返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#595
浦靖宜
ゲスト

大変素晴らしい質問をいただき恐縮しております。
木岡先生に対してならともかく、私如きに対してそこまで深い質問をしていただけることに驚くとともに感謝しております。一方でうまくお答えできるかどうか緊張もしております。(一応書いてみたものの、時間もないので、一気に書き上げ、結局まとまりのないまま投げっぱなしになったような気もします。そして馬鹿みたいに長いコメントで大変申し訳ないです。)

死刑について
この問題については河村さんの論点よりも低いレベルのレイヤーの議論であることは間違いないです。ただ今回の事件が死刑という結末だったので、そのレベルでも議論したいと思っていました。
死刑は現実の制度ですので、現実として取れる態度は3つと考えられます。存続を支持するか、廃止を支持するか、どっちでもいいとするか。私は廃止の立場をとります。
よくある反論「身内が殺されても同じことが言えるのか」に対してはこう答えることにします。「もちろん殺人者を憎悪し、その死を望む可能性が高いであろう。であるが故にたとえそのような状況に陥っても死刑を選択できないように事前に廃止しておいてほしい」
死刑が存在し私がそれを求刑できる未来よりも、死刑が廃止され私がそれを求刑できずに苦しむ未来のほうが、私にとって善だと考えるからです。もちろんこの考え自体が、まだ誰も身内を殺されていない今だから言えることであり、身内を殺された未来の自分にとっては極めて脳天気な態度と感じるでしょう。逆に言えば、今だからこそ、脳天気に死刑廃止を訴える立場を取れる。ならばその立場を積極的に活用すべきだと考えています。未来の自分にとってはとんでもない暴力ですが、必要な暴力だと考えます。

次に慈悲の問題。
河村さんの先ほどよりも高いレベルでの問題について考えます。
死刑囚と死刑執行人の関係は極めて特殊なので、むしろ双方向の慈悲というのは起こり得るかもしれません。死刑執行人はその時までは死刑囚の身辺の世話をする刑務官です。死刑までの期間は長期にわたることが多いですから、極悪人とはいえ、情がうつることもあるでしょうし、長年世話をした人を自ら殺すのは大変な苦痛を強いられることと思います。一方、死刑囚はその事情をよく知っている身ですし、こんな自分のために献身的に世話してくれてきた人にこんな苦しい仕事をさせて申し訳ないと感じることがあるかもしれません。
その時、双方向の慈悲と呼べる事象が生じているといえるかもしれませ。それは語弊を恐れずにいれば、二人の魂のステージのレベルが高いから起きていると私には思われます。
そして誰もが常にそのようなレベルに立てないというのが私には現実のように感じられます。「一切有情悉有仏性」心の働きのあるものは何ものであれ、成仏の可能性があるという大乗仏教の思想を前提とすれば、慈悲の可能性もすべてのものにあります。とは言え、それが現に発露するかどうかはまた別の問題で、それが発露できるものはやはり他のものとは違う、レベルが一段高い位置にいると言わざるを得ないのではないかと思います。これは社会的なステータスとは異なる話です。貧者が富者に、悪人が善人に慈悲の心を向けることは十分考えられますが、それでもやはりそれは、富者よりも貧者の方が、善人よりも悪人の方が、慈悲の心という点では魂の高貴さが上だからだと言えるのではないか。どこまで行っても上下関係は残ってしまうのではないかと思います。
魂のステージだの高貴さだのというとスピってる言い方に聞こえますが、要は空や慈悲の教えを学問的にせよ、体感的にせよ、理解している時点で、そいつは善人であれ、悪人であれ、凡夫よりも上の存在に思われるということです。その人たち同士で慈悲しあうというなら対等ですが、慈悲できるものとそうでないものとの関係での慈悲はそうではないのではないか。慈悲が常に対等というには、すべての存在が慈悲の可能性を秘めており、かつすべての存在が現に慈悲を発露していると言える必要があるのではないかと私は考えています。
もし私の議論に反論するとしたら、何が考えられるか。慈悲を真如に置き換えれば、安然(841?-915?)の俗如の論理に近い気がしますが、慈悲でその論理が成立するのかと言われると、ちょっと想像しにくい気がします。真如はすべての事象を取り扱うのに対して、慈悲はある特定の心のあり方みたいなものですから。

さて、議論は多岐にわたります。
多岐にわたりつつ、微妙につながってもいると私には思われ、したがってどの順番で述べればいいのか悩みますね。
とりあえず、河村さんは私の前のコメントの「原理的に殺人=悪」について言及されていたのでそれについて。

実は私は本当のところは、殺人やその他すべての悪行とされる行為を、原理的にやってはいけないということはできないという立場に立っています。悪そのものを「してはならない行為」と哲学的に基礎付けること、悪とはやってはいけないのだと確実性を持っていうことはできないと考えています。こんなことを表立っていうのは憚られるので、先のコメントでは「そういう考えもあるね」くらいに留めましたが、せっかく自分の意見を述べろと言われたのでそうします。(と言っても原理的に何かが悪ということはできないという問題は、私が考えるまでもなく、様々な哲学者によって考えられてきた問題ですが)

さて、実はこれは私にとっては前提に過ぎません。私はここからスタートしたい。私の論証したいことはこうです。
「仮に原理的に何かが悪ということができないとしても、それで我々の倫理が無意味になることはない。我々はこれからも何かを善とみなし、何かを悪とみなす。それ自体に究極の根拠などなくても、それでも我々が倫理的に生きていくことは事実上可能である」ということです。

これと似たような構造を持つ問題があります。
一つは予定説や決定論の問題。
決定論では、「起こったことは全て(神によってか、科学的因果法則によってか縁起によってか説により様々ですが)決められていたこと。これから起こることも全て決められていること」とされています。であれば、人間の自由はなく、倫理も存在し得ないのではないか

もう一つは永遠がないことの問題。
私たちはいつか必ず死ぬ。人類もいつかは絶滅するし、この地球も宇宙もいつかは無くなってしまう。それなのに生きている意味などあるのか。
この問題に対してもこう主張したい。
「仮に全てが決まっていても、そして仮にいつか全てが終わるのだとしても、それでも我々の人生に意味はあるし、倫理が無意味になることはない。例え全てが既に決定されていたとしても、全てがいつか終わるとしても、我々はこれからも自由に生きることが事実上可能であり、倫理的に生きることが事実上可能である」

この論証は実は拍子抜けするくらい簡単です。
「なぜなら、現に我々はそう生きているから」です。
現に我々はそうしているという事実性に完全に依拠しています。
あまりに簡単なので、今は実はこの論証には重大な間違いが含まれているのではないかと吟味中です。何かご意見あれば教えてください。そもそも前提=「善とか悪に究極の根拠はない」が間違っているという反論もあり得ます。

3つの中で決定論がこの中では一番解決が簡単です。
仮に全てが決定されていたのだとしても、私にはそれがわからないのだから、私は自由に生きるしかない。それを後から「それは決定していたことなのだ。お前は自由のつもりで自由でなかったんだ」と言えたとしても、結局神でない私にはそれはわからないのだから、私はこれからも自由に生きればいい。(これを批判するために、「お前は「自由」という言葉の意味を知らないうちにこっそり変えているんだ」ということができるのではないかとは感じています)
「全ては決定されてたことなんだ。どうしようもないことだったんだ。だから私を罰するのは間違っている」と主張する極悪人にはこう言いましょう。「であれば、私がお前を罰するのも決定されていたことだ。関係ないのだ、そんなことは」
決定論が正しいとする。それで世界は変わるのか。変わりません。そもそも世界はもともと決定論的だったという主張なのですから。そして決定論的な世界で現に我々は自由を、倫理を謳歌することができています。(それでもやっぱりそれは勘違いしているだけで、本当の自由とは言えないのではないかと主張することも可能ですが。私はこうした反論に魅力を感じない。うまく言えないですが、決定論的な世界での自由と、非決定論的な世界での自由の違いを我々は理解できるのか。みたいなもやもやです)

さて、話を元に戻します。
私は善悪の問題を原理的に基礎付けることはできないという立場です。なので私の立場は一般的に相対主義者ということになるでしょう(これも本当は(仮)にしておきたいのですが)。上の問題は相対主義であっても倫理的に振舞うことは可能であるということを主張したいと思い考えていることです。

最後に相対主義者である私が、それでもこれだけは摂理だと感じていることをあげます。
「起こってしまったことは変えられない。自分の身に降りかかってしまったことをなかったことにできない。なぜそうなってしまったかの究極の根拠などない」です。
そう言えば、「究極的な根拠がない」ということと、先にあげた決定論は矛盾するようにも思います。例えば明日、浦靖宜が車に轢かれて死ぬとする。これは決定されていたことです。全てが必然のように思われます。しかし、一つだけ偶然が残ります。それは浦靖宜という人間が他ならぬこの「私」だったという問題です。浦靖宜がそうなってしまったことは、神だか、科学だかで説明できたとしても、それが「私」だったというのは説明の仕様がありません。そこにどうしようもない偶然があると感じています。

実はここでの議論の前に、木岡哲学塾に参加されていた方と、メールでやりとりしているうちに、予定説に関して議論になり、同様のことを主張しました。
その方には、極めて悲惨な体験をされた方、例えば被爆者に対して予定説を主張することはできないと言われました。
確かにその通りで、単に相手を傷つけるだけなら言うべきではないでしょう。
私は信仰を持たないので、そもそも予定説を信じてはいませんが、ただもし被爆者が本気で「なぜ自分がこんな目に」と訊いてきたとしたら、こう答えると言いました。
「それは他ならぬあなたが昭和20年8月6日の午前8時15分に広島にいたからです」と。もちろん原爆投下の理由や、戦争が起きた理由を検証し、それを伝えることも意味のあることですが、根本的にはそう言うしかないのではないかと感じています。仮に原爆投下の理由や戦争が起きた理由を心の底から納得できたとしても(それ自体が困難だと思いますが)、最後にはそうした理不尽さが残るのではないか。

ちなみに私がこうした議論を好む理由は、先の死刑廃止の理由と同じく、その理不尽さが私のもとに訪れた時に、受け入れることができるように準備しておきたいからです。本当は生まれ落ちてきた段階で、我々は常に既に世界の不条理さを受け入れているのだと言えるのですが。

最後の問題に入ります。
なぜ私は時にカントやアーレントを取り沙汰し、時に仏教の思想を取り沙汰するのか。
随分と節操がないように感じます。いつか誰かが為した議論に回収されるようなご意見でいいのか。
私の考えはこうです。私ごときが考えたことは既に誰かが考えている。私ごときにいつか誰かが為した議論に回収されない意見は出せない。

このコメントで述べた自説も、明らかに様々な哲学者の議論を参照して構成されています。ああ、これは永井均っぽいなぁとか、ここはスピノザっぽいなとかめっちゃ感じます。やっぱカント天才やなとか。俺の考えていることなんて全部カントのアンチノミーの議論でぶった斬れるんじゃないの?とか思わないではないです。

とにかく、私は私に自信がない。ただ、多少は偉大な哲学者や思想家、宗教家の考えてきたことを理解することはできるように思う(多分)。であれば、これらをできるだけ理解すべきである。これから様々な問題について、個人的な問題にせよ、社会の問題にせよ、考えていく必要がある。そんな時に、自分だけで考えても仕方がない。なんせ私は歴史上の偉大な知性に対して圧倒的に馬鹿なのだから。カントならこの問題をどう考えただろう。ブッダならどうか。孔子や孟子はどうだろうか。
もちろんみんなが皆都合よく同じ問題について考えているわけではない。生きた時代も社会状況も世界観も異なります。似たような問題も実は微妙にズレがあったりします。
しかし、結局は彼らがどんな問題に悩んでいたかを知り、追体験していくしかないのではないか。それを自分の問題に当てはめて考えを進めていくしかないのではないか。それが人生を豊かにするのではないか。

例えば、仏教の世界観では、世界は永遠です。私はずっと輪廻転生するし、この宇宙はいつか滅んでも、次の宇宙がまた生成され、輪廻も継承されます。そうした世界観で築かれる倫理には、我々の知らない良さが含まれているのではないか。それを理解するためには、一旦はその世界観にひたる必要があるのではないか。

私が、様々な問題に対して、カントはこういってたとか、仏教ではこう考えるとかいうのも、ある種の追体験です。いや、そもそもカントも仏教も本当にその問題について考えていたかはわかりません。私が勝手に当てはめているだけの可能性が高いです。しかしこの当てはめもある程度考えないと的外れになってしまうし(まあ実際そうなっていることが多いと思いますが)、結局私のような凡夫には、そう当てはめて考えてみるほうが、つまり巨人の肩に乗っかった方が、よりよく考えることができるのではないかと思います。(今後ももっといろんな思想や世界観を知り、そこから何かを考えていきたい。例えばアイヌ民族はどういう世界観で生きているのだろう。それは我々が悩んでいる問題を解決するヒントになるのではないか・・・みたいな)

そして最後に私のささやかな希望として、未来に文化を残すことに貢献をしたいという思いがあります。私がこうして様々な哲学者の話をするのもそれにつながるのではないか。私は研究者でもなければ、優れた読者でもないですが、しかし様々な思想、哲学、宗教が後世に残るためには、私のようなにわかも含めた、なんとなく思想好きが必要なのではないか。結局彼らの本を買い支えるのは私たち凡夫なのです。なぜ文化を、思想を未来につなげる必要があるのか。文化が我々人間同士の平等を担保するからとも言えますが、やはり未来のイエス、未来のブッダ、未来のソクラテスに期待したいからです。かつての彼らは、その後の二千年以上に及ぶ人間の知の営みを知る術はありませんでした。しかし、未来に生まれる彼らは、それらを知ることができる。そのためにはそれが残っていないといけない。どんな形であれ、それこそ抽象的な空理空論のような形でしか残っていなかったとしても、未来の奴らなら理解できる可能性、そこから素晴らしい理論を組み上げる可能性があります。だったらどんな形であれ、残っていた方がいいでしょう。
これ自体が阿呆な妄想だとも言えますが、もしもそんな未来がありうるとして、もし私の哲学思想好きが、砂粒ほどでもそのことに貢献できていたらいいなぁと思うのです。

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