確かに関係があります。先に王権神授説があって、それの批判としてロックの『統治二論』が出ました。
ざっくりいうと、王権神授説は国王はアダムの正当な継承者であり、聖書によるとアダムは神にこの世界を支配する権利を与えられたのであるから、その継承者たる国王は人民も財産も所有することができるという考え方です。
ロックは聖書からそのような考えを導き出すことはできないことを論証しました。『二論』のうちの一つ目の論がそれです。また人間はあくまで神の作品であり、神の目的のために存在しているとロックは考えます。神は人間が永遠に存続することを望んでおり、人間がそのように生きるように指示しています。自己の生命を保持したいという人間の欲求も神の意志によるものです。そこから自己の身体や財産を保持するプロパティー=所有権が導き出されています。
歴史の大雑把な流れとしては、封建領主がそれぞれの領地、領民をバラバラに支配していたのが、絶対王政になり、一人の君主が一元的に支配するようになった。権力が一気に中央集権化した。そしてロックやルソーのような思想家が出て、具体的に革命が起きることで、君主が人民に置き換わった。バラバラな封建支配(中世)→君主による中央集権(近世)→人民による中央集権(近代)が(現代においては批判も多いでしょうが)これまでのオーソドックスな歴史理解です。フランスが典型的ですね。
マルクス主義の唯物史観ではこの後に共産主義革命が待っています。マルクス主義は今では見る影もない(忘れられた頃にブームなったりしますが)ですが、なんだかんだで歴史の教科書は、今でもこの流れで記述しているように思います。
日本史も縄文時代の原始共産主義社会から奴隷制、貴族制の古代、貴族制が廃れ、様々な封建領主(権門や武士)がバラバラに領民を支配する中世、それを一元化した徳川時代(近世)、人民がそれを打倒した明治維新という市民革命(近代)、残すは共産(社会)主義革命のみ、みたいな理解をされてきました。
ただ日本の場合、天皇が明治維新の主となってしまうので、実は市民革命ではないのではないか。共産主義革命の前に天皇制(←この言葉は実は左翼用語です)を打倒する必要があるのではないかといった議論もありました(日本資本主義論争)
明治維新を市民革命とみなすのが労農派、明治国家は絶対王政段階とみなすのが講座派と大雑把に理解できます。
マルクス主義者ではない進歩主義者は、市民革命後、人々は生まれや宗教、国家に縛られない自由な社会を生きるようになり、世界中がいずれそうなると考えているかと思います。冷戦終結ごろに流行ったフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』ですね。世界は自由主義化し、そこで歴史は完結するというお話です。