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#576
浦靖宜
ゲスト

近代は基本的に世俗主義なので、神を最終根拠にできません。
ギロチンで王の首を刎ねてしまったので、神は死んでしまいました(ニーチェ)。
とても大雑把にいえば、外なる神が、内なる自分に置き換わったと考えればいいでしょう(フーコー)。
かつては、「誰も見ていなくても神が見ている」が倫理の根拠でしたが、近代以後は誰も見ていなくても、神がいなくても自分が見ているという感覚を人々にインストールする必要が出てきました。自分で自分を律する自律した人間ですね。カントの有名な『啓蒙とは何か』も、他律(未成年状態)ではなく、自律した人間になれみたいな話です。今の私たちが思う「人間らしさ」もこの段階の人間観に影響を受けています。フーコーが「人間の終わり」と言った「人間」もこの意味での「人間」です。フーコーの述べた通り、こうした人間観はだいぶ瓦解してきましたね。近代が世俗化、脱魔術化の時代なら、現代はポスト世俗主義、再魔術化の時代と言われたりします。あれだけ近代主義者で、これまで「宗教家もパブリックな場では世俗の言葉で語るべき」と言っていたハーバーマスも「宗教家こそ超越を語れ」というようになってきました。自律した人間が実はありそうもないことがわかってきたからでしょう。(もちろん近代主義的な見方が無効になったわけではありません。今でも最大勢力ですし、私もその中の一人だと自分では思っています。ただ後で述べるように全部をそれでカバーできるのはとても無理になってしまった)
かつてのキリスト教のように再び何か一つの宗教が大きなヘゲモニーを獲得することはないでしょう。理由はあまりに人口が増えたからです。これまでの思想が限界を迎えた(もともとあったアポリア(袋小路)が現実化した)のも人口が爆発的に増加したからだというのが本当のところではないかと思っています。思想も宗教もとてもじゃないが75億人をカバーすることはできない。バラバラの宗教(近代の世俗主義も含む)、文明圏、哲学・思想が重なり合い、共存(衝突も含め)する時代が今なのでしょう。
人口が10億、20億の時代はまだ一神教や近代主義でいけそうな気がしていたわけですが、もう臨界点を超えてしまった。これこそ本当のシンギュラリティー(相転移)だと思います。(こういうテキトーな理系用語を使うと反ポストモダン系の人に叱られそうですが)

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