返信先: 二元論への疑問

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#529
浦靖宜
ゲスト

たしかに元々なんのスレッドだったのか?みたいな感じになってきましたね(笑)
この辺りで一旦閉じましょう。楽しかったです。

1. 双子地球ではXYZという元素でできた液体を、我々同様に「水」と呼んでいる。だから科学的調査など行わず、地球人と双子地球人とで普通に会話しているだけでは、互いの「水」という言葉が指している対象が違うことに気づかないという設定です。じゃあ指している対象は違うんだから、それぞれの「水」は全く違う言葉なのか。でも、何も知らなければ、全然会話が成り立つんだから、それぞれの「水」は同じ言葉とするのか。

言葉と対象の関係がどのようになっているのかを哲学的に考察することは意味のあることだと思いますよ。流石にかつてのように、言語と対象が一対一対応している(すべきだ)という言説は通用しなくなりましたが。言葉はただの伝達手段であり、それぞれの意味も複数間の人間同士の約束事に過ぎないと言われればそれまでですが、とはいえなぜそのようなことがそもそも可能なのか、何かを名指したり、定義するとはどういうことなのか。日常言語と科学用語や数式では対象との結びつき方にかなり違いがありそうだが、どのような違いがあるかなど、まぁそれ考えてなんか役に立つのかと言われたら趣味ですねとしか言いようがない気もしますが。

哲学を議論するうえで一番重要で難しいのは問いの意味を伝えることですね。私もまだ問いの意味を十全に理解しているとは言えませんし(そういう問題はあるとはリアルに感じてるんですが)、過去の議論を想起するのも不正確でしたね。これを機にもう一度勉強しようかしら。

2. 私もちょくちょく理系の本を読むのですが、だいたい宇宙物理か進化生物学ですね。なぜなら土屋さんも仰るとおり、一回限りの事象を扱っており、理系と文系が混ざって面白いからです。
進化も直接観察できるわけではないので、どう実証するのか難しいです。一時期はカール・ポパーの「反証可能性」の議論を持ち出して、進化論は万能理論=非科学的だとする議論もありました。
とはいえ流石に現代ではポパーの「反証可能性」だけで科学が非科学かを論じるのは不十分だと認識されてきましたが。

それは土屋さんが仰るように、たとえ全てを再現はできなくても、仮説を立てて、観測できることを絞って実証すれば確からしさを高めることができるからですね。ヒッグス粒子発見も99.9999999(9の数忘れました)%確からしいと分かって、その実在を認められました。(私は発見よりも、そっちの厳密さに感動しましたね。しかもまだ不十分という意見もある!また100%とは言わないことの誠実さ!)
理論を立てれば、「その理論が正しいなら、このようなことが観測されるはずだ」ということが想定できるので、それを一つずつ潰していくことになりますね。
最近の話題であればヒッグス粒子もですが、土屋さんがあげたブラックホールや重力波もそうでしょう。これらも相対性理論が正しければ観測できるはずという仮説から始まり、観測できたのでやっぱり相対性理論は正しかったことになりました。
ビックバン証明の場合は宇宙背景放射の発見ですね(発見は偶然でしたが)

ダークマターもたしかに想定しないほうが不都合なので、実在性が高いようですね。似たような言葉のダークエネルギーは宇宙の加速膨張を説明するための推論ですが、どう実証すればいいのかまだ不明なようです。(こういうことだけをひたすら駄弁り合う飲み会がしたいです…)

文系と理系の大きな違いのもう一つは、理系には神がいて、文系にはいないということですね。なので文系は真理を得られません(泣)
文系は神という言葉を安易に使うのは避けるので、「最終審級」みたいな表現をします。最後にそれが正しいと審理してくれる存在です。
理系の神は自然のことです。どんなに美しくそれ自体では無矛盾な理論を作っても、観測した自然がそうなっていなければ、誤りということになります。答え合わせができる(ダークエネルギーのようにそれ自体困難なのが多いとはいえ)のが理系の強みです。

だいたい理系文系の争いもこの対立ですよね。片や「正しさを証明しようもない問題、答えの出ない問題を考えるなんて不毛だ」と馬鹿にし、もう一方は「答えが存在すると分かっていることを追求するのは二次的なことで、本当に重要なのは答えがないことを探求することであり、それこそが本当の知性である」と相手を馬鹿にする傾向があります。

まぁ僕も文系人間なので、後者にシンパシーを感じますが、別にそれで理系が馬鹿だとも思いません。時々素朴だなと思ったりはしますが。「目の前のPC は本当に存在するのだろうか」とか考えちゃいますからね。私たち哲学オタクは。でも宇宙物理学も相当あの世の話的ですよね。科学は科学で実在とは何か結構考えているんじゃないかなぁ。

文理の対立は不毛な喧嘩という気がしますが、とはいえ文系と理系の違いを理解したうえでそれらに望むのは、大事かなと思います。

文系の証明方法ですが、
文系の特に哲学研究とかの場合は、哲学の真理を証明するというよりは、過去の哲学者の哲学書を読み解いてその解釈の妥当性を問うことの方が主流ですね。厳密な答えはないですが、妥当性はある程度、専門家共同体で判断できるので。
なかには専門家同士の共通了解をあえて踏み越えてアクロバットな(ラディカルな)読みをする人もいます。あえて誤読もしたり。生産的誤読というやつです。大抵は愚か者扱いですが、それが素晴らしく上手な人が、その時代の思想を担ったりします。フーコー、ドゥルーズ、デリダなどがそうですね。最近、木岡先生の影響で、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』を読んでいるのですが、彼のその中でのカント解釈もアクロバティックで面白かったです。

社会学、経済学、政治学など社会科学は一応観測、実証できることに取り組みますね。理系に近いです。

3. 先の私のコメントでは、中国でも近代科学に近いところまでいったという歴史研究があったことを念頭に、もしもう一回やり直して近代科学が起こる可能性の筆頭に中国を先頭にしました。イスラームも一時期、他の文明を牽引し、ヨーロッパにも大きな影響を与えましたね。(アリストテレスの再輸入とか。忘れるなよ、ヨーロッパ人。)『中世の覚醒』を去年読んだのを思い出します。読んだことしか覚えてませんが(笑)

とはいえ、キリスト教やそれに関する思想が科学の誕生に大きな影響を与えたのは事実ですね。神が世界を創造したのなら、その秩序を人間も理解できるはずだという強い思いが当時の科学者=哲学者にあった。ニュートンは万有引力で惑星が恒星の周りを回っているメカニズムは説明できましたが、じゃあそもそもなぜ回っているのか、最初に何があったのかは分からなくて、「神が地球を押した。その後は万有引力に従って回転している」と説明したそうです。
その後、カントが「いや、星雲の塵芥が重力に従って蠢いているうちにぶつかり合って星が形成されたんだ」という今の惑星形成理解とかなり近いことを提唱しました(彼の最初の著作がそれです。でも印刷会社が潰れてほとんど不出世に。)。数十年後に数学者のラプラスも同様の説を発表し、カント=ラプラス星雲説と呼ばれています。カントは無秩序の集まりの動きがいつの間にか秩序を生み出してしまうことに神を見出していたようです。(人間の蠢きが、歴史を進めるうちに「目的の王国」という人類理想の世界を築くみたいな発想をカントはします)そういう思いで三批判書を書いた結果、思想的にも文系と理系が別れ、科学と宗教が別れていった感じでしょうかね。

今回はキリスト教でしたが、別の歴史ではイスラームでも中国でも、どこかの部族でも我々の知るような科学が起こっても不思議はないと思ってます。それほどの普遍性が科学にはあると思いますから。
とはいえ、先に到達しやすい条件というのが、やはりあるんでしょうね。別に先に到達するのが偉いというわけではないのですが。そもそも到達しなくても良い。(レヴィ・ストロースがいう、部族社会の「野生の思考」も科学に負けず劣らず賢いです)

深夜にもかかわらず、楽しく書いてしまいました。でも流石に疲れましたね(笑)デリダが『有限責任会社 (Limited Inc.)』で、議論が終わるのはインクが切れた時だみたいな話をしてたのを思い出します。会社を示すInc.とインクを掛けてる洒落ですね。我々は有限な存在なので、結論に到達したからではなく、疲れたから(インクが切れたから)議論をやめるのです。

また別の機会にお話ししましょう。ありがとうございました。

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