- このトピックには4件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 7ヶ月前に更新されました。
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浦靖宜ゲスト
木岡先生がご著書で一神教の問題点として、他の神を認めない排他性があると論じていています。
確かに排他的な側面が出てしまうことが歴史上たくさんありましたが、
それはそれとして私が昔から時々、不思議に思っていたのが、「そもそもなんでみんな同じ神を信じていると思っているの?」というところです。
ある人が「私は確かにあの唯一絶対の神を信じているし、その存在を、その愛をありありと感じる」と言ってたとして、そしてまた別の人も全く同様に感じていたとして、それでも二人は同じ神を信じていると言えるのかしら?よく駅前や本屋の前でクリスチャンに聖書の勉強に誘われたら、この話をするというか、私が上のようなセリフを吐いて、「でもそれがあなた方の神となんの関係があるんですか?」と言おうと思いつつ、流石に気分を害されそうなので、素直に30分くらい彼らの話を聞いているのですが。。。
話しかけてくるクリスチャンは大体二人セットなので、いつも「なんでこの二人はお互い同じ神を信じていると思えるんだろう?」と不思議な目で見てます。
あんなに仲の悪いと思われているキリスト教とイスラム教でさえ、信じている神は同じだというわけです。
宗教って「神を信じること」ではなくて、「自分の信じている神と、他人の信じている神が同じだと信じること」ではないかなと思ったりします。それこそ奇跡のような気がします。みなさん、どう思いますか?
もしこの中に信仰共同体に属している方がいらっしゃれば、ぜひ。 -
kiba1951ゲスト
キリストは「神の子」であり、マホメッドは「預言者」であり、仏陀の上位には「大日」の存在があります。
確か初めて「世界宗教者平和会議」を招集した時の言葉が、「人知を越えるもの」を信じる人達ではなかったかと記憶します。
そうすれば神・大日から妖怪変化まで全てを包括出来るので「同じ神を信じている」と言えるのかな~。
「サムシング・グレート」という表現もあるとの事です
また、物理学者が「ビッグバン」等の説明できない事を質問されたら「神の一撃」と答えるそうです。 -
浦靖宜ゲスト
しかし、どこまでも「本当に同じ神なのか?」を問うことは可能ですよね。
宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』での問答に近いですけど。アマテラスとかシヴァとかならキャラクター性があるので、「俺の信じてるアマテラスはお前のアマテラスとは違うから」みたいなことは起きなさそうですけど(それでも本当に同じか問うことは可能でしょうが。あとギャルゲーとかならありそうですね。)、唯一神みたいな抽象的神の同一性はなんかボヤんとしてる気がします。大日如来もアマテラスよりは抽象的で、唯一神に近い気がします。でも名前があるだけはっきりしてますね。
全知全能絶対の唯一神は確かに「あれ」しかないんですよ。そしてみんな「そうそう、あれのことだよ」って頷くんです。でも本当にみんな同じ「あれ」を指してるのかなぁ。同じと思えるから信仰なのかなぁと。宇宙に関しては私はマルチバース仮説が妥当じゃないかなと思っているので、ビックバン以前は想定可能ですね。一応十数年後にはそれが間違ってはいないか実証できるはずです。本当に正しいかまでの確証はまだまだ先(というか無理では?)でしょうけど、少なくとも仮説が間違っていないかどうかの確認は今開発中の天体望遠鏡で可能となります。
それでも「何もなくてもよかったはずなのに、なぜあるのか?」は問えそうですけどね。やはり神の一撃かしら?
仏教はマルチバースに近くて、今ある世界もいつかは滅ぶが、また別の世界が形成されることになります。有情(衆生サットヴァ)の業(カルマン)の蠢きが、世界を形成するもとになると考えます。今ある世界も別の世界の有情の業(サットヴァ・カルマン)の蠢きでできたものです。
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木岡伸夫ゲスト
一神教で信仰の対象となる神は、絶対者。それについて、「神は~である」と言明したなら、有限な人間が理解できる存在に相対化されてしまうので、マズイ。となると、人間が神について言えるのは、「神は~ではない」という否定的な命題のみ。これが、いわゆる「否定神学」の立場です。俺の信じる神とお前の信じる神が、同じか同じでないか。それを判断するためには、具体的な神の像――たとえば、G₁とG₂――を突き合わせて、比較することができなくてはなりません。しかし、本当の神Gtをそもそも具体化できない以上、G₁とG₂を直接比較することに意味がないのです。
一神教の世界では、だれもが「同じ神」を信じるはずなのに、自分の信じる神と他人の信じる神が同じかどうか、どちらの像が正しいかを、客観的に判定することができない。肝心の「神」が何であるかを、ポジティヴに言明できない、という原理上の制約があるためです。そこで、中世に考え出されたのが、「存在のアナロギア」。「アナロギア」はアナロジー、類比を意味します。俺の信じる神とお前の信じる神が、同じであるかどうかはわからない。けれども、信者である俺とお前が神を信じるあり方は、比較すると、たがいによく「似ている」。信仰のあり方が「似ている」以上、信仰の対象も「同じ」だとみなしていいだろう、そういうアバウトな論理です。この線で、信者同士の〈水平のあいだ〉、人と神との〈垂直のあいだ〉を開く、というのが西洋の「アナロギアの論理」。これと異なる東洋の多神教的世界では、「アナロギア」ではなく「縁」をつうじて、水平・垂直の〈あいだ〉が結びつく〈縁の論理〉が成り立つ、というのが拙著『邂逅の論理』の最終章の趣旨です。
いろんな疑問をお持ちの方に、こんな簡略な説明では足りないことは承知していますが、とりあえずのコメントまで。 -
浦靖宜ゲスト
なるほど、中世の人はめちゃくちゃ賢いですね!
そうか、アナロギアという概念で神と世界の関係を考えれば、俺もお前も同じ神を信じていることに必然的になるのか!
いや、でもそれも神が世界を創ったという聖書の教えを前提にはしているから、どこまでも何かを無根拠に信じているわけですけど。キリスト教成立以前の人たちは地獄に行っちゃう問題でも、じゃあプラトンやアリストテレスなどの偉大な哲人も地獄行きなのかという問いに対して、よりましな地獄に行ってる的な回避が取られたわけですが、私のような疑問を抱いた人がいれば、「じゃあ私の妻はもしかしたら違う神を信仰している可能性があり、そうなれば妻が地獄行きに」という不安が出てきそうですけど、それはアナロギアで回避できると。
まあそこまで疑う人は、そもそも聖書すら疑いそうですけどね。
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