返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#602
河村晃太郎
ゲスト

kiba1951様 お尋ねの件について、私見を申し上げます。私は肉を食べます。お肉になっているからには、殺された動物です。私でない誰かが殺したのであっても、私がそれを食べる以上、私が殺したのと同じです(仏教では誰かが私のために殺したもの、殺すところを見たもの以外なら食べて良いとありますが、あくまでも食べて良いだけです)。ともかく、その肉を前にしたとき、生命の尊厳への礼拝と、死んだ動物への謝罪と、それによって命を与えられる感謝とを込めて、「いただきます」と言いませんか?肉牛だから屠殺は当然というわけではない。やはり命を与えてくれた(必要を満たしてくれた)ことへの感謝と懺悔は起こりえます。ゴキブリの場合、食べるわけではありませんが、人間の都合で殺すことに変わりはないので、やはり同じだと言えませんか?その辺りのこととすり合わせてお考えいただければ、お分かりいただけるのではないでしょうか。

浦様 失礼なコメントに対して、非常に真摯なコメントをありがとうございます。失礼ついでに言いますが(言うなよ、とは言わないでください)、過去の偉大な哲学者と未来に現れるであろう立派な思想家の間に居て、砂粒のような存在だというのが本心でしたら、それは違うと断言できます。問題は、頭が良すぎることです。私の友人にも、頭の良い人がいて、この人は東大からパリ大に留学し、博士号と教授資格を取り、今はKO大学で教えているのですが、彼女の口癖は「それはもう、乗り越えられている」でした。あまりにも知識がありすぎて、どんな問題が来ても、既に誰がどういう議論をしたかが全部わかっているので、そう言う他ないのでしょう。しかし、そんな言葉に撃沈するようではものを考える意味がありません。誰かがそれについて何か言っていたとしても、自分で考え、自分なりに表現できれば、それはそれでいいのではないでしょうか?巨人の肩に乗るタイミングを間違えないでください。私などは、あなたほどの知識も見識もありませんが、巨人を使う場合、こういう方法を取っています。例えば、ベルクソンの「笑い」に関する論説を参考にして、悲しみについて考える、というような具合です。そうすれば、ベルクソンの肩に乗りながら、「何だ偉いのはベルクソンだろ?」みたいなコメントを食らわずに済みます。笑いを論じてベルクソンに言及するなら、ベルクソンを超えることは至難ですが、悲しみの考察にベルクソンの笑いを使うなら、それはその点で私の創見だと言い張れると思っています。そんなことはとにかく、浦さん、あなたが現在真剣に取り組んでいるテーマについて、評論的なエッセイでもいいので、何かまとまった形で発表していただけませんか?できれば、論旨と根拠のはっきりした論文として通用するようなものが望ましいですね(いわゆるアカデミックな論文形式を踏襲せよ、という意味ではありませんので、念のため)。

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