返信先: 二元論への疑問

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#527
浦靖宜
ゲスト

まさか解答を頂けるとは…
ありがとうございます。
めんどくさい話なので無視されてもしょうがないのですが。

なるほど、常識的にはそう考える他ないような気がしますね
あと土屋さんは「言葉というのは(みんながそれでいいと認めた)約束事みたいなものだから、言葉とそれが指す対象との関係に必然性はない」という考えでしょうか。

ちなみにめんどくさいことに、双子地球の水の化学組成XYZは化学組成の表記が異なるのではなく、本当に元素から異なる、違う物質だったらどうだ?という話なんですよ。
それでも「水はH2Oである」という命題は経験的に必然的に真といえるのだろうかという、誰得?な問題です。

極めて可能性は薄いと思いますが、今後の科学の進展で「水は実はH2Oではなかった」みたいなことが発覚する可能性を否定できない以上、「水」と「H2O」の関係に必然性はないだろうと私は思います。
いや、未来にそれが何と呼ばれることになるのかわからないので、現在における「水」と呼ばれてるものが「H2O」でない可能性はないという意味では、現在において必然と言えるのでしょうか。

歴史のどこかの段階で、「水」と呼ばれているものと「H2O」は同種のものだという同定があったのだろうと思いますが、それがどういった行為を意味するのか…
やっぱり最も本質的な何かを指定することなのでしょうか。(今のところH2O)

「三平方の定理が発見されなかったとしても三平方の定理は存在する」
理系的な知識はそういうものですね。アインシュタインが「相対性理論」を発見しなくても誰かが代わりに発見しただろう。
その点、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書かなくても、誰かが代わりに書いたとは言えない文学とは違いますね。
文系は一回限りの事象の意味を考えることが主になりますね。

とはいえ現実の歴史はこの一回しかなく、この歴史上においてはピタゴラスが三平方の定理を発見しました。(あまりに過去なので確証ないですけど)
その発見がなければ、そもそも「三平方の定理はピタゴラス以外の人が発見する可能性があった」と言うことができません(あるいは「誰も発見しなくても三平方の定理は存在していた」とも)。ピタゴラスによる三平方の定理の発見という動かしがたい歴史的事実があってはじめて、別の人間による発見もありえたという可能性が私たちに認識されます。でも本当は可能性がない。じゃあ、私たちにとっては、ピタゴラスなしに三平方の定理はありえないのではないか。ピタゴラスなしに三平方の定理は存在しないのではないか(これはかなり飛躍がありそう)。

実は別の地域の人間が同様に三平方の定理を発見していた可能性はありますね。(あるいは別の惑星の知的生命体が。)ただそれは記録に残らなかったか途絶えたか。(地球まで伝達されなかったか。)じゃあ可能性はあると言えるのかしら。とはいえやっぱり私たちが三平方の定理を知らないとその可能性は問えない。じゃあピタゴラスの発見が特権的地位を占めることになるのでしょうか。

この辺りの問題は理系的な考え方と文系的な考え方が絡み合うので面白いですね。
理系は何度も何度も繰り返すことを前提にしています。(実験や統計)
文系は一回限りしか起こらないことの意味を探求します(歴史や人生)
という分け方が一つ可能です。

フッサールの議論とも関係しますが、政治的にもややこしい問題があります。
西洋でキリスト教を背景にして科学が芽生え、産業革命が起こり、全世界を支配するようになったのは必然的なのか。(フッサールはこっちを主張して西洋中心主義だと批判されたんでしたか?)
それとも何度も地球の歴史をやり直せば、次は中国が最初に科学革命を起こすかもしれないし、イスラーム圏やアフリカ、アメリカ大陸が先に到達し、世界を支配するかもしれないと言えるかもしれません。
でも現実の歴史は一回限りで、ヨーロッパによる支配しかありえないんですよね…(ジャレド・ダイアモンドなら、理系的に実験でやり直せてもユーラシア大陸優位なのは変わらないというでしょうが。でも地球の歴史をガチでやり直したら、大陸の形が変わってもおかしくないのでは?それともそれは物理的因果法則で、このような形になると決定されているのか?であれば、西洋で科学が展開するのも物理的因果法則に則って必然ということになるのでしょうか?理系的にも必然?)

みたいなことを考える(というより読んだりして、ほぇ〜となる、そして頭の中でもう一回議論を思い出してちょっと考えてみる)のが趣味ですね。

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