返信先: 二元論への疑問

トップページ フォーラム 出会いの広場 二元論への疑問 返信先: 二元論への疑問

#536
土屋隆生
ゲスト

ご返信はないものと思いパソコンを開かなかったため、お返事が遅くなりました。たくさんの内容の中のいくつかについて、最終回ということで、つぎのとおり、私なりの考えを記載いたしました。

1.「存在や倫理の根拠もないのに真理とは言えないーーーーだから20世紀に至るまで哲学は根拠づけようとしてきた」について
これを少し言い換えてみると「20世紀に至るまで真理を見出そうとして、哲学が存在や倫理を根拠づけようとしてきた」ということだと思います。ここでは、文化等に関することについて論じているため、この場合の「根拠」は「原因」(ある現象等を成立させる事実)ではなく、「理由」(真理が成立するための基礎となる考え等)であると私は理解しました。

であれば、その「理由」はその時代や個人の価値観によって異なるので、特定の「理由」に説得力があって賛同する人が多ければ、それが世の中の大勢になります。すると、それ以上のところに「神」を求める必要がなくなるので、文系には「神」はいないということになるのだと思います(ただし、この場合、特定の宗教上の「神」ではありません。)。もちろん、違う価値観をもち、それに賛同しない人が別の「真理」を主張することは、常にあり得ることで、それはそれでいいと思います。文系の場合の、「真理」は複数あってよいと考えているからです。

2.「ミュンヒハウゼン」について
この哲学者に関する知識の持ち合わせは、私にはありませんが、書いておられた3つのトリレンマは、A,B,C が・・・・・それぞれ単独の原因となって、その一つ一つから結果が生まれさらにその結果が原因となって無限に繫がっていくという想定のもとに、「Zの根拠(原因)がAに戻るという循環論」になってしまうことにも触れておられますし、逆に、ある時点でその連鎖を止めれば、「雨が降れば・・・・桶屋が儲かる。」という説得力のない話でおわってしまう結果になる場合もあります。

浦さんが、前に「経済学は理系と文系の間に位置する。」ということを言っておられましたので、経済学に産業連関(表)分析があることが思い浮かびました。例えば、「ある材料Xの価格が上がれば、それを材料とする生産物 Y、Z等の価格もいくらずつか上昇し、さらにそのY、Z等を材料として製造する他の多くの物品の価格も連鎖的に上昇し、賃金や金利、輸出や財政にもその影響が波及していく。」というような複雑な連鎖反応が起きます。すなわち、経済理論としては、一つの原因から種類や性格の異なる複数の結果が生じ、それらの結果からさらに複数の結果を生み出すということは理論としては、分かっていましたが、当初は大きな要素のみをとらえて予測していましたが。実際は、要素となる多数の変数が入り乱れて影響し合い複雑な状況が生じることになります。AIの進化によって、この複雑な関係も次第に分かるようになっていくのだろうと思います。

3.上記2との関係で、「文系と理系の情報(事実、真実)の伝わり方の違い」について
おっしゃるとおり、ある面で「経済学は理系と文系の間に位置する。」ことは確かですが、基本的には人間の社会的行動を対象としているため、文系に属する現象として捉えることができます。そうすると、前述のとおり価格が上がる等の情報(真実)は次々と「拡散」してゆき、現象が全体として均衡したところに落ち着く(価格ならば、需要と供給が一致したところで価格が決まり、一件落着する)と理解することができます。このように、一つの思想や理念が上記の産業連関のように他の思想等に次々と影響して、新しい思想や理念が生まれ広がっていきます。そして、どこまでも人間の思想や行動が探究の対象ですから、人間が決着を着けなければならないのです。

一方、理系の場合は、小さな「事実」の証明は、さらにその先にある大きな「未知の情報(事実)を証明する」という共通の目標に向かって合流していく、すなわち、そこへ「収斂」していくようなところがあるのではないかと感じます。すなわち、「未知の事実を証明する」という共通の目標があって、小さな事実の証明は、さらに大きい共通の事実の証明に向かって合流していく、すなわち「収斂」していくように思えるのです。しかし、いくら知識や事実を収斂させても「未知」が残るので、「神」が必要になるのだと考えます。

4.「科学共同体のなかだけでの真理・・・・・人間がいなくても普遍的な真理があるのかというと究極の根拠はないだろう。」について
これは少し無理のある論法だと思います。欧米人の一部には、聖書の創世記にある「神は自分のかたちに人を創造し、地を従わせ、すべての生き物を治めよ。」という言葉を軸にして、「人間中心」の思想が強い人がいるのは確かです。だからと言って、人間が生まれるずっと以前から自然法則にしたがって存在する宇宙も地求も存在・変化してきたのですから、宗教上の教えは教えとして、哲学や科学の面からそう主張するのには大きな無理があると思います。

5.「観察するとはどういうことか?」について
議論を進めるうえで、例にとったのが宇宙でしたから、「観察」と似た「観測」の語句を使っています。宇宙については、自然には違いありませんが、手に取って触ったり、解剖したりすることができないので、この議論では、望遠鏡で天体の動き等を見たり調べたりした結果も「事実」であるという意味で、「証明」するための手段と見たわけです。最近は、電波望遠鏡等の観測で、星を構成する物質の種類や性質等の判別もできるようです。万有引力や相対性原理の先の先の「何故」等の話もありましたが、未解明の現象や物質、宇宙の粒子やエネルギーを創ったり、動かしている法則や力を「神」という言葉で表現しているのだと考えています。

6.その他について
カントが「“物自体”を認識することはできない」と主張したことは知りませんでしたが、浦さんがそのことを知ったときから「科学もまた真理(事実)を得られないという印象が強まりました。」と思われたということですが、

「認識=知る作用とその成果」と常識的な定義に従った場合、この2つがどう繫がるのかが分かりませんでした。ここら辺は、本当に哲学的なとこなのでしょうね。また、「無神論が正しいと信じている。」とありました。繰り返しになりますが、ここでの議論は、「神」の存在そのものではなく、「事実の証明が行き詰まったとき、その先にある“何故”を知っているのが“神”である。」と言いかえているだけだと思っていただければよいと思います。

私は、浦さんが書いておられることの多くは納得できますが、納得できないところもありました。これまで、納得できない部分について私の考えを述べさせていただいてきましたので、その点ご了承ください。このたびの意見交換を通じて、浦さんがいかに哲学を深く研究されているかが分かりました。それに、浦さんの問題提起を受けたて、私も考えるためのよい機会を与えていただいたと喜んでおります。また、あらたな機会がありましたら、よろしくお願いいたします。 本当に有難うございました。 土 屋

PAGE TOP