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#590
浦靖宜
ゲスト

河村さんのおっしゃる問題が確かに存在します。というより今回はあまりに分かりやすすぎる形になってしまったなと思います。
やまゆり園の事件では、我々の内なる優生思想が問題とされました。そして死刑制度もまた優生思想と深く関連する制度です。
今回、被告の死刑が確定した時に、こうした問題が取り沙汰されないのには違和感を感じました。

私は元来、死刑廃止派なので、今更、死刑は優生思想であるとか、人道に反するとか主張してもつまらない。(他人に説得するときは、「冤罪が怖いから」という論でまずはいくことにしてます。本当は原理的に殺人=悪とできたらかっこいいですけど、なかなか難しい。)
なので、逆にどのような理由があれば、今回の死刑を正当化できるであろうかと考え、まず思いついたのはアーレントの『エルサレムのアイヒマン』ですね。その最後に、彼女は、判事に次のような言葉で被告に呼びかける勇気があれば、この裁判で行われたことの正義は万人の目に見える形であわれてきたであろうと述べます。
「『(・・・)ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない−−あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように−−政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」』ハンナ・アーレント『新版エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳 みすず書房 p.384

アーレントの政治哲学では人間の複数性が重要視されているので、複数性それ自体を否定する存在は許されないことになります。
上記の引用を意地悪く言えば、「そんなにユダヤ人との共存が嫌なら、お前が死ねばいいではないか。それでお前の理想が実現できるぞ。望み通りにしてやる」ということになりそうですね。この理屈は結構説得的だと思います。だから我々も殺していいとなるかは置いておいて。
ちなみにユダヤ人虐殺に加担したアイヒマンも結構インテリで、彼は彼なりに熟慮の上、ユダヤ人の最終解決はカントの定言命法に適うと考えたようです。今回の事件と似てますね。これはカントの定言命法の弱点でもあります。定言命法は自分で考えることを否定していないので、自分で考えた結果トンデモな独善を生み出す可能性はあります。もちろんカントも定言命法だけ考えればいいと思っていたわけではないでしょうが。

殺人を悪とするのは、基本的にはカントのいう相互性(自分がやられたくないことは人にしない)が根拠となるでしょう。もうなされてしまった殺人に対しては、相互性という観点から死刑に処すという理屈はあり得そうですね。カントは死刑賛成派です。
ちなみに、相互性を受け入れない人間も想定できますし、そうなるともっと面倒臭くなります。殺人=悪と原理的言えない、というか「それが悪だからと言って、なんでやってはいけないんだ?」「やってはいけないことを、やってはいけないのはなぜなんだ」、「本当にやってはいけないという究極のルールが存在するのか」という原理的な問題が出てきて、これに理屈で反論するのは私には不可能のように感じます。

慈悲の観点。
アーレントの話を続ければ、確か『人間の条件』(ちくま学芸文庫)のどこかで、許すことと罰することは物語を終わらせるという点で同じ効力を持つみたいなことを言っていたように思います。本が手元にないので、正確に引用できませんが。
「罰することができるなら許すことができるし、許せないなら罰することもできない」とも言っていたような。(できれば確認してみてください)
これもかなり説得的ですね。懲役三年で済ませられるということは、それを服役したら許せるということです。逆に何やっても許せないのなら、どんな罰を与えてもその罪に適わないの。故に罰することもできない。後者の感覚は実際の被害者は骨身に感じているのではないでしょうか。

日本は「縁」や「慈悲」の考えがある割に、死刑賛成派が多いですね。
「縁」や「慈悲」という概念をどう使うかはそれはそれで難しい問題です。
仏教では、すべての事象が因果律と縁起で生起しているので、被告が障害者を殺したのも何かの縁です。
慈悲も元々は選ばれし菩薩が我々に施すもので、私と今回の事件の被告も菩薩から見ればどっこいどっこいということになるでしょう。
そういうコスモロジーをどこまで社会が受け入れられるかは分かりません(私自身には結構わかるコスモロジーであり、死刑に反対できるのも、そうした世界観に影響を受けているからかもしれません)。そうしたコスモロジーを受け入れずに概念だけを適当に使わせてもらうというやり方もありますが、しかしそれだとその概念がもともと持っていた意味や別の意味の可能性を喪失する危険性もあります。とはいえコスモロジーも時代や地域によって変わっていくので、「元々の仏教とは違う!」と原理主義的に批判するのも難ありです(「五輪」とか「三密」はあまりに別物になってしまいましたが)。ただ全く別物になってしまったら、そもそも仏教用語を使う理由はなんだったのか?別に他の、それこそ西洋の理屈でも良いのでは?と思わなくもありません。その辺をうまく処理しないと、ソーカル問題以後、そうした他分野の概念の使い方に学問はシビアになっているので、めんどくさいことになります。

そう言えば「無縁」という言葉もどこから来たのか。これはこれで興味深い。本当に「無縁」な存在は仏教的にはあり得ないはずだし、それがあるとしたらそれは仏教が最終的に求める「解脱」のはずです。これがいつから、身寄りなく死んだ者を指すようになったのか。これは誰か研究していないか調べたいですね。

個人的にはインド系の輪廻転生の世界観は好きなので、私は仏教のコスモロジーでもいいかなと思わないではないです。
生まれ変わることが前提なら、全てが変わりますね。今回の被告は残念なことに、死刑になりますが、でも無限の来世で頑張ればいいことになります。ちなみに障害者も障害を持って生まれてきてしまったことは、それをいいか悪いか評価するのは別にしても、自業自得となります。前世の因縁ですね。私が今のような存在でいるのも自業自得です。全員、今あるようであるのは自業自得です。私も来世は今急速に繁殖しているコロナウイルスになるかもしれません。私はそのような世界観もそれはそれでいろいろ考えさせられることはあるなとは思います。(障害者支援をやっている身なので、表現に気をつける必要はありますが)

もし生まれ変わりを否定し、この人生は一回限りのものだと考えるなら、別の世界観での考え方を採用してもいいかもしれません。というかキリスト教とか科学とかがそっちの世界観でしょう。キリスト教は魂の不死という問題がありますが、科学は死ねば終わりの世界観でしょうね。

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