一つだけ。
会話は成り立っているんですよ(汗)
地球人も双子地球人もそれぞれ日本人で日本語話者で文法も(単)語も我々現代人と全く同じで、なので双子地球人が「水が飲みたい」といって双子地球の水道水を飲んでも、我々地球人の日本人は理解できるんです。でも彼らの飲んで、言明している「水」はH2Oとは全く違うXYZという物質だったという問題です。
これはこの問い(語と、それが指す対象の関係性についての問い)の意味を成り立たせる大前提なので、前提を変更してしまっては意味がないのです。
とはいえ、言葉は単独で成立しないというのはその通りですね。だからこそ、「水」と「H2O」の結びつきの問題が発生する気もするのですが。たまたま歴史的な都合で結びついただけで済ましていいのか…。
あ、でも5についても説明あればとのことなので、それも。(4の文系に神がいない問題とも関連します)
「答えのない問題を考えるのが本当の知性」
たしかになんで「答えがない」って知ってんだ…
一本取られましたね。
ただ20世紀に至るまで、さまざまな哲学が存在や倫理を根拠づけようとしました。根拠もないのに真理とはいえないからです。近代以前は「神」が根拠でしたが、近代以後は素朴に神を信じることはできなくなったので、「神」を使わずに根拠づけようとしました。(仮に神を信じてたとしても、それはその人の勝手だし、無根拠であることに変わりありません。神を信じない人たちにとってまで普遍的な真理たり得ませんね。)
そこで何とか、それ以外の手で物事を根拠づけようとしたんですが、もうそれは無理だろうというのが、20世紀の特にポストモダン哲学の潮流ですね。
ミュンヒハウゼンのトリレンマという有名な三つの困難があります。
1.Aの根拠はB、Bの根拠はCとやっていっては無限に根拠づけられる(無限背進)ので、根拠が確定しない。
2.無限背進を避けるために、究極の根拠を持ち出す場合(「神」がその最たる例)、それ自体は無根拠な信仰である。
3.Aの根拠はB、Bの根拠はCと続けて、どこかの時点でZの根拠はAと帰ってくる論があるが、それは循環論法のため、やはり根拠はないことになる。
この3つを避けて、真理を確定させることは不可能だろうというのが、文系に神はいない=答えのない問いの探究だということです。
では、なぜ科学には神がいるのか(あるいは文系も学問たりえるか)といえば、それは科学がきちんと問える範囲あるいは観測できる範囲をその都度きちんと限定して論じているからです。世界の究極根拠なんてわからないですけど、ビックバンがなぜ起こったのかのメカニズムは、探究できるはずです。(インフレーション理論ですね)じゃあインフレーションがなぜ起こったのかを今度はとうて、、、と無限に探究できます。(科学はトリレンマ1の無限背進をどこまでできるかをやっている感じですね。そういう意味では科学も究極的な根拠を得られるわけではありません。ただ最終的な根拠は得られないだろうけど、どこまで背進できるのかを実証していくことは意義のあることです。)
その都度、「今探求するのはこの範囲で、それは〇〇という方法で、▲▲の結果がえられたら正しいとわかる」ときちんと設定することで一応学問的に意味のある論証は為せます。文系も学問である以上、基本的にそうですね。論文とかで「今回明らかにしたいと試みていることは云々カンヌン・・・。その方法は云々カンヌン・・・。」絶対に問いの設定を行います。
ただ、それは科学共同体、学の共同体の中では真理かもしれませんが、それはその共同体内部の話、あるパースペクティブからみての話なので、いつでもどこでも、もしくは人間がいなくても成り立つ普遍的な真理かと言われると、究極の根拠はないだろうという認識が少なくともある立場の文系の学者はとりますし、私はそれが一般的になっているのではないかと思っています。
そう思わない人ももちろんいますが(そういう人は私たちを「相対主義者」と批判します)、少なくともポストモダンの哲学においては、究極根拠を基礎付けようとする人たちを基礎付け主義者と批判します。(もちろんその基礎づけの無根拠さも論証してです)
ただ自然科学については、一応、自然は誰もが同じように観察可能だろうということで、普遍性のレベルが高い(ほぼ全人類が受け入れ可能だろう(もちろん受け入れない人もいますけどね。「進化論よりも神の創造が正しい」とか。私は創造説は信仰で無根拠だと思います。))ので、解釈の幅の大きい(あるいは土屋さんの仰るように価値観の違いが前提にある)文系の学問よりも客観的だという風に思われています。
とはいえ、「観察する」とはどういうことなのか、本当に同じようにみんな見ているのか、みたい問いは発生しますし、先程述べたように宇宙発生の起源も無限に遡れそうですので、究極の真理に到達できるか不明です。あるいはニュートンの万有引力も、あるいはその後の相対性理論も重力のメカニズムは説明できても、なぜそうなのかは未だに説明できていませんね。物理的因果法則がなぜ存在するのかもわかりません。
*何年か前に哲学界隈で話題になったカンタン・メイヤスーは自然法則は必然的に偶然的であると論じていました(彼は偶然性の必然性を論証している人です。九鬼周造をより徹底した感じですね。)。今この瞬間、これまでの自然法則と全く異なる自然法則に切り替わっても不思議じゃないということです。そうなったら僕たちもおしまいですが。(おしまいと気付く前に消滅するかもしれませんが)
カントが「物自体」を認識することはできないと主張してから、科学もまた真理を得られないという印象が強まりました。科学者が原子の構造とかを解明しても、「それはあくまで人間の色眼鏡を通して見た物に過ぎないのであって、それを素朴に実在していると思い込んでるのはアホでは?カントくらい読んどけよ」みたいに上から目線なのが文系でした。
ところが科学が人々の生活や人類の文明の発展にあからさまに貢献するようになると、理系が「存在の声(ハイデガー)とか聞いてなんか意味あるの?」と逆襲する状況になり、立場が逆転。今の文系不要論にいたります。
*先程のメイヤスーはカント以降の哲学は相関主義であるとして、なんでも色眼鏡論を批判し、物自体は認識できないとしても思考できる立場をとります(思弁的実在論)「人間の認識なしに物事は成り立たないというのもわかるけど、お前らちゃんと人類誕生以前の太古の化石とか、宇宙とか探究できることの意味考えてんのか」と
心ある人は文理どっちもそれ相応に大事じゃない?という感じですね。もちろん心なくどっちかに偏ってみるのもありだとは思いますが。
ドーキンスのように『神は妄想である』って論じる科学者もいれば、稲垣良典のように神の実在性を論じる哲学者もいます。
私は基本的には無神論が正しいと信じている(信仰!?)が、とはいえ人間が神について考えてしまうことは事実なので、神について考えることも、あるいはそうした営みについて論じることも無意味ではないという考えです。カントの影響が強いので、「神とか自由とか錯覚みたいなもんだけど、錯覚なしに生きられないのも事実じゃん?」って感じです。
結局、長くなりました。もう怒られても仕方ないですね。。。
電話でも基本は2時間、下手したら7時間くらい喋るような人間なので、なかなかひどいです。
土屋さんの返信があろうとなかろうと、もう返信はしないことを私は私に義務付けます。(何と冷たい表現!)
「答えのない」ではなく「答えのあるかどうかわからない」がぴったりですね。さらに「『答えがあるかどうかわからない』なんてなんでわかるんだ」とも問えそうです。
本当はそこから、「不一不異」という木岡先生もよく取り上げられる言葉について論じることも可能ではないかと思ったのですが、どうでもいいことを書き過ぎましたね。アウトラインも何も考えず書いているので。
ちなみにすぐ返せたのは、なぜか掲示板を訪れると何分か前に土屋さんが返信したばかりで、暇だから掲示板を訪れたのでその場で返信できたというわけです。今回もそうです。即答で返事できるのも、自動機械のように知ったことを思いつきでつらつら書いているからです。きちんと私の無秩序な文章に沿って考えてくださる土屋さんとは大違いですね。(もちろんきちんと読んでますけど、書いているうちに勝手に話が飛んでいってしまうのです。じゃあコントロールしろよという話ですが。)
言い訳ばかり続き良くないと思うので、私はこの文章を終えることを宣言します。
最後にもう一つ言い訳。以上述べたことは、「私はそう理解している」ということなので、カントとかメイヤスーとかの私の理解は全部間違いである可能性があります。
ありがとうございました。
浦靖宜