返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#593
河村晃太郎
ゲスト

浦様 コメントをいただきありがとうございます。貴兄の見識と学識の深さには、驚嘆せざるを得ません。圧倒的な読書量ですね。それに対して、私などがお返しする言葉もないようなものですが、いくつか申し上げてお茶を濁させてください。私は、死刑については賛成でも反対でもなく、賛成でも反対でもあるという、レンマ的な立場です。なぜならば、私は死刑そのものを問題視していないからです。私がここで言いたかったのは、死刑になるようなことをしでかしてしまった人と、死刑を執行せざるを得ない人がいるとき、何が彼らを覆っているのかということでした。慈悲は上位の者から下位の者へ下される哀れみではなく、また許しに限定されるものでもありません(中村元『慈悲』講談社学術文庫参照)。慈悲は上下左右関係のない、超双方向的なものと捉えております。なぜなら、それが無自性、空というところから立ち現れてくるものだからです。以下、僭越にしてご無礼ながら、つまらぬことを書きますので、無礼なことがお嫌いでしたらお読みにならないでください。

浦さん、あなたは立ち直れないほどの挫折や蹉跌を経験されたことはありますか。身近な人や愛する人を喪った経験がおありでしょうか。しかもそれが、過失や故意の殺人などであったことがありますか。なければ、そういう場合の、自分とそれを為した人の気持ちを想像できますか。答えはありません。少なくとも私にはここに書くだけの用意はありません。しかし、それは誰にでも起こりうることではないでしょうか。そういう挫折や悲しい経験をしたとき、誰かが悪いとか、何かのシステムのようなものが悪い、と言って戦うこともできます。多くの人が訴訟を起こし、反対の論陣を張ったりして、戦っています。殺すことが原理的に悪なら、それを誘発する戦い(論戦でも、相手を論破した場合、それは相手の死を意味します)も、原理的に悪となりませんか。私が問いたいのは、悪だから排除しようという、その動きそれ自体が、排除されようとしている悪と同型ではないのかということなのです。これも、答えは出せていません。もし、この慈悲をめぐるテーマに、本当にご興味と共感をお持ちであるなら、いつか誰かが為した議論に回収されるようなご意見ではなく、あなた自身の腹の底から出てくるような、もしくはカラカラの手ぬぐいを絞って、一滴の水を絞り出すような、そのようなご意見を伺いたいものです。お前如きに何が分かるか、と思っていただいて構いません。ひねりつぶしてみてください。あなたに撃破されるのを、私は楽しみにしているのです。

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