返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#610
浦靖宜
ゲスト

いや、一般名詞的な「慈悲」
たとえば「人生哲学」という時の「哲学」くらいの意味合いで使うレベルで「慈悲」の言葉を使ってるなら、そうなんですが。

しかし、本来は情状酌量と慈悲は全く異なります。

慈悲は慈悲喜捨という言葉とセットなのですが、慈悲喜が共感や優しさに近い概念にたいして、捨は他からの働きかけで、生じる自身の心の動きを全て平等に観察することで、それに左右されない平静さを指します。

我々悟ってない存在は、世界を何がしかの物語として捉えて、自分もその中で生きていると感じています。
悟った存在は世界で起こる事情は全て縁起の法則で起こっているだけなので、別に我々が喜んだり悲しんだりすることに特段の意味があるわけではない。物語から外れた認識に立っている。

ブッダのようにすでに悟った人は、生きることにも死ぬことにも執着しない状態になっています。修行中はことさら生きることを否定しているかのようですが、悟ってしまうと生きることを愛好しなければ、嫌悪もしない状態です。釈迦は悟ってから死ぬまでの数十年を、いろいろ説得もあって、慈悲を行うために生きることにしました。(本当はすぐに死んで、この世界から永遠におさらばしてもよかったのですが)

先の物語の外の話に戻せば、慈悲は物語の外に抜け出せた存在が、もう一度、物語に介入しようとするメタ視点だということができます。

別に衆生を救うことが正しいとか、意味のある行為だという風に執着しているわけでもなく、意味は特にないんだけど、とりあえずそうしとくくらいの感じでしょうか。
別にそれは不真面目でもなく、私もケータイゲームに毎日勤しんでますが、別にゲームする意味もないんだけど、やっている時は(オンラインゲームで相手も存在するので)真面目にやってます。
まず慈悲はそういうレベルでの行為だということです。

あんまり世俗がどうとか関係がない。

ちなみにお釈迦様は慈悲を行うこと=衆生に仏法を説くことにしましたけど、あくまで対象は釈迦の説法を理解できる能力(=機根)のあるものに限っています。

(仏教用語で「機根」=宗教的能力のあるものを言います。「機根」の「根」は「根性」の「根」です。末法の世では機根が最低レベルになるので、法然は人間は全て愚者だという愚者論を展開します)

あと慈悲をするかどうかは悟った者にとっては完全に自由です。しなきゃいけないものではない。

それが遍く衆生を救済すべきだという考えに転換するのは、釈迦入滅後数百年経た大乗仏教以降ですね。

慈悲は何に対する慈悲なのかというと、
「お前らは悟れず、無明から縁起発生装置が起動して、我という一時的現象が発生し、人生の喜悲こもごもを感じ苦しんでいる。本当は自縄自縛でそうなってるんだけど、そのことがわかんないから、なんで俺がこんな目にとか思ってるのは、かわいそうだね」
というような、衆生が悟りの境地がわかってないことに対するあわれみです。死刑囚も被害者遺族も、彼らが悟ってでもいなければ、あわれみの対象になりえます。

慈悲の実践の概念も使えそうですね
私はたとえ、本当は全て決定論的で自由などなくとも、たとえいつかは全て終わるのだとしても、人は自由に倫理的に生きることができると主張したいと考えてますが、
これは慈悲を行うステージでの世界の介入の仕方に似てる気がしました。
普通決定論に立てば、全てが無意味になってしまいそうです。
しかし、無意味と言ってしまった段階で、無意味という意味が発生してしまいます。本当は無意味も意味も効力を失ったところで、人生を楽しめばいい(楽しまなくてもいい)という悟後の人の境地をどう理解するかが、「それでも人生にイエスという」為に何が必要かのヒントをくれるような気がしてきました。

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