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#546
浦靖宜
ゲスト

未来人の倫理が本当に正しいのかもわからないですよね・・・。
私は相対主義的、多元主義的に考えがちなので、異なる世界観、時代、地域に生きている人々ごとに倫理観が異なるのは当然であり、どこか一つの倫理観が特権的に真理の座に座ることはあり得ないと思っています。
異なる倫理観を有するものたち同士が出会ってしまったなら、なんとか折り合いのつけられるところはつくように、二つの間で新たな倫理を創出するしかないでしょう。ロールズの重なり合う合意みたいなことをやっていくしかないのではないかと思っています。
未来人とは出会うことがあり得ないので、そこまでする必要はないですね。想像はすべきと思いますが。
過去人とは記録を通して出会うことができるので、関わり方は未来人よりも具体的になるでしょう。

「完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかかる。これが〈かた〉に相当する。その理念・方針に沿って、試行錯誤する(つまり、〈かたち〉をつくっていく」がkibaさんはよくわからないということですが、

私もエッセイ「テクノロジーの問題(5)」コメントで誤読をしたわけですが、

わかりやすくするために、具体的な例を挙げるなら、作曲とかがいいのではないかと思います。

交響曲を作曲するとき、作曲家は頭の中にある程度完成形〈かた〉があってそれを譜面に落とすとします。交響曲は一定の型がありますしね。
ところが、いざそれで演奏して見ると、とてもじゃないが人間業ではできないとか、この楽器ではその音色はそもそもでないとか色々な制約が出てきます。実際、作曲家は奏者に「これってそもそも可能?」って聞くみたいです。
そうなると当初の頭の中の譜面を修正せざるを得ない。
あるいは逆に、実際に演奏してみて、逆にこう演奏した方が、元々の理想〈かた〉に近い、あるいは元々の〈かた〉とは少しずれるがとても良い、みたいな気づきを得られる可能性もあります。
そうした妥協と気づきを繰り返しながら、壮大な交響曲〈かたち〉を作っていく。それは時として、従来の型を超えた交響曲になっていることもある。

これが〈かた〉と〈かたち〉の相互媒介による開発だと思います。確かに武芸や昔ながらの職人仕事であれば、結構理解しやすいのです。

ただ現代の技術に応用すると想像が難しいという気がする一方で、そもそも例えばプログラミングとかは結構職人技なので、実はハイテク産業も普通に似たようなことをやっている可能性があるような気もします。あいつら「禅(Zen)」とか好きそうですし(苦笑)(正直、奴らの禅好きには問題あるなと思いますが)
もし既にハイテク産業に木岡先生の論理を理解する素地が既にあるのなら、それを僥倖とすべきか、それとも逆に〈かたちの論理〉も暴走するということなのか・・・

衆愚制については、私も「個人は愚でも集合知が集まれば・・・」、みたいな考えをしてましたが、
最近は個々人の方はちゃんと話し合えば通じ合えることが多いけど、集団になると途端にダメになる気がしています。
コロナ自粛も、「自粛、自粛っていうけど、末期癌とかで今年が最後のチャンスって人もいるんだから、そこは各自の事情を踏まえて判断すべきだよね」みたいな議論は個々の人とはできますし、相手が異なる意見でも、一応理解は示してくれますが、相手が集団になるともう無理って感じです。空気読み合って集合痴になるというか。
トランプ大統領は衆愚制の象徴ですね。今のアメリカは衆愚制だと思います。国民感情にそのまま応えてくれる人間を政治家にすべきではないですよ。むしろ僕たちが感情的になってしまった時、例えば「もうあの国は許せない!戦争だ!」と国民感情が高まったときに、「まあ、気持ちはわかるが」となだめつつ、粛々と戦争にならないよう交渉していくのが政治的リーダーのあるべき姿でしょう。国民の多数派の意見が正義とは限らないですから。憲法とかもそうですけど、僕たちはいつでも愚かな存在に成り下がるので、成り下がった時でも最悪の判断はしないように、自分を縛っておくべきです。人民の言うことを聞かない政治家もその機能の一つです。もちろん人民の言うことをそもそも封殺するのは良くないですし、政治家が人民の言うことを聞かなかったことは人民が知れるようにすべきですが。(なので中国のような政治体制は支持しません。人民を無視できるのは羨ましいと思いつつ。)ただ民主制は我々が愚かな時に選挙が行われると、愚かな政治家が選ばれてしまうので、なかなか脆いとは思います。

「②「過去を分析して理論付けできても、将来の事など判るか」従って「希望と勇気を持って暗闇を進め」なのでしょうか?」
分析もできるならしたらよいと思います。人権とか価値観を持って進むことが大事かなとは思います。ただ価値観そのものが変容させられる可能性はあります。希望と勇気もあった方がいいでしょう。(なんか普通ですね。。。)

「ロボット・人工生命の類が、将来的に意識をもって人間批判をする事は原理上、絶対にありえない。
石黒氏や池上氏に軍配が上がる可能性が高いのではないかと考えています。」
人工生命はわかりませんが、石黒先生がロボットに意識を持たせることはないだろうとは思います。あと「人間批判」までする「意識」は相当「意識高い系」なので、人間でもそんな高い「意識」を持った人はそうそういないと思います。虫とか動物とか人間とかが共通に持っているであろう「意識」が人工物に発生するかもしれないという意味で、石黒氏、池上氏に軍配が上がるかもと思っています。人工物に意識があると判別するにはどうすればよいかが、もう哲学的に難問って感じですが。なんか生きているように動いている対象物に意識があるかを判別することをあまり人間はやってきていないはずです。どれくらいのレベルの生物だと意識があることになるんでしょうね。

②患者の苦悩を目の当たりにする医師と、優生学による民族の向上を図ろうとしたヒトラーの立場の違いでしょうか?
私個人としては、技術は開発されていくものなので、大事なのは使い方をどう制御するかだと考えています。技術開発の暴走も怖いのかもしれませんが、本来とは異なった目的で技術が悪用されることの方が多いのではないか。今日、ルワンダ大虐殺に関わった人物がたまたま逮捕されたようですが(タイムリーですね)、棍棒だって使い方を誤れば、100万人を殺せます。
何事も教育が大事だと思いますよ。人権意識がそれなりにあれば、いきなり「生命操作技術で最強の子孫作るぜ!」みたいな馬鹿なことは考えないでしょう。ただ個人はそう自制できても、ナチスドイツのように、集団が自制できるのかという問題があるので、衆愚制の問題に帰ってきそうですね。それも教育が大事だと思いますけどね。

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