返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#626
浦靖宜
ゲスト

ないでしょう。
哲学は哲学で、内面も外界も説明しようとするので、内面は哲学で、外界は科学と住み分けしてるわけでもありません。もちろん科学は科学で内面も外界も説明しようとするはずです。
インド全体はわかりませんが仏教も当然内面も外界も説明する体系を持っていますし、儒教もそうした体系を持っています。
宗教は基本的にそうした説明体系を持ってると考えていいでしょう。

それを統括するものは想定しづらく、哲学や科学が真理を独占すると見るか、宗教が真理を独占すると見るか、どの説明体系も真理を独占することはできないと見るか。

あるいは様々な説明体系や、それぞれの真理が存在する場合に、それらがぶつかり合う時に調停する必要があります。この調停する概念を「正義」と呼んでいます。(ロールズに代表されるリベラリズムの考え方です)
「正義の反対はもう一つの正義」とよく言われますが、本当はこれは間違いで、正確にいうなら「(各共同体や説明体系ごとに)複数の「善」が存在し、それらを調停するために正義が要請される」となります。
ただし、現実にどこまで公正に正義を要請できるかは難しい問題です。
例えば、ある共同体Aでは殺人を犯した者は死刑に処すのが善と考えられている。ある共同体Bでは死刑は人権侵害であり、死刑にしないことが善と考えられている。Bの人がAの人を殺害した場合、どういう判断が正義=落とし所となるのか。
死刑はBが納得せず、終身刑と言われてもAは納得しないように思われます。私は人権派で死刑は否定しますが、この理念が本当にAの善に優越するのかはわかりません。できることといえばとことん議論しあって、どちらかが(あるいはどちらも)変わっていくことに期待することくらいしかないと考えています。

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