であると判明したことによって、「水はH20である」という命題は「アポステリオリに(経験的に)必然的に真である」としました。それに対して、パトナムは「もし地球と全く同じ双子の地球があって、そこの人間も我々と同じように海や川の液体を使ったり、飲んだりしていて、やはり我々と同じ言葉でそれを「水」と呼んでいたとする。ところが双子の地球には一つ大きな違いがあって、双子地球の「水」の科学組成はH2Oではなく、XYZだったのだ。それでも「水はH2Oである」という命題は「必然的な真」と言えるのか」みたいな反論をしたみたいな話だったと思います。(間違っている可能性があるので、要注意)
私は科学的なあるいは論理的な普遍性と、人々が偶然やってきたこと(言葉を使うこともそうですね)の結びつきに時々興味を抱くので、土屋さんに変なコメントをしてしまったのでした。
この種の問題に似たものとしては、ピタゴラスが「三平方の定理」を発見しなくても「三平方の定理」は存在しているのか(確かそんな感じ)、というフッサールが『幾何学の起源』で論じた問題がありますね。フッサールは「それでも誰かが「三平方の定理」を発見せねばならない」と主張しました。「三平方の定理」という普遍的=非歴史的知は、ピタゴラスによる発見という歴史に支えられているんだと。
最近は木岡先生の影響で、第三次仏教ブームが私の中に来てるのですが、仏教もまた普遍を扱うものとして同種の問題を抱えていたんだというのを師茂樹『論理と歴史 東アジア仏教論理学の形成と展開』という熱い(そして厚い…)本で知ったので、すぐ思考がそっちに引っ張られます。
朝日と夕日の違い。面白いですね。みんな戸惑うでしょうね。もし戸惑わないとしたら、よほど日頃観察している方か、仏教のコスモロジーを理解している人かですね。
仏教では東西南北の空(というかスメール山の四面)はそれぞれ(白)銀、水晶、エメラルド、金でできてるので、それで太陽の色の変化を説明しているようです。僧侶からすれば、朝日と夕日の色が違うなんて当たり前だろってところでしょうか。仏教でそこまで説明する必要あるのかと思わないではないですが(笑)、全部説明できないと普遍的でないですからねぇ。
アインシュタインの「量が質を決める」って慧眼ですね(めっちゃ上から目線な言い方ですが)。実際、僕たち生命が原子に比べてなぜこんなに大きいのかも、「量が質を決める」からですよね。ミクロの世界じゃ、量子はランダムで捉え所がなく量子力学を使うしかないですが、僕らくらいの大きさ(ミジンコから銀河くらい幅がありそうですが)ならニュートン力学が適用できますし。