返信先: 慈悲は論理であり得るか

トップページ フォーラム 出会いの広場 慈悲は論理であり得るか 返信先: 慈悲は論理であり得るか

#591
浦靖宜
ゲスト

ちなみにどうでもいいことかもしれませんが、ゴキブリは私の前世のお母さんの可能性もあるので、極力殺さない方向でお願いします(笑)
というのが仏教で殺生を戒める理由ですね。そういう世界観だから、「慈悲」ということの意味が分かり易いのかもしれません。
普通は蚊やゴキブリの命なんて気にかけないですもの。ちなみに殺されたら殺されたで次生まれ変わった先でかつてのゴキブリは頑張ればいいとも言えます。生まれ変わる説は結構強力です。
ちなみに私は単に殺すのが嫌いなので、虫も殺さない派です。

「社会に対して危険を及ぼす者は,社会から防衛処分(刑罰)を受ける」という社会責任論は、社会を防衛することが正しいという考えがあるから存在するわけで、これはこれで倫理的な問題です。ただこの理屈で、危険人物(しかし既に拘束された)の生命まで断つことは正しいのかは考える必要があると思います。
この辺りは倫理だけでなく、政治、社会、経済的な観点でも考えられますね。倫理の共有は案外難しいので、社会、経済的な観点から説得するという手もあります。「死刑は人道上問題があり、国際社会では廃止が主流になっている。先進国である日本もそうすべきだ」とか「死刑でなく更生させた方が、社会にとってもプラスだ」とか「死刑に犯罪抑止効果はない」とかなんとか。
一方で、殺された側の感情や論理もあり、上記の議論では蔑ろにされがちです。そこを手当てする理屈も必要です。ヨーロッパの修復的司法が参考になるかもしれませんが、日本でどこまでできるかは不明です。
慈悲はかなり超越的で、被害者にはなかなかできそうもないですが、被害者でなければ、その地平に立てそうです。当事者からすればそれも暴力になるでしょうが。近代以前は駆け込み寺がありましたね。あそこに駆け込めれば、世俗の罪から逃れ、寺で滅罪修行ができました。

被告のように役立つか役立たないかで命の価値が決まるという考えは、優生思想であり我々の社会は受け入れることができません(本当に我々の社会は優生思想を受け入れることができないのか、本当は社会自体が、めちゃくちゃ優生思想で動いているのではないかという河村さんの論点がありますが)

ちょっとごちゃごちゃした書き方になってしまいました。すみません。

PAGE TOP