返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#612
浦靖宜
ゲスト

そりゃまぁ、当事者からしたら、お前に何がわかるんだって感じですけど。
もちろん仏教は苦が発生する明確なシステムを十全に理解しているので、「いや、俺はパーフェクトにお前の苦しみがわかってる」ことになるのですが。

別にそんな理論はなくても、他者が苦しんでいることに、自分も苦しみを感じたり、同情したりすることはありますよね。
ルソーはピティエ(憐み)と呼んで、かなり重視しています。
それも当事者からは常に「お前に何がわかる!」と言われるものではありますが、それを否定してしまうと一切連帯とか成り立たなくなるので、他人が他人を勝手に同情する自由は認めるべきだと思います。
ただ大事なのは「同情は勝手にやる」ものだという認識ですかね。やむなくしてしまうものなので、なかなかそうした認識に至ることは難しいですが、同情や共感は暴走もしやすい。

そういった文脈でルソー批判を展開するのがハンナ・アーレントですね。弱者に同情しない奴は人非人であり、殺して良いというめちゃくちゃがフランス革命時に吹き荒れるわけですが、それはルソーの影響だと。あとマルクス主義もそれを引きずってて危険だという感じです。

私は同情は大事な能力である。そもそも同情は思わず知らず起こることなので、同情そのものを否定しても仕方ない。ただ同情が何によって引き起こされたのかとか、その同情が最終的に何に向かっているのかを反省的に振り返るのも重要だみたいな折衷的な考えでいます。

これは時代によって移り変わるものですが、人間、感情が大事か、理性が大事かっていう問題があって、最近だと行動経済学でノーベル賞とったダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』がそうだと思いますが、

(ざっくり分けるとファスト思考が感情、直感、辺縁系、動物で、スロー思考が理性、計算、前頭葉、人間)

今はファストはバカでダメなので、みんなスロー思考を重視しようというのが世のビジネス書では多いですね。

本当はどっちも大事というか、そもそもどっちも人間に備わっており、それら二つが対立した結果、神とか倫理が発生するんだと思います。一人の命か五人の命かといったトロッコ問題だと、スロー思考では五人となりがち。でもファスト思考だと「でも見捨てたくない」という強い感情的反発が起きる。それを解決するために、高次の倫理的存在を要請してしまうみたいな。カントの議論とかもそうして理解できるんじゃないかと思います。

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