返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#604
浦靖宜
ゲスト

ありがとうございます。普段、頭の中でぼんやり考えていたことを書いただけなので、書いてみるとやっぱり弱点が色々浮かんできそうですね。
私はただの福祉職員で、今は資格の勉強とか、引越し等々、雑事に囚われていますが、時間を作って磨き上げてもいいかもしれません。ただそれよりも読みたい本が多すぎますが。

ちなみに(からが長いのですが)
私はその彼女とはむしろ逆で、「実は乗り越えられてないんじゃないの?」と考える方ですね。
そう簡単に、プラトンやカントやハイデガーを乗り越えることはできないのではないか?やっぱり彼らに何度も帰る必要があるのではないか?そして帰るたびに見方が変わっていくのが古典を読む面白さだと思いますね。

最近話題の思弁的実在論はカント哲学の乗り越えと言われますね。私も彼らの議論は確かにカントの議論のある部分を乗り越えようとしていると思います。とはいえ、カント哲学が考えようとした問題がそれでなくなるとも思えません。何の問題について考えるかに依りますが、これからも彼の議論は参照せざるを得ない。例えば、自由と因果律の問題を彼の考えを肯定的にせよ、批判的にせよ言及せずに語るのは、やはり片手落ちではないか(とはいえ、他にも言及すべき存在はたくさんいるので、本当のことをいえば全ての議論が片手落ちではあるけれども。しかしこれだけは外せない凄い奴が歴史上存在するわけです)。もしかしたら、世の中にはカントを全く知らないまま、カントレベルの哲学を構築する人がいるかもしれない。実際、ファーストカントがそうだったんだから、第二のカントが現れてもおかしくない(ちなみに思弁的実在論のメイヤスーの本は、フランス人なのにカントっぽくて読みやすいです)。しかし、第二のカントが、第一のカントと同じ『純粋理性批判』を書いたら、めっちゃ凄いですけど、ガッカリですよ。「いや、お前は三批判書は全部読んでおいて、その先を考えるべきだろおぉぉぉ」みたいな。そしてやはり第二のカント出現後も、第一のカントが用済みになるとは思えない。

それとは別に、やっぱり私はカントや法然に比べたら(比べるのも烏滸がましいですが)、全然愚かですよ。それは圧倒的に感じます。もちろん自分で考えるのは大事ですけど、でもカントや法然の著作を読む時だって、十分自分で(そしてたくさんの文献に支えられながら)考えてるはずですけどね。「この人は何が言いたいんだろう。何が問題だと考えているんだろう。今の議論はさっきの議論とどうつながるんだろう」と考えないと理解できないですもの。そしてそれが少しわかった時の快感が私は好きなんですよね。そこに至るまでがしんどいですが。

去年、ある人から大月書店版のマルクス『資本論』全巻を譲り受けたので、ちびちび参考書片手に読んでいるんですけど、やはり資本主義社会がどういう社会なのかを理解する上で、『資本論』を読まないわけにはいかないなと思いました。アホみたいな感想ですけど、「やっぱりマルクスはすごいなぁ」と思いました。
もちろんマルクス主義の問題点は知っていますし(というか今となってはそこからマルクスを知ることの方が多いわけですが)、別に『資本論』を読んでマルクス主義者に転向するわけではないですけど、しかし、資本主義を考える上で、『資本論』での議論は今でも有効だと思いますし、ましてや「我々はマルクスを超えた」とは安易にはいえないなと感じました。(もちろん今じゃ使えない部分もあるでしょうけど)

そういえば、私はポストモダン思想の影響を受けているのですが、彼らの議論を知ったのは、大学一年で初めて受けた数学の講義でした。
その数学教授はとにかくポストモダン思想が嫌いで、ソーカル事件を引き合いにだし、ニューアカデミズムの浅田彰や中沢新一の数学の使い方の問題点を指摘してました。浅田も中沢も知らなければ、田辺元もコーラもクラインの壺もちんぷんかんぷんだった私は、「これが大学か。とにかくまずは教授が批判している彼らが何者なのか知らねば」と思って、適当に参考書とか読んでいたら、いつの間にかポストモダン思想にハマってましたね。ミイラとりがミイラになった感じです。「こいつらめっちゃ賢いんですけど・・・」みたいな。
今でも全然有用性を失ってないように思うのですが、なぜみんな簡単に「ポストモダンは終わった」とか「ポストモダン思想は乗り越えられた」とかいうんでしょうね。

「カント哲学の限界は・・・」とか、私も口にするときありますけど、口にしつつ「いや、よくいうわ。目の前にカントがいて、議論したら、グゥの音も出ないくせに」って思いながら言ってます。

「自分で考え、自分なりに表現できれば、それはそれでいいのではないでしょうか?」
もちろんそれでいいと思いますよ。ただそれがほとんど確実に砂粒程度のものだということに変わりはないと思います。やっぱりレベルの差は歴然としてあると思うので。そして別に砂粒で悪いとは思いません。無限の過去と無限の未来に期待するって結構仏教っぽくて受け入れられるかなと思ったのですが。

またもし自分の議論に何がしかの新しさがあるのだとしたら、それこそ、過去になされてきたハイレベルな議論と照らし合わせて、確かにこれは新しい知見だと確認する必要があると思います。とにかくまずは過去になされた議論に回収してみる作業を通して出ないと、それに回収できないものを探せません。私は結構保守主義なので、そう考えがちですね。ポストモダン思想家が、無限の過去のテキストを参照する思想的保守主義者だから、その影響でしょうかね。

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