- このトピックには5件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 6ヶ月前に更新されました。
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浦靖宜ゲスト
木岡先生の最新エッセイ「コロナウィルス雑感」拝読致しました。
「外出する、しないの判断基準を定めるのは、自分自身だ」というのはその通りだと思います。
今日、私は仕事終わりに、どうしても本を買いたいと思って、梅田の大型書店に行きました。(そこでしかすぐ手に入らないので)
私自身はその判断をそこまで「合理的」だと思っていないですが、行動経済学的には「合理的」なのでしょう。
私は行動経済学的な「一見非合理に見える選択も、その人にとっては実は合理的なんだよ」みたいな、なんでも「功利」に回収してしまう「適応主義的」物言いに、反感を感じます。しかし、じゃあそれ以外に有用な見方があるのか?と言われたら結構難しい・・・。
結局私も「適応主義者」ですね。
(適応主義とは進化論などで、「環境に適応しているものだけが生存する」→「生存しているものは環境に適応している」みたいな考え方です)最後の、「もし君に恋人がいるなら、感染する危険を理由に会わないことにする、そんなことができますか」はいい質問だなぁと思いました。
もちろん、相手の安全を慮って、今は会わないという判断もあるだろうと思いますが、会うという選択も当然ありうるでしょう。
「家族とは、微生物(ウイルスも?)を共有するもの達のことをいう」みたいな物言いもありますよね(誰だったか忘れましたが。デイヴィッド・モンゴメリーらの『土と内臓』とかですかね?)実は、私と、私を哲学塾に誘ってくださった彼との共通の知人をこの3月に末期癌で亡くしました。私はその人とは末期癌になってから出会いましたが、わかっていても死別は辛いものです。
2月末まで元気でしたので、桜が咲くまで無事だったら、最後の花見をしようと話していました。彼は花が咲く前になくなり、その後、コロナ禍が本格化し、自粛要請が強くなるなかで考えていました。「もし彼が花見ができるまで生きていたら、私は自粛要請が出ていようが、花見を強行するだろう」と。確かに医学的、疫学的には花見はやめた方がいいでしょう。有識者はそう言います。彼らは科学的に正しいことを伝えるのが仕事ですから、そう言うべきだと思います。しかし、その見解を、末期癌でこれが最後の花見になることが確実なもの達の判断にも適応すべきかといえば、それは違うだろうと思います。もちろん考慮しないわけにはいかないでしょうが、「絶対やめろ」とは言えないはずです。
ところが世の中はどんどんそちらの方へ進んでいるのではないかと懸念しています。
コメディアンの志村けんさんが亡くなった時によく知られましたが、今、新型コロナに感染し、死亡した場合、骨になるまで会えないようです。肉親の死に目に会えない。死んでからも焼くまで会えない。こんなことがあっていいのでしょうか。もちろん疫学的には合わない方が正しいのでしょう(呼吸しない死体にどれだけ感染能力があるのかは不明ですが)。とはいえ肉親の最期です。感染のリスクを負ってでも会いたいという思いは尊重されないのでしょうか?この辺りのことは、思想家の東浩紀氏も科学的、統計的正しさを、個人の人生の選択と短絡的に直結させることは危険だという風に警鐘を鳴らしていました。
特に質問というわけではないのですが、木岡先生のエッセイを読んで、そのようなことを思いましたので、私も雑感を綴りました。 -
kiba1951ゲスト
「頭(理)で理解できても、心(情)に於いて忍びぬ」との事でしょうか。
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浦靖宜ゲスト
そうですね。情の部分を無視しすぎではないかと思います。
専門家は情を無視して粛々と科学的な知見を提供してくれればいいのですが、それを受けとる我々は(そして為政者は)我々の情を勘案して行動するべきです。今は世の中みんながまるで専門家のように「自粛しろ」「距離をとれ」「人と会うな」と言っています。
本当は内心は、私のように、「末期癌の人と花見行くのは優先していいのでは?」とか「肉親の最後くらい会いたい」とか思っている人もいるのでしょうが、社会の雰囲気があまりに科学的正しさ最優先になっているので、現実的に本当は自粛したくない、あるいは自粛すべきでないのに自粛している人も多いと思います。新聞記事で、高齢施設に入所している認知症の妻に面会できず、妻が自分(夫)のことを忘れてしまうといった事例が紹介されていました。明らかに個々人のQOLを下げる事例が現れています。もちろんコロナにかかったらかかったでQOLが下がるので、どっちのリスクをとるかという話なのですが、それはケースバイケースで考えるべき問題です。でも今は、全ての事例に対し、自粛以外選択肢がないかのような風潮です。
情を無視した結果、理も損なわれているのではと感じます。 -
乾陽子ゲスト
初めまして。ニュース等で入ってくる情報に何か理不尽なものを感じておりましたが、浦様のご意見に深く同意するものです。
今回の新型コロナウィルス感染によって生じた差別ということで、何よりやりきれなく感じたのは、感染者の方々への一連の対応です。
全ての接触を避ける為とはいえ、まるでその人がウィルスそのものであるような扱いは到底納得のいくものではありません。
面会はおろか、ガラス越しに顔を見ることもできず、亡くなってもお別れもできない。そして死者は決められた手順で、速やかに火葬されてしまう…。
人一人の人生の最後の瞬間を大切な人たちと過ごすために機会を作るといった、ささやかな心遣いが何故なされないのでしょうか。
身内の方に防護服を用意してでも最後のお別れをさせてあげたいといった声は現場にでないのでしょうか。ひとつでも前例を作ってしまったら、収拾がつかないからなのでしょうか。全ての医療用品が不足している中で、そのような考えは非常識なのかもしれません。ただ、普通に生きていく中で当然感じる想いが、今この世界ではとんでもないことにされているという現実……。そして周囲が、その事実を当たり前のように捉えていることの怖さを痛感します。
そういったことがウィルスの感染の恐怖よりも、より恐ろしいことに思えてならないのです。
心を失っていくということが、何よりも恐ろしいと思います。 -
kiba1951ゲスト
大阪府が営業自粛に協力しないパチンコ屋の店名を公表しました。
これは協力しないパチンコ屋に対して「天に代わりて不義を打つ」愛国の志(バカともいう)を募っているのでしょうか?
ガソリンを撒いたりするお先走りが出ないか心配です。
この手法って愛国無罪・抗日無罪の中国・韓国の手法を連想しますが、色眼鏡でしょうか? -
浦靖宜ゲスト
乾さん、初めまして。
今回に関しては、最後のお別れの場をきちんと用意できないのが現状なのでしょうね。医療従事者用の防護服も足りなくなりつつあるようです。私たちの社会は感染症に恐ろしく脆弱でした。あるいは脆弱になってしまった。今日、Yahooニュースで張本勲氏が外出自粛にイライラしないかという質問に対して、「いやあ、イライラしませんね。私らの時代は防空壕で何日も過ごしてるから。イライラしたって仕方ないもん」と返して、話題になってるのを見ましたが、「20世紀の方は強いな(苦笑)」と思いました。
20世紀と21世紀では人一人の命の重さに関する感度がかなり変わってきています。「絶対死なせない」という価値が、人一人を救うコストを釣り上げ、結果医療をパンクさせているという可能性はありますね。
とはいえ、私は21世紀的価値の方が良いと思うので、次は(今も)パンクさせないために、事前に何ができるのか議論すべきなのでしょう。
心の問題も人々がより一層、死者と関わらない、むしろ忌避する傾向に拍車がかからないか心配です。kibaさん
私も店名公表はよろしくないと思います。ただ、厄介なのは、大阪府は民意に応える形で(あるいは民意がついてくると予期して)こうした対応に出ており、実際民意はそっちなのだろうということですね。ポピュリズムの怖いところで、そういう点ではかつての中国・韓国の反日暴動を想起させます。(日中韓限らずどの国でもそうですが。)
もちろん日中韓(北朝鮮も)には過去の歴史的経緯があるので、中韓の民衆の怒りには正当な面があります。今回のコロナ禍で多くの人がパチンコの営業継続に不安を感じるのも止むを得ない面があります。そこに行政が火に油を注ぐようなことをせず、どう対応するのか、各行政府にはもう少し考えて欲しかったなと思います。
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