返信先: 慈悲は論理であり得るか

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#982
浦靖宜
ゲスト

それは災難でしたね。お大事になさってください。
「触らぬ神に祟りなし」は日本のことわざなので、別に神を否定しているわけではないでしょう。単に下手に関わったら、神様に怒られる。なので関わらない。別に関わらないから神様がいなくなるわけではないでしょう。
「触る」というのは元々は「触穢」のことだったのかもしれませんね。つまり穢れに触れる。すると神様は怒るわけです。
これは山本幸治『穢と大祓』で議論されていることですが、例えば死体とかに関わると穢れが発生します。そして儀式とかは穢れの大きさに従って延期します。小さな穢れなら7日間とか、大きな穢れなら14日間とか(日数はテキトーに言ってます。)「延喜式」でシステマチックに決められています。なので祓うわけですが、実はこれは穢れを祓っているわけではない(少なくともそれだけではない)というのが山本の議論ですね。穢れそのものを祓っているのだとしたら、祓った時点で穢れは消失します。しかし貴族の日記とか記録を丹念に調べると、もう祓ってるはずなのに、儀式はきっちり延期されている。穢れが祓って消失したのなら、もう延期する必要はないのに、きちんと延期している。では祓いとはどういう行為なのか。山本によれば、祓いというのは神様に対する謝罪なのだということです。「儀式が遅れてごめんなさい」というお詫びを神様にするのが祓いであり、穢れそのものではなく、穢れを発生させてしまった罪を祓うという観念があったようです。穢れそのものをなかったことにはできないのかもしれませんね。

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