返信先: 二元論への疑問

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#532
土屋隆生
ゲスト

詳しいご返信有難うございます。いつものように浦さんが設定されたテーマと考えに対して、私の考えを以下のとおり書いてみました。

1.「双子地球のXYZ」のケースについて
問題の設定が複雑ですが、分解すると次のようになると思います。
① 双子地球では、元素「XYZ」でできた液体を・・・・「水」と呼んでいる。
一方、地球では、「H2O」で でできた液体を同じく・・・「水」と呼んでいる。
② ところが、「XYZ」は「H2O」とは異なる物質である。
➂ そうすると、双子地球人と地球人との間で、「水」という言葉を使っても、話をしても、対象が異なる。
④ であれば、同じ「水」という言葉を使っても会話が成り立たない。

上記は、簡単に言えば、日本語その他外国語にも見られる「同音異議」に当てはまる現象だと思います。日本語の場合「同音異議」は数多く見られますが、日本人の場合、 例えば、同じ発音の「しじ」と聞いたとき、「支持」か「指示」または「私事」かの判別はそれを含む文節の中での使われ方で考えます。場合によれば頭の中でこれらの漢字を思い浮かべてこのうちどれかを間違いなく判断するので、日常生活で困ることはないと思います。言葉は単語だけが独立して存在するものでも、使われるものでもないからです。「議論するうえで問いの意味が大切だ。」とおっしゃっていますが、浦さんの問いの意味は上記のように理解したうえで、私の考えを記載しました。
双子地球語と地球語が、「水」以外の単語も文法もことなるという前提を追加すると「同音異議」の領域を越えて、すべての会話において通訳が必要になると思います。

2.「宇宙物理学と進化生物学」について
実は、私も、人類進化の過程について大変興味があります。「人間の先祖はチンパンジーではない。」と主張する更科功氏は著書「絶滅の人類史」の中で、人類七百万年の間の進化の過程を理系の謙虚さをもって、証明できないことも正直に述べながら、DNA鑑定もできない古い化石から得られる事実を繋ぎ合わせて論理を組み立て、新しい事実を解明しています。7万年前にふるさとであるアフリカを出発したホモサピエンスが3万年前に日本列島に到着した話は数多くのDNT分析ができているので、さらに興味深いものがあります。

3.「理系には神がいて、文系にはいない。」について
これは最初に聞くと「エッ 逆ではないのですか?」と質問がきそうですが、端的で面白い表現だと思います。ニュートンが「万有引力で惑星が恒星の周りをまわっていることは説明できたが、そもそも何故地球は回っているのかの質問に、神が地球を押したからだ。」と答えた話は作り話かも知れませんが、これも面白いですね。そういう意味で、理系はどこかの段階で神が出てこないと、締めくくりができないところがあるのでしょう。

実際、ニュートンも「自分が信じるものは科学と神」という逸話がありますし、アインシュタインも一部の神学者から無神論者だと見られていたが間違いなく神を信じていたということが伝えられています。ただその「神」は人格神ではなく、「自然法則を創り世界を導くもの」の中に神を見出したと言われています。人間が今まで神の領域だと考えられていた宇宙の創造過程を究明したり、遺伝子技術を実際に利用したりして神に近づいたと思った瞬間、「では何故そうなのか?」、「その前はどうだったのか?」と遡って疑問が出てくると、最後は、「大自然の法則に従ってそのようになっているのだ。その自然法則こそ神である。」というところに落ち着くのだと思います。

ですから、科学者の信じる神は、キリスト教や仏教という教義をもつ宗教ばかりではなく「自然法則=神」ということなのでしょう。旧約聖書の中の「天地創造」の話と関連させて、キリスト教の神ヤファウェイが「自然法則」と「宇宙」を創ったと言う一部のキリスト教もありますが、科学者のいう神と同じではないことが分かります。ついでに言わせていただけば、「月や星はどうして光るの?」と子供に聞かれたとき、親が「神様がそうしたからだよ」と答える場合の「神さま」とも違うということです。この場合は、幕が開いたとたん「神さま」が出てきますが、科学者の場合の「神」は、最後の最後にしか出てきません。

4.上記との関係で、浦さんの「文系は真理を得られません。(涙)」について
「理系には神がいて、文系にはいない。」、故に、「文系は真理を得られません。」と読ませいただきましたが、面白い言い方ですが、「文系は真理は得られないというか、不要である。」とも読めるのですが、私は、普通に考えて、文系には真善美、それも中心になる「真」がないと、世の中が迷宮に入り、文系の存在意義が失われてしまうのではないかと思います。

「理系は事実を追求し、文系は真理を追求する。」ものと私は思っています。すなわち、理系は自然法則にもとづくこの世の現象や物質に関する事実を追求し、文系は、人間社会の歴史や宗教、文化、芸術、伝統、政治、経済、倫理等に関するあらゆる面から「真理」を追求するものだと思っています。

「文系には神がいない。」という見方をされていますが、宗教を含めると、ちょっと無理があります。 3.で記述した神とは必ずしも同じではないところからきているわけですが、このことは少し横において、浦さんがおっしゃる「文系には神がいない。」について、考えてみます。理系の場合の神は前述のように、「確固たる事実のさらにそのうえに神がいる。」わけですが、文系の場合は、自然法則のような確固たる事実というものは必ずしもありません。

奈良時代まで遡らなくても、この20年、30年を振り返ってみるだけでも、宗教、文化、芸術、伝統、政治、経済、倫理等どれ一つを取っても、見方や考え方、価値観がいかに大きく変化したかが分かります。価値観等は、自然環境や経済環境の変化に影響を受けて簡単に変化するからです。すなわち、文系には、「自然法則=神」という人間がそこから逃げ出すことのできない枠組みがないため、その時代その時代の価値観が変化することができるわけです。それ故、おっしゃっているように「最終審判みたいな表現をする。」ところか出てくるのではないでしょうか? コロナによってもこれからの世界は、今までのような世界には戻らないという人もいますが、今回のコロナや大災害は、人の世の合意に大きな変化をもたらします。つい最近まで盛んに唱えられていたグローバル化や多様性などに対してどのような影響を及ぼすのか注目するところだと思います。

5.「答えのないことを探究することこそ本当の知性である。」について
この場合、「答えがないことが最初から分かっている」という大前提があって、次に、「答えのないこと知っている」のも「それを探究する」のも一人の人間であるという小前提を置くと、常識的には命題の設定自体が成り立たなくなります。二元論では「無いものを、有る。」と証明することはできないので、もっと別のことを考えておられるのだと思いますが、レンマ論で例をあげて分かりやすく説明することができれば面白いと思いますので、 何かいい説明が見つかったら教えてください。

私は、いつも3、4日後にお返事を書いていますが、浦さんからは、夜中の2時半まで起きて今回も早々にご返信をいただき恐縮しております。木岡先生の掲示版を通じて浦さんと意見を交わすことを通じて、頭の整理をしながら新しいことを考える機会にもなり喜んでいます。ただ、私もさすがに少々疲れましたので、ここらでひと休みしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。浦さんの最後の「有限責任会社のインク」の話は和洋折衷の落語の高度な「落ち」のような話しで、この議論が楽しかったことを象徴しています。有難うございました。

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