返信先: 二元論への疑問

トップページ フォーラム 出会いの広場 二元論への疑問 返信先: 二元論への疑問

#528
土屋隆生
ゲスト

浦さんの疑問というか設問について、答えではありませんが、次のように考えてみました。

1.「言葉とそれを指す対象との関係に必然性」があるかないかについて
浦さんが言われているのと大意は同じですが、「言葉は一定の交流のある人びとの間で合意された「記号」のようなもので、モノや現象、人の感情や意思等あらゆることを伝えあう情報の「伝達手段」です。そういう点から言えば、浦さんの言われる「言葉とそれを指す対象との関係に必然性はないといことでしょうか?」と言っておられる「必然性」の部分が少し分かりにくいのですが、「水」と「H2O」との関係を例にすると次にように考えられるのでではないでしょうか?

① 太古の昔、日本列島に住む一人の原日本人が、不純物の入った水も含めて、これを「水」とよんだところ他の人々もその呼び方に合意し、以降一定の範囲の不純物の入った自然にある液体を「水」という「記号」で呼ぶようになった。日本語と英語の表現が違うのもこの上記にいう「伝達手段」の細部が違うということだけです。
② ところが、近代の科学者が、純粋の「水」とは何かと疑問をもち、その性質・構成物質を解明したところ、それは「H2O」という化合物であることが分かったということです。そして「純粋の水」=「H2O」は実験によって確かめられ、「事実」であることが「証明」されたということです。

したがって、くどくなりますが、「水」も「H2O」も情報伝達のための「記号」であることは同じですが、使う人びとの立場や目的等いわゆるTPOの違いによるものであるということができます。繰り返しになりますが、2つの間の違いは、「水」は不純物を一定範囲含んだものを一つのまとまりとして「水」とある意味「定義」した結果の「記号」であり、「H2O」は、不純物を除いた「純水」の成分を分析し「証明」した結果の質的なものを表した「記号」であるということです。

それから、「H2O」と双子地球の「XYZ」のケースについては、
地球では、・・・・・・・「純粋の水」= 「H2O」 として、
双子の地球では、・・・・「純粋の〇○○」=「XYZ」 ≠「H2O」 ということに

すれば、答えはどうなるのかという疑問を呈しておられるのだと理解しましたが、そうであれ前提がさらに広がり、「純粋の〇○○」や「XYZ」中に入る変数も無限にあるはずです。答えは出るのでしょうか? さらに言えば、答えはあるのでしょうか? という心配が出てきます。はっきり申しあげれば、あまり生産的な答えは出てこないのではないかと思いますがいかがでしょうか?

2.文系と理系の証明方法の違いについて
ここらへんは確かに面白いところですね。「理系は繰り返し実験等で確かめることができるが、文系は一回限りでしか起きないことの意味を探究する」ところに意義があるというニュアンスでおっしゃっています。確かに、理系の証明は再現性の確認が主体になっていますが、実は、理系も1回しか起きなかった過去のことを証明することに躍起になっているケースがあります。私は理系ではないので、常識的なことしか説明することができませんが、138億年かなんかはるか昔に、宇宙はビックバンによって、ゼロからつくられ、現在もすごい速さで膨張しているということは誰でも一度は耳にしたことがあると思います。138億年前に一回だけ、しかもすでに起きたことをどうやっても、再現させて証明するのか、できるわけがありません。私は、新聞で読むぐらいの知識ですが、次のようなことでよいのではないかと思います。

① “かぐや”まで宇宙ロケットを飛ばして、そこにある石を採取して太陽系の誕生や遠い過去の生命誕生の秘密を解き明かそうとするような本来の証明方法もありますが、科学者は、再現性のない宇宙創造の過程を証明するためには、すでに証明済みの法則や理論または観測(場合により実験も)結果を援用して、まず、自分の仮説を立てます。
② 次に、①の仮設を「証明」するため、観測したり、カミオカンデン等の実験装置を使って宇宙に存在するはずのある種の粒子を捕まえて行う方法を採るわけです。最近、光も飲み込むと言われたブラックホールの撮影が成功し、その写真が公表されましたが、今まで光さえも吸収するため観測できないと思われていたのが、撮影という形で「証明」ができたということになります。

なお、最近では、ビックバンの起きた時、「宇宙には何も存在しない“ゼロ”の状態だったのか? 本当は何かが存在していたのではないかという議論もされているようです。現在、確認できる宇宙の質量を合計すると理論上の質量より大幅に少ないので、真空のような宇宙にも何らかの物質が大量に存在するはずだということで、それを仮に「ダーク・マター」と呼んで(記号化して)、科学者たちがその物質の研究に注力していることを聞いたことがあります。こうなってくると、「ゼロはゼロであって、ゼロはゼロではない。」ということにもなってきますね。まさにレンマの世界です。

いろいろ言い過ぎたきらいがありますが、ここでのテーマは、「文系と理系の証明方法の違い」でしたね。私は、上記のことを端的に言えば、「文系は“真理”を証明し、理系は“事実”を証明する。」という違いだと思っていますが、浦さんはいかがお考えですか?

3.「西洋で科学が展開することになった必然性」について
浦さんが新たに取り上げられたこのテーマについては、私の知る範囲でも、やはりキリスト教が科学や技術の進展に大きなかかわりをもっていると考えます。そりの合わないと見られている宗教と科学とのあいだの意外な補完関係ですが、世界の田舎だった中世ヨーロッパが近代科学に先鞭をつけて、世界を引っ張り支配することになった理由がここにあるという事実は否定することはできません。

ローマ法王庁が中世ヨーロッパの精神世界に君臨している間にも、哲学者たちは生命を危険にさらす場面にも会いながら、「神は本当に存在するのだろうか」という疑問をもち続けた結果、「神の存在を直接証明することはできないので、天地創造の神が創り給うたこの世の現象や人またはモノの実際の姿を解明することによって間接的にでも神の存在を証明しよう。」ということで、ケプラーや、ガリレオ、ニュートンなどの科学者が排出し。ワットの蒸気機関などの発明にも繫がってヨーロッパ諸国が文化と技術の面で世界のルーラーとして君臨したのが近代だということではないでしょうか? そして、その時期に、学問としての自然科学が哲学から分離、独立していったということを聞いています。

では、神道、仏教、イスラム教、ヒンズー教または儒教の世界では、何故そのようなことが起こらなかったのかという疑問が出てきます。特に、ヨーロッパ諸国より先に、ギリシャの古代哲学や数学を受け継いで高い水準にあったといわれるイスラム教諸国での科学や技術がヨーロッパ諸国のように花開くということにならなかったのは何故か? これは、哲学的なテーマというよりも、どちらかというと歴史的なテーマですが、面白いかも知れません。

この掲示板は、「二元論」と「あいだの論理」が最初のテーマでしたが、そこからはだいぶ離れたところまできたことでもありますし、議論も進み、ある程度のまとまりもついたように思えますので、これが済んだら一休みするのもいいかも知れませんね。 土屋

PAGE TOP