- このトピックには50件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 1ヶ月前に更新されました。
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kibaゲスト
先日テレビで「改善か 信仰か」と題した、チベットにおける宗教都市の観光開発を取り上げた番組がありました。
チベットは7世紀初めには政治的に統一し、仏教を取り入れ文字を作り文化の基盤を築きました。
しかし、1951年に中国人民解放軍がチベット全土を制圧し、1959年にダライラマはインドに亡命しました。
チベットは中国屈指の地下資源(石油、金、銅、鉄、鉛、亜鉛、ウラン)の他、25万MWeの電力や221,800㎢に登る森林資源を抱えています。
さらにチベットはインドと国境を接しており、中国はミサイル施設や核廃棄物廃棄場も建設しているとの事です。
チベット人は何度も自治を求め決起しましたが中国軍に鎮圧され、人口600万人に対し120万人の犠牲者を出したそうです。
近年中国はチベットへの道路・鉄道・空港を整備し、世界最大の仏教僧院であるラルンガル・ゴンパの観光開発にも着手しました。
僧院の周囲に住んでいた1万人の修行僧の内5000人が追われて、観光道路が縦横に張り巡らされ展望台も作られました。
大規模なホテルやショッピングセンターも建設され一大観光地に変貌しました。
鳥葬では観音菩薩の化身といわれるハゲタカに、死者の肉体が供物とされて来ました。
「人が最も執着する己の肉体を他者に捧げる。死者は最後の布施を行い大きな功徳を積む」これが千年の間受け継がれてきた再生の信仰でした。
しかし、今は興味本位の中国人が気味悪げに見物しております。
さらに全国から遊牧民の子弟が集められ、寄宿舎で中国語や中国への愛国教育が実施されています。
その結果、チベット語が出来る人はチベット人の1/3にまで減少したそうです。
ラマ僧達は「他者を害せず、自分を律せよ」「全ての命に慈悲の心を」との教えに従い、僧侶は男も女も結婚せず仏教の修行に生涯を捧げます。
「現世大切」では執着・欲望・煩悩に苦しむが、菩薩心・慈悲心を修行すれば多くの衆生・来世に役立つと信じられています。
今回のラルンガル・ゴンパの観光開発についても、僧侶達は僧院から発せられた「嵐が去るのを待て」との指示に従いました。
ラマ教の「集まれば散り、高まれば堕ち、生きれば死ぬ」の無常観や「魂は仏の慈悲で救われる」との他力救済は、戦闘的なキリスト教やイスラム教とは対照的です。
今まで、多くのチベットの民衆はこの様な僧侶を尊敬し敬う事で貧しくとも平和なチベットを築いてきました。
しかし、この平和は多くの災害・貧困・病を伴った平和だったと思われます。
苦労の現世から来世に希望を繋ぐ為に宗教に頼り、宗教・僧侶・寺院を維持する為に更に貧しくなったとも思われます。
この負の輪廻を断ち切る術は中国の進める「改善」しかないのでしょうか?
パリがナポレオン三世の都市計画で整備された様に、チベット千年の伝統が中国によって破壊されるのは不可欠な手術なのでしょうか?
幸せは何を物差しとして測るべきなのでしょうか、社会の安定・心の平穏、平和・繁栄・平均寿命、自己実現・改善への加速感、名利・福禄寿 ETC。
また、私達が無責任に批判するのは物質文明に毒された平和で豊かな傍観者に過ぎないからでしょうか?
皆様方はどの様にお考えでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
中国政府のチベットに対する弾圧がひどいことは前提として、
チベット人の世界からはこれらの出来事がどう見えているのでしょうか。
私が中国を批判するときは、近代的な価値に基づいて批判することになります。
それはそれで良いとして、チベットの人たちはこの時代に生きている以上、近代的なものの見方から完全に切り離されているわけではないとはいえ、非近代的な世界で生きているとも言えるとする。彼らにとって中国による一連の出来事はどのように捉えられているのだろうかということを考えると面白いかもしれません。
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kibaゲスト
チベットの状態をどの様に考えたら良いのでしょうか?評価は色々あります。例を挙げますと
1、旧チベットは政教合一の封建農奴制社会であり、ダライ・ラマと農奴主階級集団によって人口の90%が虐げられていたのを中国が開放した。
中国はチベットに交通・医療・教育等の社会インフラに多額の投資して近代化を推し進めた。
2、旧チベットの土地の殆どは小規模な自作農で、彼らは国に直接納税し、人々が飢饉で苦しんだことは一度もなかった。
中国はチベットの政治・経済・言語・宗教・文化の破壊者である。
3、弱肉強食・適者生存の自然の摂理に従って中国がチベットを併合しただけである。
4、来世の事しか考えない宗教を信じ貧しい生活をしていても、それを国民が是としているならば尊重すべきである。
5、来世の事しか考えない宗教を信じ貧しい生活をしていたら、そこから救ってやる事が先進国の義務である。
等、ありますが浦さんはどの様に考えておられます? -
浦靖宜ゲスト
kibaさん
ここのところ忙しくしてしまい、なかなか返信できずでした。
下半期からの哲学塾には変わらず参加していますので、またお会いできたらと思います。チベット情勢には詳しくありませんので、大雑把なことしか言えませんが、
中国政府がチベットの人々に対し、人権を侵害する行為を働いている事実は看過できません。これは近代的な価値観に基づく批判です。
私としては中国はチベットにより強い自治権を認めるべきだと考えています。
チベットが仮に非近代的であるがゆえに、その内部で人権を侵害するような行為がなされている場合、私はそれについても外野から批判します。
チベットは詳しくないので、適当な例が思い浮かびませんが、イスラム圏で時折発生する名誉殺人(こういうときにイスラムばかり例に上がることによくない傾きを感じますが)は、私たちの価値観からは明らかに人権侵害であり、私は批判するべきだと感じています。それを近代を生きるものの価値の押し付けだと批判することもできますし、過度な押し付けは確かに禁物ですが、しかし、イスラムの側がそうでない者にイスラムの価値を伝え、布教することが自由なように、近代の側が近代的価値を布教するのも自由なはずです。ある共同体の文化や思想は歴史を通して変化していくものです。過去の仏教教典を見れば、国王が民衆を弾圧することも、それが民衆にとって必要なことであれば、菩薩戒に反しないしむしろ功徳になるなど、今の価値観には絶対に合わない考えが出てきます。殺人を肯定する考えも仏教にはあります。でも、幸いにして現代を生きる仏教僧のほとんどは、それが正しいと言わないでしょう(オウムという例外はありましたが)。かつて弾圧を肯定していたのも、その経典が書かれた当時は封建制だったからです。時代の要請に答える形で教えは再解釈されていきます。かつてこの国の仏教も国の期待に応えて「八紘一宇」の思想を唱えたように、今なら民主主義を、女性活躍を唱えられるよう再解釈されていくのだと思います。私たち近代人は、彼らが変容していくことを期待することができます(カトリックはよくそうしてますね。かつての異端の名誉を回復したり。進化論を認める解釈を提示したり。)もちろん私たちも彼らを知ることで変容していく可能性もあります。
チベットからは離れますが
もうちょっとシビアな例で考えてみましょう
ある宗教共同体では、いとこ同士で性交渉した場合に女性の方を殺さなければならないとする。
そうしなければ、女性の魂が地獄に落ちてしまい、死刑に処することでむしろ罪が許され、天国に行けるのだと信じられていたとします。
今まさに名誉殺人が行われようとしている。私にはそれを強制的に止める能力(武力)があるとする。どうすべきか。
私なら名誉殺人を阻止します。
私の勝手な行為で、その宗教共同体においては彼女は地獄に落ちることになります。地獄に落ちることは、人権を侵害することよりもずっと酷い暴力なのだと思います。でも仕方ありません。その共同体の人たちには、その人たちの世界観においては彼女が地獄に落ちたことを受け入れてもらうしかありません。私はその宗教を信じていないので、彼女が、とりあえずこの先も生きていけることに喜びを感じます。共同体の価値観で育った彼女が、自分の魂の行末をどう案じるかは分かりません。せっかく死刑になるところだったのにとんでもないことをしてくれたなと恨まれるかもしれません。もしくは自死を選ぶかも。できるだけ説得は試みますが、彼女がどっちの世界観を受け入れるかは彼女が決めるしかないでしょう。
国家であれば、そもそも制度として名誉殺人を禁止することが警察力を用いて物理的にできます。実際、基本的には名誉殺人は多くの国で近代法に照らして罰せられます。それは文化に対する弾圧なのではないか。私が答えるとしたら、「弾圧を含むが私たちも譲れない価値観を持っているので、止むを得ない。どうしても譲れないのなら、罰を受ける覚悟でやるしかない。もし名誉殺人を行うときに、警察がきて止められそうになったら、警察を実力で排除するしかなく、当然、警察も実力を行使するしかない」と言うでしょう。さて話が長くなりますが、また別の例をあげます
ある部族では、生まれてきた赤子を育てるかどうかを、母親がその子を抱くかどうかで決めます。
母親が赤子を抱けば、晴れて赤子は人間として育てられ、抱かなければ、赤子は精霊として、葉っぱに包められ、シロアリの巣に入れて焼き、煙にのせて天に帰します。この事例でも、私の目の前でそれをなされ、私が赤子を奪い取り、逃げる能力があれば、私は赤子を奪って逃げるでしょう。
では国家はこの部族をどう扱うべきなのか。ここで私は妙な感じになってしまいます。私はこういう部族が存在してもいいように感じるのです。むしろそういう世界理解もあるのかぁと感心するくらいです。もしかしたら、現場に居合わせた私は、赤子を奪いもせずに興味深くその儀式を眺めてしまうかもしれません。名誉殺人も赤子を焼くのも近代的価値観からすればいずれも人権侵害であり許されません。
にもかかわらずなぜ赤子を焼くのを私はありだと思ってしまうのか。「七つまでは神のうち」という考えが日本にもあるように、赤子が「人間」かどうかの微妙な感じを私も持っているからかもしれません。
また部族という極めて小さな共同体で、かつ他の共同体とほとんど交わることがない共同体だから、それを潰すくらいなら、無視していいと判断しているのかもしれません。
またルール違反ゆえの名誉殺人に対して、赤子殺しは、人間とは何か、精霊とは何か、魂とは何かというその部族の根本的な世界観にあまりにも密接に関係している(ように思われる)ので、それを封殺することは即その部族そのものを否定することに近いとも思います。ゆえに触らない方がいいと思ってしまうのかもしれません。時に近代的な価値観をゴリゴリ推し進めるのは躊躇われます。そしてそうでない世界を知ることはとても興味深いことです。一方でそれぞれの世界がどうしても折り合わないことがあります。大学時代にロールズやローティなどを読みながら考えていたことを、今また考えています。
最後にkibaさんが例にあげた項目にコメントすると
1については歴史的事実は詳しく知りませんが、そうした側面もあるのだろうと思います。ただ側面であって全面ではなく、それだけを評価の対象にするわけにはいかないでしょう。
2については飢饉がなかった事実は詳しく知りませんが、中国が云々は大体そうなんだろうと思っています。でもその影響で1のような評価もできるのだろうと思います。だからといって、免罪されるわけではないと思います。
3適者生存は何がどうなろうと適者生存なので、正当化の理由にするのはナンセンスだと思います。チベットが弾圧で滅んだのも適者生存なら、チベットを弾圧した結果、中国が国際的に嫌われ、制裁を受けて、滅んだとしたら、それもまた適者生存です。起こっていることは全て適者生存なので、気にせず中国を批判すべきだと思います。そもそも適者生存であることが、なぜ責任の免除に結びつくのか。論理がいまいち分かりません。私が誰かと喧嘩になり、相手を殺したとしたら、生き残った以上、適者生存だと思いますが、それはそれとして刑法で裁かれるべきだとも思いますよ。
「弱肉強食だからやられても仕方ない」なんてことを認めたら、それは「力による現状変更」を認めることであり、侵略戦争を認めるのと同じです。日本が世界を侵略できるくらいに強いなら、いいのかもしれませんが、そうではないので、単に自国の首を締めるだけの物言いだと思います。日本が中国に力による現状変更をされても受け入れられるなら別ですが。圧倒的に世界最強でもない限りは絶対に「弱肉強食が国際社会の常識だ」なんて物言いを認めてはいけません。アメリカ、ロシア、中国がそういう態度に出たら、残りの全世界が一致団結して反対すべきです。本当はそのための集団安全保障なんですけどね。
4尊重すべきだと思います。でも俺たちの価値観を伝えることもできます。
5この意見の意図は「無知蒙昧な宗教から抜け出させてやる」と言うことだと思いますが、そんな余計なことせずに粛々と社会保障政策をすべきでは?宗教を捨てないと救済しないのは人権侵害では?生活保障のために給付したお金がお布施に使うのはその人の勝手です。もちろんそう言う使い方はやめろと指導することも勝手です。ただし信仰の自由は守られるべきです。こんなところでしょうか。ずいぶん論旨のわかりにくい回答になりました。。。
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kibaゲスト
お久し振りです、前回名指しで質問しお忙しい中負担になったのではと心苦しく思っていました。
この問題は以前に「大塩平八郎」でも取り上げましたが、「正義」とはの問題だと思います。
中国が善意でチベットを解放したとは思えませんが、「外野」から批判するのではなく己の手を汚して実行しました。
結果としてチベットを以前よりは近代的な国家へと変身しましたが、120万人の犠牲者と国家の独立、民族としてのアイデンティティー、個人の自由等が失われんとしています。
経済的豊かさ・人命・独立・アイデンティティー・自由は何れも人が命を懸けるに値するものですが、優劣を付けるのは困難です。
何が最も優先すべき「正義」であるかは古今東西及び人・状況・流行によって異なります。
宗教や紙幣に価値があるのはその価値を信じる人があって始めて生じるので、「正義」も同様です。
若し、見る人がシャーレの黴の消長を観察している研究者なら、善悪・真偽・美醜など問題にならず「適者生存」の一言で済ませてしまうと思います。
最優先とすべき「正義」が何なのか、対象を何処から、如何なる尺度で判断すべきなのか分かっていないkibaとしては己の評価を決め兼ねております。 -
浦靖宜ゲスト
お気になさらず。単に、結婚と引越しで忙しくしていただけです。
コメントにしては随分長いエッセイをご笑覧いただけたらと思います。(暇になった証拠です)様々な価値観がフラットに並べられている現代においては、確固とした「正義」などなく、そもそもそのような概念自体が無効のような気もしてしまいます。しかし「正義」という概念が無意味かといえば、そうではないと私は思います。
確かに「正義」はない。今この瞬間には。「正義」は後から作られるものであり、未来からやってくるのです。どういうことでしょうか。それが最もわかりやすい形で現れたのが、女性たちのMeToo運動でした。ほんの数十年前までは男が女に対し抑圧的に振る舞うことが是認されていました。それが後になって今、「正義」の名の下に過去の男たちの所行が断罪されています。この例が男のセクハラという当時としても褒められた行為ではないという点で例として相応しくないのなら、BLM運動で話題になった、かつての白人の偉人たちの銅像が、彼らが人種差別主義者だということで、取り壊された例を思い浮かべれば良いかもしれません。
銅像の彼らは確かに英雄だったはずでした。しかし現代の歴史は彼らが人種差別主義者であったという点に焦点を当てて再解釈されているのです。彼らを尊崇している右派の人々は左派によるこうした銅像破壊行為を歴史修正主義と非難するでしょう。この非難には一理あります。歴史を解釈することは常に修正を孕むからです。しかし、右派の人たちも30年前にソ連が崩壊し、レーニンの銅像が倒された時に、今、BLM(Black Lives Matter)で左派がアメリカの英雄たちの銅像を破壊している際のあの陶酔した気分、歴史が正されているというあの実感を感じていたはずです。「正義」は未来からやってくる。今を生きる私たちにはそれがどんな形をしているのか正確に知ることはできません。私たちの今当たり前と思っている行為は、数十年後は許されない可能性があります。私たちは常に、未来に裁かれる存在です。
私たちができることは、未来の「正義」を想像し、それを先取りしているかのように振る舞うことだけです。
ではどうすれば未来の「正義」を想像することができるのか。それは他者との、闘争も含めた交流なくしてはあり得ない。MeToo運動を駆動する「正義」は「女性」という男性社会にとっての他者との交わりなくしてはあり得なかったし、BLMは「黒人」という白人社会にとっての他者との交わりなくしてはあり得ないものでした。
私たちが「正義」を作り直す時、そこには必ず他者が伴います。そして忘れてはならないのは、そこには失敗も伴うということです。私たちが次の他者とあった時、私たちは失敗を犯すでしょう。そして私たちは未来の「正義」に断罪されます。しかしその「正義」は私たちの失敗を糧にして作られた「正義」なのです。もしかしたらこう反論されるかもしれません。MeTooにしてもBLMにしても、その「正義」は近代国家における価値観、「人権」を前提にしてのものであり、このような「正義」が可能だったのも、男性も女性も、白人も黒人も同じ近代国家のプラットフォームに依拠しているからにすぎず、そのプラットフォーム自体を共有しないものとの「正義」の共有は不可能ではないか。と。
不可能だと言い切ることは避けたいですが、確かに著しく難しいのも事実です。ここで私が想起したいのは、カール・シュミットというワイマール期のドイツの政治哲学者です。彼はナチスドイツの御用学者としても悪名高いですが、何よりも有名な彼の政治哲学は友/敵理論でしょう。「政治とは友と敵を分けることである」という彼のテーゼは、人々を友と敵に分断し、友の中では全体主義化を生じさせるとして、ナチスの結果も踏まえて危険視されています。確かに彼の思想はまさしく危険であり、かつ的確であるがゆえに、現在の政治状況を「友/敵に分ける危険な状態だ」と分析する論者が多数います。シュミットの政治に対する理解が的確だからこそ、使えるのです。
しかし私はシュミットの「友/敵理論」のポジティブな面に着目したいと思います。ポジティブな面とは何か。それは「敵が存在することを認めること」です。それのどこがポジティブなのか。
「政治とは友と敵を分けることである」というテーゼの逆を考えてみましょう。それは友と敵がなくなることです。シュミットが最も危惧していたのは実は「敵の消滅」です。彼が念頭においていたのは当時、世界平和のために設立された国際連盟でした。それは経済的な自由と民主主義が結びついた、(今の私たちにも馴染み深いアメリカ的な)自由と平等を重んじた体制の世界的な広がりでした。この体制においては、それに従わない者は犯罪者とされ、処罰の対象、抹殺の対象とされます。それが世界規模で適用されるのです。
「友/敵」の「敵」は戦いの相手であって、「悪」ではありませんでした。「敵」は時に「友」の存在を脅かすものであり、「「友」が生きるためには時として戦わねばならない存在なのであって、「悪だから、正義に反するから、抹殺しなければならない対象」ではないのです。それが国際連盟によって、「敵」は犯罪者となり、殲滅しなければならない「悪」とされました。現代では「ならず者」や「テロリスト」という言葉がそれにあたるでしょう。シュミットは『政治的なものの概念』(1932)のほぼ末尾に近いところでこう記します。「(…)そこにはもはや戦争という語はなく、ただ執行・批准・処罰・平和化・契約の保護・国際警察・平和確保の措置だけとなる。対抗者はもはや敵とは呼ばれず、その代わりに、平和破壊者・平和攪乱者として、法外放置され、非人間視される。また、経済的権力地位の維持ないし拡張のために行なわれる戦争は、宣伝の力で「十字軍」とされ、「人類の最終戦争」に仕立てられざるをえない。」(カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩/原田武雄訳 未来社p.102)
私たちはもう一度「敵が存在することを認めること」に立ち返る必要があるのではないか。「政治とは友と敵を分けることである」というのは少し認識論的なニュアンスのある言い方です。結果、シュミット的な状況を危惧する現代の論者は友と敵を分けるような見方を危険視します。確かにそのようなものの見方が、下はネトウヨから上はトランプ大統領まで溢れています。しかし本当にそうした見方が危険なのは、それが人々を友敵に分けているからというよりも、友敵に分けた上で、敵に「悪」のレッテルを貼るからではないのか。敵はただ敵として存在している。それを認める寛容さが必要だと思うのです。敵は敵として存在している。敵は必ずしも「悪」ではない。では、「敵」とは私たちにとってなんのなのか。私は最後にもう一つキーワードを出したいと思います。それは「毒」です。ここではドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー)での議論を念頭においています。
「毒」は体に悪いものであり、それを摂取することで、私は死ぬ可能性もあります。つまり毒という存在が、私の存在を脅かす。「敵」は「友」の生存を脅かすものでした。「敵」とは「私(友)にとって毒になる存在」なのです。もし「敵」が「悪」だとするなら、それは倫理的な意味での「悪」ではなく、単に体に「悪い」という意味での「悪」なのです。なぜ毒は体に悪いのか。それは毒が体のあり方を化学的に変えてしまうからです。その変化が大きすぎると、それはもはや元の体ではなく、存在を維持しえなくなります。
何が言いたいのか。現代思想で散々言われてきた「ファルマコン」のことです。「ファルマコン」とは古典ギリシア語で「毒」のことで同時に「薬」のことでもあります。別に難しい話ではなく、ある存在が毒にもなれば薬にもなるという、ギリシアに限らず、どこにでもありそうな教訓です。
敵はただ存在する。私たちにとって毒になる草がその辺に生えているようにただ存在する。そして敵=毒は時に薬となる。それは友の体を化学的に変化させてしまうもので、友は敵を食らうことで、かつての友でなくなるのです。それは敵(敵は敵にとっては友)にとっても同様です。中国は今後もチベットを、香港を呑み込むでしょう。それを武力で阻止することは現実的ではありません。もし私がチベットや香港に期待することがあるとしたら、武力による独立ではなく、それらが中国の内部で、中国の国家体制に毒として作用し、内側から変容させる可能性です。(そういう点では今回、香港のデモで、指導者となった若者たちが軒並み逮捕されているのが悔やまれます。香港が今後中国に呑まれた時、毒として作用するはずの彼らに、既に参政権が剥奪されているからです。前科のある彼らが政治家になるのは極めて困難です。毒は毒になる前に中和されてしまったのです。)
「正義」は未来からやってくる。それは敵=毒と出会った私たちが否応なしに変えられてしまった結果見えてくるものなのではないか。私たちの周りには敵がいる。それは摂取すれば死に至るかもしれず、必ずしも無理に摂取しなくてもいい(=関係を持たなくてもいい)。しかし時に摂取せざるをえない時がある(=戦争、交流)。その結果、特に関係が変わらないこともあれば、お互いに変容していることもある(毒=薬の摂取)。未来の「正義」は変容した未来の私たちの「正義」なのです。
以上が、私が、異なる他者との接触や、共有すべき「正義」とは何かを考える時に、とりあえずこう構えておくべきなのかなと思っていることです。今この瞬間、何が正しいのかは判然としないことが多いですが、接触において生じる様々な交渉(暴力的なものも含めて)が、未来の何かにつながると信じて、たとえ未来に断罪される可能性があったとしても、未来においても正しいと思った行動をすることが大事なのではないか。(厄介なことに、その未来の「正義」もまた、そのさらに先の未来の「正義」に断罪されるかもしれないのですが。)そして交渉において暴力的なものを含めたとしても、敵の消滅はあってはならないこと、敵の存在を認めることが、未来の私たちの可能性を担保する上でも大事なのではないかと思います。
本当は未来と同時に過去のことも踏まえて考えたかったのですが、そこまでは至れませんでした。未来を考える上で、過去を想起することが重要になるとは思うのですが。そして過去や未来という時間軸を持たないような存在における正しさについても含めて考えてみたいですね。 -
kibaゲスト
1、「正義」は未来からやってくる。今を生きる私達にはそれがどんな形をしているのか正確に知ることはできません。とあります。
という事は元に戻って、「他者の評価など気にせず、己の判断でやった者勝ち」という事になるのでしょうか?
2、ここで使っておられる「敵」とは生態系における「天敵」の様なものでしょうか?
「倫理観や善悪の判断を含まない攻防戦」の様な意味で使っておられるのでしょうか?
3、毒とは「敵に物理的な損傷を与えるのではなく、価値観や美意識を破壊するもの」の意味で使われているのでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
1.当時は罪に問われなかったことが、後になって罪に問われる可能性も含めて考えるべきだと思います。その時は良かれと思ってやったことが、後になって責められることは往々にしてあります。法律であれば、事後法の禁止原則がありますが、それでも戦争でカオスが生じた場合は事後法が止むを得ない場合もあります。ニュルンベルク裁判や東京裁判がその例です。当時は彼らなりの判断で正しいと思ったことをやったのかもしれませんが、今はそれは間違いだったという評価が主流です。また、やったもの勝ちどころか首を絞められています。
正しい判断が何かわからないままで判断せざるをえず、判断は歴史に委ねる他ない局面があるけれども、それは安易な居直りを許しているわけではないのです。居直る人はそもそも未来とか考えません。
もう少し具体例をあげて話せば、昔は精神病者は精神科病院に強制的に長期入院させられ、社会から隔離されていました。それ以前は座敷牢で劣悪な環境に置かれていたので、精神科病院への強制入院は彼らを救うために良かれと思ってやっていた面があります。しかし、今ではそれは人権侵害であり、精神疾患があっても支援を受けながら地域で過ごせる社会にすべきと考え方が変わってきています。今、かつて長期入院を促していた者たちは、それを反省すべき局面に立たされています。かつては自分は精神病者のために尽くしたと誇れたのかもしれませんが、今、それを誇ったら非難されるでしょう。
当時の価値観は今の価値観と違うから仕方ないと言えないこともないですが、しかし、過去に誰かが、「それはやっぱり間違っている」と思い行動したから今の価値観がある。過去の段階で未来への萌芽があった。それを掴めなかった責があると思います。
私も何かを選択する際は、この行動は100年後の未来にも許される行いだろうかと考えることがあります。
例えばペットの購入です。今は皆当たり前のようにペットショップで犬や猫を購入しています。しかしその流通過程においては大量の犬、猫が殺されてしまう。またペットショップの犬、猫は血統が価値を持つ。そのため、常に品種改良がなされています。ブルドッグは自然分娩では生まれず、必ず帝王切開で生まれます。顔を大きく品種改良しているので、産道が通らないのです。またダックスフントは膝に病気を抱えています。あの体型を維持するために生じている遺伝病です。現代は愛玩動物を飼うことが当然の権利として認められていますが、一方で動物愛護の考えも広まっています。今後はそれは反倫理的となるかもしれません。今の人が未来において直接責められることはなくとも、SNSなどのペットの写真は削除しておかないと炎上するかもしれません。私の実家もマルチーズを飼っていますが、もし私が犬を飼うとしたら、捨てられてたり、殺処分を待っていたりするような犬以外は飼わないでおこうと考えています。もちろんこの判断はまるっきり見当違いで、100年後の人類もあいかわらずペットを買い、殺しまくってるかもしれません。でも私は私の選択の方が正しいだろうと思っています。100年後ではなく200年後の未来の倫理なのかもしれませんから。
(動物をどう扱うかは近年極めてセンシティブな問題です。サーカスでショーをさせるなど言語道断な世の中になりました。日本ではイルカショーが残っていますが、ヨーロッパはイルカショーは動物愛護に反すると考えています。動物園のあり方も昔より遥かにそのあり方が問われるようになっています)2.生態系に限らず、場合によっては戦闘にならざるをえない存在を指します。シュミットは領邦国家を想定していたと思います。日本だと戦国大名がわかりやすいでしょうか。小説やドラマの影響で、戦国大名は皆天下統一を目指していたかのようなイメージですが、そんなことはなく、多くは自分の所領と領民を維持できたらそれでよかった。隣国との戦争も、そのための手段でしかない。適当に戦って、ある程度決着がついたら、講和して、領土を割譲してもらったり、賠償金をもらったり。ヨーロッパも似たようなもので、戦争には一定の形式があり、敵を殲滅するまで戦うようなものではなかった。国民国家誕生後も、しばらくはそのような状態が続きましたが、徐々にその状態が崩れ始め、第一次対戦以後、「人類のための」や「民主主義のための」みたいなお題目が唱えられるようになると、いよいよ殲滅戦に入ります。相手の国家体制を完全に破壊し尽くすまで、戦いをやめられない。勝って領土を得たり、金を得ることが目的ではなく、非人道的な国家を消滅させることが目的だからです。第三帝国も、大日本帝国も今や存在しません。
それだと流石に人が死にまくるので、多少小競り合いがあっても、敵の存在を認めて、共存した方がマシではないかというのが、『政治的なものの概念』で考えたいところですね。どれだけ犠牲が出ても北朝鮮を滅ぼす方がいいか、多少、小競り合いはあるが、とりあえず存在は認めておくか。私は後者の立場です。生態系に例えるなら、人間にとっての熊みたいなものでしょうか。熊は時に人を襲います。仲良く共存できたらいいですが、円滑なコミュニケーションは望めないので、とりあえず棲み分けておく。でも時に境界で小競り合いが生じる。人もただ殺されるわけにいかないから、その時は銃などで応戦する。ただ、熊も人も常に戦いあいたいわけではないので、遭遇すれば必ず殺し合いになるわけではなく、多くは互いに相手の出方を伺いながら、戦闘を避ける。
私は熊にあったことはないですが、スズメバチにはたびたび周りを囲まれることがありました(昔の偉人の墓とか祠とかに探索に行くと大抵、巣があるんです)。今のところ刺されたことはありません。ラッキーなことに、いずれもスズメバチが私の周りを囲んで、カチカチカチと警告音を鳴らします。「それ以上、攻め込むつもりなら刺すぞ」ということらしいです。ラッキーというのは、スズメバチは警告音を鳴らさず、有無を言わさずに刺してくることもあるからです。刺さずに、警告音を鳴らすということは、交渉の余地があるということです。向こうも人間一人撃退するのは結構体力のいることなので、できれば戦いたく何のでしょう。
カチカチと鳴らしつつ、スズメバチの並びに微妙に隙間ができます(できたように見えます)。そこにゆっくり動いていくと、サーとスズメバチも道を開けて通してくれます。
スズメバチも熊も害虫、害獣であり、時には殺しあう必要がありますが、絶滅させる必要はない。
そういうものとして人間同士の「敵」も捉えたらいいのではないか。人と熊の鬩ぎ合いに倫理も善悪もない(というと本当は微妙で、人類学的には多くの文化が、熊など人以外の存在ともコミュニケーションをしており、そこには倫理があるからです。)3.物理的にも損傷を与え合います。敵と戦闘になれば互いに傷つけ合います。同時に敵との交流で互いの文化に影響を与えることもあります。敵との攻防に倫理も善悪もないと言いながら、とは言え、私たちは敵の影響を受けます。私たちは異文化に対し、様々な反応をします。それは毒に対するアレルギーのようなものです。ショック死することもあれば、完全に毒を跳ね返すこともある。一方で、ショック死には至らずも、毒の影響を受けてあり方が変わってしまうこともある。コロナのおかげで、人類もウイルスによって進化してきたという考えが、人口に膾炙しつつあります。例えば子宮の胎盤はウイルス由来です。赤ちゃんは母体にとって異物なので強いアレルギー反応が生じます(つわりですね)。しかしそれで赤ちゃんが殺されたら元も子もないので、胎盤が保護する役割を負うのですが、その性質がウイルス由来だそうです。アレルギーをなんとかかわそうとしてきた結果、ウイルスにアレルギーに対抗する能力がつき、それを借用しているみたいです。
同様なことが、異文化を受け入れる際にも言えないだろうか。私たちは他者にアレルギー反応を起こす一方で、私たちの体質も変わっていくのです。それは元の価値観や美意識の破壊なのかもしれませんが、新しい価値の創造なのかもしれません。シュミットの「敵」という概念と、ドゥルーズ=スピノザの「毒」という考え方を結びつけたのは私の思いつきで、思想的に根拠があるわけでもないので、いろいろ穴はあると思いますが、結構鍛えられるんじゃないかと思い、述べてみました。
蛇足ですが、敵は当然、お互い同士が敵です。私にとっては彼は敵であり、彼にとっては私が敵です。 -
kibaゲスト
1、「やった者勝ち」を「やって勝った者勝ち」に改めては如何でしょうか?
正しさは強さの裏付けがあってこそ説得力を持つのが現実であり、結果オーライという場合も多々あります。
①実効支配をしさえすれば「理屈は後から貨車で来る」との言葉があります。
スッタモンダと100年間維持すれは大概は時効になります。
②昔、3歩前進した者を10歩前進しなかったからと言って咎めるのは間違っていると思います。
後世に咎められる事が予想されたとしても、3歩前進した者は「我こそが先駆者」として昂然としていられると思います。
伊藤博文は若い頃にイギリス領事館を焼き討ちしてますが、後世に聞かれた時「あの時はそれが正しかった」と述べています。
「後世の毀誉褒貶など考慮するに足らず」ではないのでしょうか
③未来の萌芽など無数にありますので、掴む事ができなかったからと言って責められるものではありません。
昨年に今のコロナ騒ぎを予想できたでしょうか。でも小松左京の「復活の日」は今読んでも説得力がありますが。
④ヨーロッパの動物愛護はあくまでも自分勝手な戯言に過ぎません。
彼等は毛皮や革の衣服を着てキツネ狩りをしてフォアグラを食べています。これが許されるのは彼等が強大であった以外の理由があるでしょうか?
2、「戦国大名は皆天下統一を目指していたかのようなイメージですが、そんなことはなく、多くは自分の所領と領民を維持できたらそれでよかった。」
理念が異なる織田信長とは妥協する事が出来ず、全くもって迷惑な存在だったと思います。
3、「敵」は行為主体を表し、「毒」は作用を表現するという事でしょうか。
4、蛇足
己の細胞内に遺伝子しか持たないウィルスが他者の生殖・成長に影響を持つものでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
1.うーん、しかし、そこまで勝つことが正しいとか、やったもの勝ちだと思うのなら、なぜこんな議論をするのですか?それこそ無意味ではないですか?理屈など必要ないじゃないですか?理屈など必要ないことを理屈で説明したいということでしょうか?理屈とか正義などいらないという人は、もちろんそれで結構ですけど、できれば是非それを貫いて欲しいです。どんな非難があろうとも無視して、もちろん自分を正当化することも一切しない。ただ責められるのみ。責められるのが不当だ反論することは、正しさへのこだわりであり、理屈や正義などいらないというあり方に矛盾する。
己の判断でやるなってことではないですよ。行動は全て己の判断です。でも判断っていう以上は、それは正しいかどうかの判断ですよね?「正しさは強さの裏付けがあってこそ説得力を持つのが現実」
力が必要なのは正義を為す時であって、力があるから正しくなるわけではありません。力があるから説得されたという人は、正義に説得されたんでなく、単に力に屈しただけです。①私たちは75年を経た今も北方領土を返してほしいと訴えることはできますし、状況の改善を訴えることはできます。もちろん正義を成すには力の裏付けが必要なのはそうですが、力を得るために正義が必要だとも言えます。どうして弱者のために強者が協力することがあるのかといったらそっちに正義があると強者が判断したからでしょう。それはどっちが強いかとは別の判断基準です。
北方領土は本当はややこしい問題ですが、仮に正義は日本にあるとして、でもロシアの方が軍事力が強いとします。ロシアが自主的に返すつもりはないとして、それでもロシアが島を返すとしたら、そうしないとロシアが危ないからであり、なぜ危ないのかと言えば、国際社会が正義は日本側にあると判断して、そっちに力を貸すからでしょう。力が正義を裏付けるというより、正義が力を生み出すという考えはいかがでしょう。これは常にそうだったというより、徐々にそうなりつつあるという期待を込めてですけど。スッタモンダ100年経てば時効になるかもしれませんが、逆にいうと100年は揉めることができるということでしょう。諦めず頑張るという判断はあり得るでしょう。
現実は変えようがないので、殺された者は殺され損ですし、やったもの勝ちの側面はありますが、それだけではないですよね。非難されますし、処罰されますが、それも正しさとは一切関係がないということなのでしょうか?
② 「後世に咎められる事が予想されたとしても、3歩前進した者」
がどういう業績を指すのかよくわかりません。「3歩前進」は誰の評価ですか?それも後世の評価?正しくないと予想してたのなら、それこそなんでやったんですか?
そこは普通に、伊藤博文の功績は〇〇だが、✖️✖️については誤りだったで良いのでは?「〇〇は良かったんだから、✖️✖️のことを言うな」というのも変でしょう?
後世の評価を気にしないのはその人の勝手ですが、だったら勝手に評価して良いところは称え、悪いところは貶すよというだけです。
そして賠償が必要なことなら、後からでもそれを訴えますし、理があるなら、訴えが通ることもあるでしょう。③そうですか?新型コロナはSARSやMARS、日本では新型インフルもありましたし、普通にいつか対策しなければならない案件だったと思いますけど?単にまだ大丈夫だろうとコストをかけてこなかっただけで。『復活の日』もそうですが、10年くらい前にパンデミック映画がやたらはやり、さらに前には「もし北朝鮮が病原菌の入った風船を日本に放つかもしれないから、きちんと感染症対策をしなければ」みたいなことをワイドショーでも言ってたくらいなのに、コロナは全然予期してなかった、不意打ちだったっていうのは無理だと思いますよ。もちろんいつ来るかまでは予測できませんけど、それは地震と同じで、じゃあ何も対策しなかったとしても責めることはできないなんて言えませんよね
かつての行動が、後になって「あの時はそれの何がわるいのかと思ったが、今にして思えばあれはよくなかった」って反省するのは、よくあることであり、であれば未来にそう後悔や反省をしないように、今しっかりこの正しさは未来においても正しいことだろうか考えながら判断しよう(難しいけど)というのがわたしの主張ですが、kibaさんとしては未来から過去を評価するのが不当だということでしょうか?
まぁ後出しジャンケンの面があるのも事実なので、やり過ぎは良くないとは思いますが。
逆パターンで当時は悪とされていたが、それは当時の倫理観の誤りで、本当は正義だったと後から判定されることがあります。というか歴史はそんなことばかりです。
ガンジーは当時はテロリストですが、今は偉人ですね。これも当時はテロリストという評価だったんだから、ガンジーはやっぱり悪いことをしたってことになるのでしょうか?
白人に席を譲らなかった黒人は、当時の価値観では犯罪者ですが、今は勇気ある行動だったと名誉を回復してますよね。
そういったことも踏まえて、ちゃんと未来まで想像して判断しようということです。そもそも正しさは普遍的であることを求めるので、つまり未来永劫いついかなる時も正しいもの以外正しくないわけですが、もちろんそんな正しさを人間が見出せることなど不可能ではあるが、しかしそれでも人間は正しさを追い求めるべきだと思います。④そりゃ、だいたい「あれは悪いことだ」と最初に気づくのはたいてい、その悪いことをやってた人たちですからね。鯨を殺してたから、「鯨を殺すのはよくない」と気づくわけでしょう。(私は鯨を殺すのが絶対的な悪だとは思いませんが)
最初に気づいた俺偉いとドヤ顔されるのは良い気がしませんが、お前もやってたじゃんって反論も分が悪いと思いますよ。
もし誰かが人を殺そうとしてるとして、過去に人を殺したことがある人が「やめろ」と止めるのを、別の誰かが「おまえも殺人者じゃないか。今更良い人ぶるな」と非難するのですか?気持ちは分からんでもないし、過去のことは今後も反省すべきですが、とりあえず一緒に目の前の殺人を止めるべきだと思います。(日本の従軍慰安婦問題でも、「ほかの国もやってたじゃん」的な反論がありますが、殺人者が、「俺以外にも他に人殺しはいるのに、なんで俺だけ責められるんだ」って言い訳に納得するとでも思っているのでしょうか。いやもちろん、慰安婦問題の場合、責めてくる奴もやってたから、そう言いたくなる気持ちもわかりますけど、ダメなものはダメでは?)またkibaさんのやったもの勝ち論に従えば、動物愛護に限らず、全ての正しさの主張は戯言にすぎないので、ことさらヨーロッパの動物愛護を論う必要はないかと思います。というかヨーロッパこそやったもの勝ちという点で全て正しいということになるのでは?(その主張すらも戯言ということになってしまいますが)
2.信長の迷惑など知ったことではないですが、信長も別に畿内=天下を安定させることが目標だったので、彼もまた保守的な戦国大名だったと思いますよ。石高制とか、めっちゃ古めかしいことをやる点、田舎者感があります。
それを言うなら徳川政権は確かに敵をなくすという点で、恐ろしいかもしれませんね。敵は全て藩として配下におさめられ、徳川に背けば、お家取り潰しで消滅させられます。
ただそれは日本の中での話です。地球全部が一つの国家やイデオロギーに覆われるとヤバイというのがシュミットが述べてたことですね。3.この辺が私の考えが整理できてないところですね。友敵の二分法を持ち出しておきながら、友と敵との相互作用も表現したいから、「毒」を持ち出すことになった感じですね。「敵」という表現は「他者」という表現への抵抗です。「他者」って優しい表現じゃないですか。「他者を理解しよう」とか。でも実際にはそんな優しいものじゃないし、誤解もあるし戦いも起きる。「敵」はそういう分かり合えなさを含んでていいなと思うのです。しかも全く没交渉というわけでもない。戦いも交渉ですしね。そういう局面もひっくるめて表現するには「他者」より「敵」がいいかなと考えました。ヨーロッパ的な「他者」とか「友愛」に対抗して「敵」
4.進化という長いスパンの話ですけどね
僕らの遺伝子の一部がウイルスからもらったものだというのが分かっています。
ウイルスは生物よりもはるかに個体数が多いですが、全然注目されず、されたとしても感染症の観点がほとんどです。純粋にウイルスの研究がもっとなされたらいいのですが。しかし正しかろうがなんだろうが、最終的には勝たなきゃ意味ないっていうのは強力な反論ですよね。
ただ最終的というのがいつなのか定まってないので、とりあえずずっと足掻くことはできますね。
敵を認めておきながら、正しさに拘るのも、なかなかどっちつかずですね。 -
kibaゲスト
1、なぜこんな議論をするのですか?
1)9/8にも書きましたが「最優先とすべき正義が何なのか、対象を何処から、如何なる尺度で判断すべきなのか分かっていないkibaとしては己の評価を決め兼ねております。」だからです。
何方かが「浦さんに論破される事を期待してます」との趣旨の書き込みがありました。私もそれに似た心境です。
2)「でも判断っていう以上は、それは正しいかどうかの判断ですよね?」⇒「正しいかどうか」よりは「損か得か」の判断の方が多いと思います。
3)「力があるから正しくなる訳ではありません。力があるから説得されたという人は、正義に説得されたんでなく単に力に屈しただけです。」
⇒実は力に屈した人も対外的にも己自身にも「正義に説得された」と言っていると思います。そう思わせたいだけではなくそう思いたいのです。
①「弱者のために強者が協力する事があるのかといったらそっちに正義があると強者が判断したからでしょう」⇒「正義がある」ではなく「利益がある」からだと思います。
②「正義が力を生み出す」⇒ロシアは「正義により生み出された力によって判断する」のではないでしょうか。
③「100年は揉めることができる」⇒仰る通りです。
④「非難されますし処罰されますが、それも正しさとは一切関係がないという事なのでしょうか?」
⇒非難はされるでしょうが、処罰されるかはその時の力関係に拠ると思います。
正しさと一切無関係とは言いませんが、正しさよりも「力と利益」で判断されると思います。
⑤評価したり・咎めたりするのは後世の評論家で、判断し実行しなければならないのは今事態に直面している当事者です。
業績評価の対象は別々の事項についてではなく、一つの事項に対して功罪があるという事です。
予防接種の効果と副作用をどう評価するかです。
⑥対策を訴えられてはいるが、出来ていない事は無数にあります。 天然資源の枯渇・人口増加・大量破壊兵器から富士山の噴火・小惑星の衝突・太陽の膨張 ETC
⇒訴えがあったからといって、全てに対策が打てるもんではないと思います。
⑦「未来から過去を評価するのが不当」⇒全て不当とは言いませんが、不当の場合が多々あると思います。それを結果論と言い「法の不遡及」の原則はこの為にあるのではないでしょうか?
その原則を無視すれば韓国の様に過去の大統領をすべて断罪せねばならない羽目となります。
⑧「未来永劫いついかなる時も正しいもの以外正しくない」⇒この様な事はあり得ないと思います。
「何が最も優先すべき「正義」であるかは古今東西及び人・状況・流行によって異なります。」と9/8に書きました通りです。
④「その悪い事をやってた人達」には「悪い事をやってたという自覚など無い」と思います。
捕鯨などは国民の為、国の栄誉の為にやっていたと思います。「やった者勝ちの進化論」と「人類としての理想論」をどうやって折り合いをつけるのかが私の最も悩ましい処です。
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浦靖宜ゲスト
では利益第一でkibaさんは判断すればいいのではないですか?
実際経済学などでは、どれだけ理屈をこねようと「でも結局はそれが自分にとって利益になるから、そう判断しているにすぎない」といいますし、実際言えると思います。誰かのために死ぬのですら、自分の魂にとってそれが有益だから死んでいるのだと言うことができる。
私はそれは、「全部神様の思し召し」と同じ論法なので、それで納得がいくならそれでいいんじゃないかと思ってますよ。自分の利益をどうどう判断するかは、個人の選好によるので、私がkibaさんに対して、こう判断するのが、kibaさんにとって一番の利益だとか、これがkibaさんにとって最も最適な判断基準と述べることはできませんが。①についてはそうも言えますが、「本当はそっちが正しいと思ったからでしょう?」とも言えます。それに対して、「と思うほうが利益になると思ったからでしょう?」と言えます。強者がどう判断しているかなど、他人にはそもそもわからないので、正直無意味です。結局それが利益になると思う人もいれば、利益になるからとは関係なしに正しいからそうするとい人もいます。そもそも正しいほうが利益になると思えるのは、一般的に人々は正しさや公正さを重視すると利益第一主義者も思うからであって、その人も正しさの持つ力を信頼しているのです。正しさなんか全く力を持たないなら、誰も正義を訴えません
②どう違うのでしょうか?
④kibaさんとしては、現実がどうなってるかを知りたいということでしょうか?現実は不正義でいっぱいで、力と利益で判断されることが多いし、それをあたかも正義のように粉飾していることも多いと思います。現実が正しかったら、正義を訴える必要がそもそもないですから。
⑤別々でも一つでの特に論旨に問題ありません。功罪と言ってる時点で評価が入ってるじゃないですか。その功罪を評価するのは当事者や当時の人だけでなく、未来の人も含まれるということです。そして私は未来の人がどう判断するだろうかまで意識して判断して行動したほうがいいと言っているのです。そんなの正確にできるわけないなんて百も承知ですよ。でも未来を考えずに判断できるはずもない。特に国政は明らかにまだ生まれていない人たちがどう評価するかも含めて為されるはずのものでしょう。そうでなきゃ国家が存続しないし、存続させる意味もない。今はあまりに現在のことしか考えていないように見えるので、そういうことへの批判も含めて、未来の評価を考えたほうがいいと述べています。
副作用も5年、10年で出てくればいいですが、50年後に出ることもある。政治レベルならなおさら、未来の人の評価を意識するべきでしょう。⑥全てに対策を取れるわけがないのは当然のことであり、どこにコストをかけるかの配分を考える必要があるが、その判断が間違っていた場合は、どこまで予見可能性があったかを考慮されるとしても、判断主体である以上は一定の責任を負うべきでしょう。
法的に責任を負うことはなかったとしても、評価は下がるでしょう。⑦できれば、今までに挙げた中、又は別でもいいので具体的な事例として「この未来からの過去の評価はこういう理由で不当だ」というのがあれば、教えてほしいです。
たとえとしてあげたMeToo運動やBLMでの銅像撤去はどうですか?後者の場合、普通に破壊されたら器物損壊罪でまずいですが、例えば大学が校内の銅像を、「人種差別主義者を顕彰するのは間違ってた」と自主的に撤去した場合などはどうでしょうか?私自身は共感は示しつつも、本当は単純に撤去することが正しいのかと疑念は実はありますよ。
あと、評価は法的な刑事罰だけではないので、事後法云々はあまりこの議論では関係ないと思います
もちろん私もセクハラとか差別が当時の法律に反していないのであれば、刑事罰は与えるべきじゃないと思いますよ。でもそれをやった人は間違ってると思います。当時においてはそれが一般的であったとしても。それも不当な評価だとしたら、その理由を是非。
しかし事後法の原則を守るも守らないも自分の利益で判断するのがよいというのが、「やったもの勝ちの進化論」になるのじゃないですか?とくに不当かどうかに拘る必要はないと思います。⑧現実としてはありえないですよ。でも「正義」は定義上、いついかなる時もという普遍性を含んでおり、であるからこそ時代や地域を超えて共有されうる(注意:「うる」であり、そうでないことももちろんあります)
なのでたとえ無理でも、できるだけいついかなる時も正しかろう行動をとるつもりで考えないといけません。現実になるかどうかはこの段階ではどうでもいいのです。
そもそも何が正しい判断かを考えている時に、「これは今ここだけで通用する正しさでいいんだけど」みたいなこと考えて判断してるようじゃ(それこそ非現実的な想定ですが)、100年どころか、明日も持たないグズグズの判断になってしまいます。④そりゃ当事者の多くは自覚なんかないですよ。悪いことに気づいたのは「後世の」ヨーロッパ人ですよ。あるいは同時代にもいたでしょうし、実際にそれをやってた人が後で反省することもあるかもしれませんが。国民や世の中全体が「気付く」(そもそも国民や世の中をあたかも一つの人格かのように表現せざるをえないから話がややこしくなるのです)のが、後になってからです。そうであれば、どうなのでしょう?
捕鯨は栄誉より国益って感じでしょうけど。「やったもの勝ち進化論」と「人類の理想」に折り合いをつける必要なんかあるんですか?同時に成り立つものだと思いますよ。だって全く関係ないことだからです。世界が決定論的であっても、俺たちの人生に全く関係ないのと一緒です。
そもそも前者はたんなる事実に「勝ち」という評価を与えてるから、端的に間違ってると思いますよ。なんで生き残ったら勝ちなんですか?単に「生き残った」という事実があればそれでいいじゃないですか。そして勝ったほうが「正しい」という評価を付け加えているようにも、これまでの文意から感じられますが、それは必要な評価なのですか?正しくても負けることはあるし、滅ぶこともある。でもそれは正しさが正しくなかったことになるわけではないですよね。勝ったほうが正しいなら、内容なんか関係ないので人類の理想などどうでもよくなってしまうし、勝ったと判断するのは未来のことなので、結局未来じゃんって感じです。いつどの時点で勝ちが決まりと考えているんですか? -
浦靖宜ゲスト
未来の人は定義上、生き残った人なので、彼らの評価は「やったもの勝ち進化論」にとっても、まさに正しい評価になってしまうのではないですか?そうなると今度はそれでいいのかって私が追い詰められますが。
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kibaゲスト
「それで納得がいくならそれで良いんじゃないかと思ってますよ。」
⇒確かにそうなんですが、まだ納得が行かないので、この様にグダグタ言って浦さんを煩わせている次第です。
①「一般的に人々は正しさや公正さを重視すると利益第一主義者も思うからであって、その人も正しさの持つ力を信頼しているのです。」
⇒最近、SRI(Socially Responsible Investment 社会的責任投資)ファンドが注目を浴びています。
SRIファンドに選ばれる→信頼される企業と認められる→株価が上がる→投資家へのリターンが増える の善循環を目指しております。
しかし、ファンドの目的は「投資家へのリターンが増える」で、その手段として「社会貢献をする会社へ投資する」のです。
⇒今までも「お客様第一主義の企業が市場を征する」と思われて来たのと同様です。目的と手段の関係は変わりません。
②どう違うのでしょうか?
⇒ロシアは「正義」で判断しているのではなく、正義により生み出された「力」で判断しているのです。
④「現実がどうなってるかを知りたいということでしょうか?」「現実は不正義でいっぱいで、力と利益で判断されることが多いし、それをあたかも正義のように粉飾していることも多いと思います。」
⇒私もその様に認識し「正義」は限定的であると思っています。しかし「正義」でありたいとの希望は抱いております。
⑤⑥仰る通りです。
⑦「人種差別主義者を顕彰するのは間違ってた」と自主的に撤去した場合等はどうでしょうか?
1)学問的業績を顕彰した銅像を人種差別主義者だったからと撤去するのは間違っていると思います。評価項目が異なります。
2)「座敷牢で劣悪な環境に置かれていた精神病者を精神科病院への強制入院に変更したのは彼等を救う為に良かれと思ってやった。」
「しかし、今ではそれは人権侵害であり、精神疾患があっても支援を受けながら地域で過ごせる社会にすべきと考え方が変わってきています。」
「考え方が変わって来た」にも拘らず制度を変えなかった後世の者は非難されるべきです。しかし、座敷牢から精神病院に改善した者は評価されるべきだと思います。
⑧仰る通りです。
⑨1950年代は「オリンピック方式」と呼ばれる「早い者勝ち」捕鯨競争であり、捕鯨船の乗組員は個人・捕鯨船・国家の利益と名誉を掛けて捕獲頭数を競いました。
当時は新聞・ニュースでも出港する捕鯨船団とその家族の写真・映像が喧伝されたものです。
⑩「やったもの勝ち進化論」と「人類の理想」に折り合いをつける必要なんかあるんですか?同時に成り立つものだと思いますよ。だって全く関係ないことだからです。
「そもそも前者は単なる事実に「勝ち」という評価を与えてるから、端的に間違ってると思いますよ。なんで生き残ったら勝ちなんですか?単に「生き残った」という事実があればそれでいいじゃないですか。」
⇒「生き残ったら勝ち」とは思いますが「生き残った者が正しい」とは思いません。勝敗と正義・不義は別のものです。
「正義」は古今東西及び人・状況・流行によって異なり変化しますが、「生き残ったら勝ち」は競争相手が滅んだ時点で確定すると思います。 -
浦靖宜ゲスト
①SRI云々はその通りだと思いますし、マルクスの『資本論』から問題にされていたことだと思いますが、それが①でも私の文章の引用に対してどのように批判しているのかがわかりません。資本家が利己心で正義にかなった行動を取ること理由として①の引用での文章を述べたのですが。正義に適った行動を取るのは他者がそれを支持するからです。他者がそれを支持すること自体は、正義に適うことが良いと選好するからで、その選好の集積が正義の持つパワーです。
それとも社会契約的な想定をkibaさんはしているのでしょうか?
本当は人を殺してでも利益を得たいけど、それを許可すると自分も殺されかねず、その不利益を被るくらいなら、全員が殺人を禁するルールに従うといったような。みんな誰も正義のために殺人を禁じているのではなく、自己利益のためにやっているだけだと。それはそれで一つの見識だと思いますよ。ただkibaさんは一方で現実がどうであるかに重点を置いてるようにこれまでの投稿から思うので、「誰も本当は人殺しを悪いなんて思ってない。自己利益でそう言ってるだけだ。」というのは現実的ではないですが。ただこうした思考実験が無意味だとは思いません。②も①と同様です
④⑤⑥よかったです
正義は限定的については、現実的には限定的だが、理想的には普遍を目指さないといけないという考えです。そもそもどれだけ限定的か自体が折り合ってみないとわからないので、まずはできるだけ普遍性を帯びるよう正義のアイデアを出すべきではないですか?⑦1)正直大学側がどういう評価項目で銅像を建てたのか私たちにはわかりようがないですが、わざわざ当の大学が主体的に撤去したんなら、自分たちの評価項目は誤っていたと反省したのでは?
それに銅像は一般的にも、やはりその人の業績をその人格も含めて顕彰していると思います。少し議論が錯綜してきたように思います。
そもそも、当時は是認されていた行動が後になって不正義とされた時に、当時の行動を遡って、責任を取らせることができるかどうかは私の当初述べたことの本質ではありません。ただ実際にはアクチュアルな問題なので考える必要はあります。まずは当初の意見を述べます。
私が言いたいのは、とはいえ上記のようなことはありうるので、これからはそのことも踏まえて判断しようということです。100年後においても正しいと言えるか考えて行動しようと。
たとえば今はLGBTの人たちをオカマと呼んで揶揄することがなんとなく許されていますが、100年後もそれが許されていると思うのか。
そして100年後ダメなら今もダメなのではないかと遡って自制することが必要なのではないか。
今、許されてるならついついやってしまう可能性がある。でも未来に孫に非難されると想定したら少しはブレーキがかかるのではないか。
これについてはkibaさんいかがでしょうか?
そしてこれが中国のチベット対策などへの評価の仕方に有効でしょうか?つぎに過去のことを未来に評価することについて
たしかにあまりに過去のことをとやかく責めても仕方なく、そこは「当時の時代の制限だった」くらいに押さえた方が現実的なのかもしれません。特に過去の悪い面、それも後世に悪とされたことは、注目されがちなので、かえって正当な評価が難しくなることもあります。
それについての反論としてはこういうことが言えます。
チャーチルは確かにイギリスを救った英雄かもしれないし、これまでそう評価されてきた。そして未来において人種差別が悪とされ、チャーチルが人種差別を行なってきたことがわかった。であれば、彼のその悪も含めて再評価するのは当然ではないか。むしろ時代の制約ゆえに、これまで彼は公正な評価を得ていなかったと考えるべきだ。
そもそも歴史のある段階において人種差別が悪になったのではない。
そもそもいついかなる時でも人種差別は悪であり、その時が1900年だろうが、2000年だろうが変わらない。
もしあなたが人種差別が横行していた時代にタイムスリップしたとして、この時代は人種差別がオッケーだからと、それに加担することが許されるのだろうか。
歴史のある段階において人類は人種差別は悪であると気づいたのだ。
人種差別は昔から「本当は」悪であり、過去の人はそれに気づいていなかった。しかし未来の我々はそのことに気づいた。気づいた以上、その気づきを無視して過去を評価することは、正しい歴史の評価ではない。ただ我々が認めるのは、当時においては人種差別が是認されていたという歴史的事実のみであり、それは当時においては人種差別が良かったということとは異なる。その当時も気付いてないだけで、悪だったのだ。ちなみに私が銅像の破壊に疑義を生じるのは、上記の歴史的事実を重視するからです。つまり銅像を破壊することは、「ある時代においては彼は英雄視されていたんだよ」ということが分からなくなってしまう可能性があるからです。その事実は後世においても参照できるようにした方がいい。(まあ銅像残さなくても遺せると反論できそうですけど)
2)も概ね⑦1)と同様です。ただ確かに医療を受けさせたという点で改善と言える可能性はあります。
⑨も同様です。ちなみに私は鯨殺すのが悪いというより、乱獲が悪いと思います。そしてもう獲るべきでもないと思います(獲らなくても構わないので。ただしイヌイットや太子町などの伝統捕鯨は別)
⑩勝敗と正義不正義は別だとしたら、kiba さんは「やって勝った者勝ち進化論」と「人類の理想論」間のどこに折り合いのつけられなさを感じているのですか?
それよりもkibaさんは「人類の理想論」なんてあり得ないという考えなのでは?全人類共通の理想や正義などないというのがkibaさんの立場ではなかったでしょうか? -
kibaゲスト
①浦さんの書かれた内容が良く分かりませんでしたので、再度私の考えを述べます。
「他者がそれを支持すること自体は、正義に適う事が良いと選好するからで、その選好の集積が正義の持つパワーです。」
⇒パワーでさえあればそれが不義であろうが、錯誤・流行であろうと関係なくファンドは投資すると言いたかったのです。
⑦「大学が自分の評価項目は誤っていたと反省したのでは」
⇒事なかれ主義で「世論という力に屈した」場合が多々あると思います。
「100年後ダメなら今もダメなのではないかと遡って自制することが必要なのでは」
⇒私は将来を見通して自制できる人を尊敬します、でもできない人々を非難するつもりはありません。
100年後に評価が変わるかもしれませんが、200年後に再度見直される事もありそうです。
喫煙は医療行為として始まり現在は分煙の段階でしょうか、100年後には喫煙者に傷害の「未必の故意あり」とされ、正当防衛や緊急避難が適用されるかもしれません。
チャーチルは葉巻好きで有名ですが、100年後になってもその業績評価は変わらないと思います。ただ喫煙の悪癖があったとされるでしょう。
シャーロック・ホームズはコカイン中毒ですが、今も探偵としての評価に陰りはありません。
⑨仰る通りです。でも鯨は駄目だか牛・豚は食べても・皮を剥いでも良いという西洋人の理屈には納得できません。
⑩「やって勝った者勝ち進化論」という厳しい現実から目を背けて、ない物ねだりの「人類の理想論」を捨てきれてないのかもしれません。 -
浦靖宜ゲスト
①もちろん利己的な人は不義だろうが、不正義だろうが利益になるなら、利益になる方を選びます。問題は、ではなぜ正義を選ぶ方が利益になると彼らが判断するのかです。その理由は多くの人が正義であることを、それが正義であるがゆえに望むからだと私は思います。
もしこの説明に納得されないならkibaさんに逆に質問します。利己的な人が正義に適う行動を取る理由が、その方が利益になるからだとして、なぜ利己的な人はそのような判断をするのでしょうか?なぜ正義が利益になるような状況が生まれるのでしょうか?⑦事なかれ主義的に決定されるのは確かに良くないことですし、そうした決定が往々にしてなされるのはその通りですが、それはケースバイケースで判断すべきことで、私が考えを修正するほどの瑕疵ではないと思います。どんな時にも事なかれ主義は起こります。
非難する必要は必ずしもありませんが、評価は変わらざるを得ないでしょう。(内容によります。喫煙はともかくセクハラや差別は道義的に非難せざるを得ない。)
喫煙程度なら大した悪ではないと現代の私は判断しますが、人種差別であれば、しかも相手が偉大な政治家であれば、大いに歴史的評価に影響すると思います。
シャーロック・ホームズは偉大な探偵ですが、少なくとも子供たちに読ませるなら、コカインについては注釈(「現在ではよくないこととされてますよ」とケチをつけること)が必要です。100年後の評価が200年後に覆る可能性はあります。なので未来を踏まえた判断は難しい。より未来の方が正しいとは必ずしも限らず、なんなら現在や過去の方が正しいこともあるかもしれない。イメージとぢては今現在、なんらかの不正義があると朧げながらに感じていて、しかし未来においてはその不正義は正されているだろうと想定し、その上でその未来の正しさに適った行動を現在にて行う感じです。
あと個人的には未来に言い訳をしないことが大事だと思います。「あの時は仕方なかったんだ」という言い訳は、納得はできますが、褒められる態度ではありません。
どの道、私たちはいろんな間違いを(かつての人種差別や男尊女卑のyいうに)気づかず犯している可能性がある。それが未来において「あれは良くなかった」と指摘を受けたなら真摯に受け止めるべきだと思います。⑨鯨は豚よりも知性があるからダメだという感覚があるのだと思います。そういう世界観の人に対して納得できないといっても仕方ないと思います。神様を信じる人に神様なんかいないと言っても仕方ないのと同じです。私も知性を生殺与奪の基準にするのはおかしいと思いますが、本当は彼らは理屈というより感覚的に殺したくないのだと思います。犬やイルカなどコミュニケーションしやすいと感じる動物に対しては他の動物よりも殺すことが躊躇われます。それを理屈に合わないと言っても仕方がない。ただ相手を説得するには理屈が要りますから、向こうも知性がどうのこうの言うのでしょう。もし本気で知性云々の基準を信じていたら、むしろ説得の余地があります。では一定のレベルの知性を持たない胎児や重度の知的障害者は生殺与奪は倫理的に問題ないのかと反論することは可能です。でも本当はそんな理屈だけで「殺してもいい」とか「かわいそう」とか判断しているわけじゃないと思います。
⑩「人類の理想論」がやって勝った者になるように努力すべきではないでしょうか?正しさを追い求める人はそれをやっているはずです。
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kibaゲスト
①人は諸般の事情を考慮して選択します、諸般の中に正義が含まれていただけではないでしょうか?正義はワンノブゼムに過ぎないと思います。
⑦「事なかれ主義的に決定されるのは良くない事で往々になされますですが、それはケースバイケースで判断すべき事」
「チャーチルの様な偉大な政治家にとって喫煙程度は大した事ないが、セクハラや差別は道義的非難の対象である。」
「シャーロック・ホームズは偉大な探偵ですが、少なくとも子供たちに読ませるなら、コカインについてはケチをつけるべき」
⇒私が9/8に書いた「何が最も優先すべき「正義」であるかは古今東西及び人・状況・流行によって異なります。」と仰っている様に聞こえます。
もしそうなら私と浦さんの間に「正義」について意見の相違はありません。
「今現在何等かの不正義があると感じていて、未来においてはその不正義は正されているだろうと想定し、その上でその未来の正しさに適った行動を現在にて行う」
「あの時は仕方なかったんだ」という言い訳は、納得はできますが、褒められる態度ではありません。
⇒「未来の正しさに適った行動」は素晴らしいですが、とても困難です。「過去の正しさに適った行動」を常識といい、法律でいう公序・良俗も過去の正しさに基づいています。
立派な美意識で、私もかくありたいと思います。しかし現在の常識に従っている多くの人にそれを求めようとは思いません。
⑨「神様を信じる人に神様なんかいないと言っても仕方ないのと同じです。」
⇒これも、私が9/8に書いた「何が最も優先すべき「正義」であるかは古今東西及び人・状況・流行によって異なります。」と仰っている様に聞こえます。
「鯨は豚よりも知性があるからダメだという感覚があるのだと思います。そういう世界観の人に対して納得できないといっても仕方ないと思います。」
⇒若しかしたら、白人は奴隷となった黒人を「知性の無い人型動物」と認識していたのではないでしょうか?
ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」への批判の中で「善良な奴隷をあんなに残酷に扱うはずがない」との意味は「奴隷を人ではなく貴重な財産である」との認識に基づいた批判だったのでしょうか?
また、奴隷制への批判が綿花生産の必要性から奴隷制を行っている南部ではなく、必要性が薄く状況認識も乏しい北部からなされた事も「正義」の不確実性を表していると思います。 -
浦靖宜ゲスト
①もちろん個々人の選択は諸般の事情を考慮してですが、というよりも諸般の事情であれ、それぞれの事情は、それ相応の正しさの裏打ちがあると思いますよ。家族を守るためとか、個人の自己保存のためとか、社会を維持するためとか。じゃあ、どれを優先すべきなのかが問題で、少なくとも一方的に他者の権利を侵害するようなことは許されないというのが一応広く通用している正義であり、それを無視するような行動は事情がどうあれ駄目だと思います。(ちなみにワンオブゼムのゼムは具体的にはどのようなものですか?諸般の事情の一つに正義があるのではなく、正義を前提に諸般の事情を考慮するのが、「正義」という概念の正しい言葉遣いではないでしょうか?)
また前のコメントで上がった非近代の宗教に於いては、そもそも人間の権利として何が与えられているのかの考えが違うので(たとえば、私たちには結婚の強制など女性の権利の侵害と思えることが、ある宗教では認められているのは、その宗教の世界観では結婚の自由が女性にあると認められていないからであり、そこはどこまで折り合いがつけられるのか対話を続ける必要があると思います。
⑦事なかれ主義云々は正義の議論とは関係がないので、あのように答えました。正しさを理由にではなく、雰囲気とか圧力を理由にそれが選ばれることは残念なことです。ただ結果、正義が実現するなら、何よりでしょう。今度は心の底からそれを正義と思ったからそうしたと言えたらいいですね。
私はセクハラや差別はいついかなる時も不正義であり、普遍的だと考えていますよ。これに関しては昔の人とは正義感が異なるのではなく、昔の人が端的に間違っていたと思います。
コカインについては、私個人の見解では正直自由だと思います。それ禁止することを正当化するためには、コカインの使用の結果、必ず不正義が起こるのだと立証する必要があります。必ずしもそうでないなら使用の自由の余地はあると思います。コカイン云々はkiba さんが持ち出した例であり、私もわかりやすいかなと思ったので乗っただけです。ただし注釈(教育)はやはり必要ですよ。車の運転は誰でも自由ですが、一定の教育を経た上でないと駄目というのと同じです。以前似たような議論になった時に私は善と正義を分けて説明しました。kibaさんが正義はそれぞれだという時のそれぞれは、実は正義ではなく善だと思います。何を善いとするかは確かに共同体や時代によって異なります。異なる善をなんとか調停するために、要請されるのが正義だと考えています。わかりやすく言えば法律(善)は各国によって異なるが、とはいえそれらの法律は、せめて国際条約(正義)に抵触しない範囲で調整してくださいということです。
もちろん国際条約の締結はとても困難であり、それ以上に幅の広い正義を定めるのは事実上は不可能です。でも不可能だと諦めてなんでもありにするくらいなら不可能でも正義を追求すべきです。完全な正義は無理でも不完全な正義は可能で、不完全さをより完全に近づけることも可能だと思います。私がよくないと思うのは、「正義は人それぞれだから正義なんかないんだ」ということが、当然のように広まっているように思われることです。そんなの小学生でも言えます。で、どうするかを考えないと意味がない。ちなみに私は「善は人それぞれだから、それらが折り合いがつくように正義を作らないといけない」と考えています。
「しかし現在の常識に従っている多くの人にそれを求めようとは思いません。」
私が褒められた態度でないと言ったのは、もうすでにその常識が間違っていたと分かったのに、あの時は間違っていたと反省しない態度ですよ。例をあげれば
1950年に常識と称して人種差別を行う人物がいた。
2000年にそうした常識は間違っていたと人類は気づいた
ところが2000年においてその人物は1950年にとった人種差別的行動を「あの時はそれが常識だったんだ。私は悪くない」と反省しない。
それは褒められた態度ではないし「反省しろ」というべきでしょう
すくなくとも私は軽蔑します。「あの時はそれが常識だったけど、やっぱりいけないことだったなぁ」と反省するならいいですが。神様云々は上記の共同体や宗教によって善が異なる云々の議論ですね
奴隷制云々に関しては、正義が不確実というより端的に不正義だと思います。強いていうならその時代の善の一部はそうだったってことでしょうね。しかしそれは正義による調停の結果、取り下げてもらうこととなりました。正直、私はある人が「〇〇人は人にあらず」と信じること自体は、彼らの善として認めていいと思います(ただし、信念を改めてほしいとは思います。)しかしその信念に基づいて実際に〇〇人を物として扱ったら、その行為は不正義として修正させるべきです。でも彼らはそんな正義に同意しないでしょうね。すくなくとも修正を求めくると思います。その時は彼らと議論せねばなりません。
もし彼らが正義そのものをいらんとつっぱね、どんな努力を重ねても突っぱねるなら、一旦棲み分けて互いに干渉しないことにするしかない。ただその前に彼らの共同体の中にいる人で、こちら側に来たい人は全員連れ出してからが理想ですね。彼らがそれに抵抗するなら、武力で応じる必要があるでしょう。この辺りを考える上で私は「敵」という言葉を出したのでした。おそらく現実において「敵」となりうる存在は部族社会の形態をとると思います。部族社会は広がりを持たないので、その範囲内での不正義(たとえば生まれた赤ちゃんを精霊として焼き殺し天に返す)は、私たち「人間」の外のこととして慇懃に無視します。なぜなら、そもそも「人間」とは何かが私たちと彼らとで根本的に異なるからです。
一方でかつての白人も黒人を人間とは見なさなかったり、ある宗教が特定の性別を私たちが思うような意味での人間と見なさなかったりすることはありますが、それらの共同体が互いに関わり合う状況であれば、正義にかなった「人間」とは何かを定めて、各人間観をそれに合わせてもらう必要があるでしょう。部族社会は彼らの中だけで小規模に完結している限りで、その不正義を無視できます。なかなか苦しい理屈だと思いますが、たとえ現実には不完全だとしても簡単に正義を捨てるわけにもいかない。一方で、不完全な正義は常に実はそれは正義でなくある共同体の善に過ぎなかった可能性があのる。単なる善が正義と称して他なる善を駆逐するのは、それこそ不正義だ。よって私たちの正義が単なる善である可能性を踏まえて「敵」という概念で、正義の外の存在を認める措置を取っておくことにします。
-
浦靖宜ゲスト
「部族社会は広がりを持たないので、その範囲内での不正義(たとえば生まれた赤ちゃんを精霊として焼き殺し天に返す)は、私たち「人間」の外のこととして慇懃に無視します。」
↓
「部族社会は極めて小規模な社会であり、私たちのグローバルな社会との接点も限りなく小さいため、その中でなされる、私たち人類にとって不正義と思われる行動(たとえば生まれた赤ちゃんを精霊として焼き殺し天に返すような行動)は、私たち人類の外の出来事として慇懃に無視することにします。」に修正します。
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kibaゲスト
「諸般の事情の一つに正義があるのではなく正義を前提に諸般の事情を考慮するのが、「正義」という概念の正しい言葉遣いではないでしょうか?」
⇒「諸般の事情の一つに正義がある」と考えます。「正義」がなぜ他の事情に超越するのか理解できません。
「正義という概念を現代の日本語に於いてどの様に使用するのが正しい言葉遣いか」についてはよく知りません。
若しかして私と浦さんとでは「正義」の様態が異なるのではないでしょうか?
kibaの正義は「属人的・相対的な美意識」の様なものです。
浦さんの正義は「普遍的・絶対的な真理」の事を仰っている様に思えます。だとすると話が噛み合わず、すれ違う事が理解できます。
「以前似たような議論になった時に私は善と正義を分けて説明しました。kibaさんが正義はそれぞれだという時のそれぞれは、実は正義ではなく善だと思います。」
⇒済みません、忘れてしまってますので探してみます、何時の議論でしたっけ? 再度説明して戴けたら有難いです。
「車の運転は誰でも自由ですが、一定の教育を経た上でないと駄目というのと同じです」「あの時はそれが常識だったけど、やっぱりいけないことだったなぁと反省するならいいです」
⇒妥当で現実的なお考えだと思います。 -
kibaゲスト
「私達人類にとって不正義と思われる行動(例えば生まれた赤ちゃんを精霊として焼き殺し天に返す様な行動)は、私達人類の外の出来事として慇懃に無視する事にします」
⇒これって「白人は奴隷となった黒人を「知性の無い人型動物」と認識していたのではないでしょうか」そのものではないでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
私は伝統的な正義論の枠組みの中で議論しているので分かりにくいのかもしれません。
正義は定義上、なによりも優先されるものとされます。もし正義よりも優先すべきXがあるとするなら、「正義よりもXを優先すべき」ということこそが「正義」ということにならないといけません。つまり諸般の事情を超越して正義というのは設定されます。ただ「正義よりもXを優先することが正義だ」ではなんのことだかわかりません。
そこで前者の「正義」と「正義」の違いを考えますと、前者のXに優先されるような正義は、「殺人者は死刑にすべきだ」とか「私的所有を認めるべきだ」といった個々の善いとされているものを指します。おそらくkibaさんが正義に優先すると考えている諸般の事情も、「死刑は許されない」とか「最大多数最大幸福のために誰かが犠牲になっても良い」とかそうした別の善さを想定しているのだろうと思います。正義論ではこれらを「善」と名指し、「正義」とはみなしません。前者の「正義」も「X」も各人、各共同体の「善」に過ぎない。
正義というのは「正義よりもXを優勢させることが正義だ」の命題では後者の「正義」になります。これは各人、各共同体の時として対立し合う「善」を突き詰めた結果、見出される基準であり、この基準に従って各々の「善」も制限してもらうことになります。kiba さんの「属人的・相対的な美意識」=「善」は人によって異なるので、結局、どの善が他の善よりどれだけ優先されるべきかを定める基準が必要であり、そのために正義が新たに要請されるという考えです。
ただ理念上の話なので、現実どこまでできるかはわかりません。
最後のご指摘はその通り矛盾しており、自覚しているのであえて書きました。人種差別を不正義というわりに以前述べてた部族社会でのそのような行為はなぜ認められるのかと
この問題を解決するために「敵」という概念を使えないかと試行錯誤しています。
今のところ考えついているのは、白人コミュニティは私たちグローバルな社会と密接な関係を持っている。グローバルな社会は各共同体から構成されており、各共同体はそれぞれ異なる「善」を持っている。各共同体はグローバルな社会を構成したいと考えており(具体的には交易したり、互いに行き来したり)、それらが円滑に行われるよう、それぞれの「善」を調停する一定のルール=「正義」を定めることに同意している。その中には人種差別の禁止も含まれている。グローバルな社会に関与したいのであれば、「正義」に従うことが条件である。
一方で、部族社会はそもそも彼らだけで世界を完結させており、グローバルな社会を構成せずともそれを維持している。そこで彼らについては「正義」の範囲外として、そこでの行為が正義に適っているかどうかは気にせず、無視することにする。ただし、私たちの側は「正義」に従う必要があるので、彼らに対し不正義があってはならない。また彼らがグローバルな社会に関わるつもりがあるなら、やはり「正義」に従ってもらう必要があり、赤子を燃やすような行為も不正義として取り締まらねばならない。しかしこれはかなり魅力を感じない見解ですね。また当初に述べた「正義・敵・毒」の話とも整合性がつかなくなっていますね
そのあたりは次にしましょう。 -
kibaゲスト
「正義は定義上、なによりも優先されるものとされます。」
⇒なぜ、ヒエラルキー構造なのでしょうか、ラウンドロビン型でもネットワーク型でもよいのでは?
「死刑は許されない」とか「最大多数最大幸福のために誰かが犠牲になっても良い」とかそうした別の善さを想定しているのだろうと思います。
⇒「正義の戦争より不正義の平和」「命あっての物種」「命より誇り」「命より神の栄光」等を想定しています。
「正義論ではこれらを「善」と名指し、「正義」とはみなしません」「どの善が他の善よりどれだけ優先されるべきかを定める基準」
⇒ビール・ワイン・ウィスキーをアルコール度数で比べる様なものでしょうか?
「人種差別を不正義というわりに以前述べてた部族社会でのそのような行為はなぜ認められるのか」
⇒行為の認証問題ではなく、人を動物とみる事が問題なのでは? -
浦靖宜ゲスト
「ラウンドロビン型でもネットワーク型でもよいのでは?」
それで具体的にどのように正義が機能するのでしょうか?
定義上そうだからとしか言いようがありません。「「正義の戦争より不正義の平和」「命あっての物種」「命より誇り」「命より神の栄光」等を想定しています。」
良い例だと思いますよ
たとえば「命より誇り」と「命あっての物種」は時に対立する。最近だと尊厳死や安楽死の議論がそうですね。普段は命が一番大事だとされているのに、時として、死を選ぶ権利を重視すべきだとも考えられる。ではどういう状況なら「命あっての物種」から「命よりも誇り」にシフトしていいのかの誰もが共有できるルールが定まれば、それがここで論じられている「正義」となります。まず、現代においては「人間」は生物学的な「ヒト」として認識されており、私たちグローバルな社会はそれを共有しています。黒人も白人も同じ「ヒト」であり、「人間」なので、そこに差別があってはならないとされています。(ただし将来的にはこの定義が拡大される可能性はあります)
一方で部族社会、特に例に挙げたような習俗がある社会では、「人間」はその視点にまさに立っている存在を指します。簡単に言えば「人間」とは自分たちの視点に立つもののことです。どういうことかと言うと、ヒトにとってヒトは人間です。そして(ヒトからはオオカミに見える)オオカミにとってオオカミこそが人間で、ブタにとってはブタこそが人間です。こうした世界観はパースペクティブ主義と呼ばれており、アメリカ大陸先住民に見られ、さらには環太平洋の部族社会に広く見られる世界観ではないかと考えられています。アイヌなどもこうした世界観を持っているように思われます。
そうした世界では「人間」という概念の意味が異なる。また部族社会はグローバル社会の仲間入りがしたいわけでもないので、私たちの「人間」という概念に合わせる必要もない。なのでそれはそれで勝手にやってもらっていればいいのではないか。さて問題はかつて白人が黒人やアメリカ先住民に対して酷いことをしたのも、「人間」観の違いゆえでした。では部族社会と同じではないのか?
ヨーロッパ人は、新大陸の「ヒト」がヨーロッパ人が理解する「人間」と同じなのかそうでないのか考えることになります。現代からすれば「人間」に決まっているわけですが、現代と、かつてのヨーロッパ人ではやはり「人間」という概念の意味が異なる。
ヨーロッパ人にとって「人間」とは「神を理解する魂を持つもの」です。要は「魂があるかないか」が人間かそうでないかの基準であり、そうでないと見做されたなら、動物ということになる。ちなみに先住民のパースペクティブ主義では、「人間」とは自分たちのことなので、それ以外は人間ではない。よって私たちから見れば同じ「ヒト」も人間とは見做されない可能性がある。ヨーロッパ人が魂のあるなしで人間かそうでないかを判断したのに対して、ヒトにもオオカミにも精霊にも魂がある(ゆえに、ヒトにとってヒトこそ人間であり、オオカミにとってオオカミこそ人間という発想になる)とする先住民にとって、人間かそうでないかの違いは同じ身体を持っているかどうかです。そこで彼らは白人を捕まえてきて、水につけて身体が腐るかどうかを確かめたという記録があります。腐れば人間で、腐らなければ精霊かなにかだろうと。
ヨーロッパ人と先住民の出会いにおいては、お互い様なところがありますが、その後ヨーロッパ人の方は先住民を人間と認めた以上、かつて非人間として酷い仕打ちをしたことを反省すべきだし、人間と認めてからも差別的な扱いをすることは許されない。私たちが先住民よりもヨーロッパ人の方に批判の矛先を向けるのは、ヨーロッパ人の世界観(人権という考えがその代表です)こそ私たちグローバル社会の世界観に直結していると考えるからです。
これはこれで、ダメな感じですね。じゃあたとえば江戸時代の身分制を批判するにはどうしたらいいのでしょう?という問題が出てきました。ヨーロッパと関係ないのなら批判できないのではないか?
ちょっと話がずれるかもしれませんが、安倍首相がアメリカの議会で民主主義は(敗戦後)アメリカがくれたと演説した後で、美智子皇后が誕生日か何かの談話で「五日市憲法など、日本では明治の頃から民が議論し政治に関わる土壌があった」的な発言をしていました。一般的な歴史認識としては「敗戦後、アメリカのおかげで日本は民主主義となった」ですが、それを「日本はもともと民主主義を持っていた」と過去を解釈し直しているわけです。
こういう「実はもともと….だった」という歴史の再解釈は危険をはらむ一方で、共同体に、ある価値観を埋め込む上で大事なのではないか。アメリカでも黒人差別への抵抗として独立宣言や憲法、建国の父たちの言葉を持ち出してきました。つまり「独立宣言を読めば、もともとアメリカは人種差別を否定する国家であり、人種差別をする人間はもともとアメリカ人ではないのだ」みたいな。現実の過去は差別だらけなのですが、こうしたアイデンティティの修正を図ることで、より良い社会にしていくみたいな考えが重要なのではないか。これまでの未来から過去を評価することの議論はこうした歴史の再解釈のあり方も含めての議論でした。
ところで最初に一応戻ると
結局kibaさん自身はチベット問題をどう考えるべきだと思いますか?これまでの議論でkibaさんの立ち位置(何を重視すべきか)も見えてきたと思います。今一度もとの問いに戻るのはどうでしょうか? -
kibaゲスト
確かに私も余りに話が拡大しすぎて、元の話が何だったかなと思い始めていました。
ここいらで一旦元に戻って反芻する時間が必要だと思います。
まだ私の考えが全て整理された訳ではありませんが、中間報告として纏める事は興味深い事であると共に、膨大な時間を割いて頂いた浦さんへの義務かとも思っています。 -
浦靖宜ゲスト
私は楽かったですし、いろいろ考えを深めることができました。
kibaさんの反論や疑問に対してはできるだけ答えたつもりですが、答えながらも、私のこの再反論じゃあなかなか厳しいなというものも多かったです。
私は「正義」という概念自体が無効化することには危惧を覚えますが、とはいえ普遍的な「正義」なるものを前提に議論することも不可能であることも改めて実感しました。
定義上普遍的であるべきなのに、普遍的であることが不可能という点は(西洋)哲学全般が抱えている問題です。それにどう対峙していくかを今後も考えていきたいと思います。 -
kibaゲスト
1、中国のチベット併合について
事実 中国は1951年にチベットを併合した。
結果 中国はチベット人120万人の生命、アイデンティティー・資源を奪ったが、以前のチベットよりは経済的に改善した。
評価 ①中国はチベットの生命・政治・経済・文化の破壊者である。
②中国はチベット人民を解放し、近代化させた。
③中国は弱肉強食・適者生存の論理でチベットを一体化した。
対策 ①政治的には(武力ででも)自治・独立を与え、経済・文化的には教育によりラマ教への盲従・貧窮から救うべき。
②中国にチベットの近代化を委ねる。
③犠牲を伴う改革より「不正義の平和」を選び、介入しない。
結論 事実・結果には大きな差異がないですが、評価・特に対策については未だ決め兼ねて居ります。2、価値・幸せ・正義について
価値 経済的繁栄・人命・独立・アイデンティティー・自由は人が命を懸けるに値する価値だが、相互の優劣は付けられない。
幸せ 幸せの「物差し」には社会安定・心の平穏、平和・繁栄・平均寿命、自己実現・改善の加速感、名利・福禄寿等があり、それは歴史を通して変化する。
正義 ①「正義」とは「自分の存在する社会を維持する為の行動」、「善」とは「自分という個が良いと判断した行動」。 ⇒ネットから引用。
②「正義の対義語は正義」。言い換えると「別の正義」と言うべきで、不義・悪の概念は無く不都合の物を悪とする。 ⇒ネットから引用。
③「正義」も古今東西・人・状況・流行、視座・評価基準で相異し変化する。⇒観察者が黴の研究者や人類絶滅後に来た異星人の考古学者なら善悪・真偽・美醜など問題にならず「適者生存」で終わる。
④「生き残ったら勝ち」だが「生き残った者が正しい訳ではない」。 ⇒生存と正義は別物であり、生存には正義よりも「力・損得」が重要。
⑤国家は不義に対し自国に影響があれば介入し、なければ無視し、都合が悪ければ見ぬ振りをする。個人は己の判断に従い行動すればよい。3、認識・評価について
認識 白人は奴隷の黒人を「知性の無い人型動物」と認識し、善悪の判断の対象ではなかった。
評価 未来から過去を評価する事は「法の不遡及」の原則に反し、「未来の正しさ」に適った行動は困難である。「過去の正しさ」に適った行動を「常識」といい、法の「公序・良俗」も過去の正しさに基づく。
⇒「考え方が変わった」にも拘らず制度を変えなかった者は非難されるべきだが、座敷牢から精神病院に改善した者は評価されるべき。 -
浦靖宜ゲスト
なるほど
正義①の定義が正しいのだとしたら、中国が何しようが日本人のkibaさんが評価することはできないのではないですか?「自分(kibaさん)の存在する社会(日本)を維持する為の行動」とは関係ないように思います。それとも自分が中国人だとして考えた場合ということでしょうか?
またもし中国の対策でチベット社会が破壊されてしまった場合、チベット社会は「自分の存在する社会を維持する」ことができなかったため、チベット社会にとっては中国は極めて不正義ですが、いかがでしょう?社会は複数存在しますが、これらの間での正義はどうなるのでしょう?また国家の中にも小さな社会がありますし、宗教や民族、ビジネス関係などは国家の境界線を跨って存在する社会ですが、そうしたものとの正義はどうなるのでしょうか?また人類社会という今のところ最大規模の社会についてはどうなるのでしょう?またもし「自分の存在する社会を維持する為の行為」に核の保有や奴隷制の復活が有効だと判明した場合、全ての国がそれを採用すべきでしょうか?
かつて第三帝国ではユダヤ人虐殺に関わりたくないなどの理由で脱走した兵が万単位で死刑になりました。虐殺したくないという思いは各兵士の善で、脱走兵は「自分の存在する社会を維持する為の行動」を取らなかった=不正義の為、死刑になったことになりますが、このような理解でよろしいでしょうか?この場合、善と正義が対立する場合ですが、善を為した脱走兵や正義を為した第三帝国はどうすべきだったのでしょう?(もちろん私はユダヤ人虐殺が正義だとは思いません。それが本当に第三帝国にとって「自分の存在する社会を維持する為の行動」だったとしても、そして実際に第三帝国の定義上、それが本当に「自分の存在する社会を維持する為の行動」だったとは思います(第三帝国は定義上、アーリア人至上主義国家であり、ユダヤ人の存在を認めることはアーリア人至上主義国家の否定であり、その国家という社会を認めないことです)が、正義ではないと私は思います。
kibaさんは「公正(fairness)」は「正義(justice)」とどのような関係があると思いますか?
⑤に関してはkibaさんはそれでよいという考えでしょうか?
ここまで相対的だと、私たちは、「結局生き残る=社会を存続させるのに最適な行動はどれか」という戦略を評価することしかできなくなりますが、それでいいという感じでしょうか?また「化学兵器の禁止」など社会の存続の為ではなく、人道上の理由で決められた条約などは正義とは全く関係ないといった感じでしょうか?
そして結局生き残ったのが正しいことになっていませんか?
3
法の不遡及について
どうして法に限定するのでしょうか?
私(未来)がチャーチル(過去)を人種差別主義者だと評価することは法的な営みなのでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
⑤国家は不義に対し自国に影響があれば介入し、なければ無視し、都合が悪ければ見ぬ振りをする。個人は己の判断に従い行動すればよい。
これについては、正義①が正しいなら、「そもそも何で他国が、別の国の行動を「不義」と判定できるのか?彼らは彼らの正義でやってるんだから関係ないじゃないか。」という前の投稿の初めに述べた根本的な問題が発生します。 -
kibaゲスト
現在、正義はまだ「属人的・相対的な美意識」の様な物で、「普遍的・絶対的な真理」には至ってないと思います。
従ってある正義に同調した人が多ければその地域、その時代の正義になります。虚偽であれ錯誤であれ多数を占めた者の主張を採用するのが民主主義です。
中国の正義があればチベットの正義もある。人類の正義もあれば国家の正義もある。団体の正義や個人の正義もある。正義は無限にあり各々が時間・空間を共有しています。
正義が「社会を維持する為の行動」ならばその社会の正義と異なる正義を唱える個人を国家が迫害するのも当然だと思います。
逆にガリレオもドイツの脱走兵も己の正義に従って国家の正義に異を唱えました。
正義は人類の英知と神の見えざる手により「普遍的・絶対的な真理」への道を歩みつつありますが、まだまだ道半ばであります。1、kibaさんは「公正(fairness)」は「正義(justice)」とどの様な関係があると思いますか?
⇒浦さんが仰る「公正」と「正義」の定義は何なのでしょうか?
2、⑤に関してはkibaさんはそれでよいという考えでしょうか?
⇒まづ国益第一でしかる後に正義・善・美等を考えるのが順序だと思います。ただしその判断は「何年先まで見越すか・分野毎の利害の大小」をどう評価するかで異なると思います。
十字軍からベトナム戦争まで国家が正義を言い出すと、ろくな事にならないと思います。
3、「結局生き残る=社会を存続させるのに最適な行動はどれか」という戦略を評価する事しかできなくなりますが?
⇒先ず社会を存続させる行動を選択した後で正義・善・美等を考えるのが順序だと思います。更に打算に基づく行動は敵と妥協する事が出来ますが、正義に基づく行動は悪と妥協ができません。
4、「核の保有」「奴隷制の復活」「ユダヤ人への迫害」等について
⇒その国が正義だと信じ利益があると判断すれば実行するでしょうが、そうは思わない国が阻止すると思います。
5、「化学兵器の禁止」など社会の存続の為ではなく、人道上の理由で決められた条約などは正義とは全く関係ないといった感じでしょうか?
⇒人道上の理由という一つの正義が多くの国々の同意を得たのだと思います。残念ながら「核兵器禁止条約」にはまだ同意が得られておりません。
6、生き残ったのが正しい事になっていませんか?
⇒生物として最も優先すべきは生存であり、正義ではないと思います。光合成を行うバクテリア・植物以外は全て不義になります。(虫媒花を受粉する昆虫は正義の協力者?)
7、どうして法に限定するのでしょうか?私(未来)がチャーチル(過去)を人種差別主義者だと評価することは法的な営みなのでしょうか?
⇒法はその社会の持つ価値観・倫理観・美意識を纏めたものです。従って法を見ればその社会を容易に理解する事ができるからです。
8、そもそも何で他国が、別の国の行動を「不義」と判定できるのか?
⇒他国が別の国の行動を「不義」とするのはその行動が自国にとって「不利」だからで、「不義」は建て前として主張する場合が多いと思います。 -
浦靖宜ゲスト
1.については
何度が申し上げたとおり、
「正義」は各個人や各共同体の善を調停する為に作り出される一定のルールです。
「公正」は、簡単に言えば「ずるくない」ということです。
例えばお金持ちに生まれた子だけが高等教育を受けて、そうでない子よりも能力を高める機会が多くなるのは「ずるい」です。
なので、高等教育はお金の有無に関係なく、みんなが受けられるような制度にしましょう。みたいな感じが公正です。
「正義」は誰もがそれに従ってもらう必要があるので、そのルールが「公正」であることが不可欠です。
力のあるものが得するとか、多数者が得するというのは「公正」ではなく、それだけで「正義」に反すると考えます。 -
浦靖宜ゲスト
「現在、正義はまだ「属人的・相対的な美意識」の様な物で、「普遍的・絶対的な真理」には至ってないと思います。」
「正義は人類の英知と神の見えざる手により「普遍的・絶対的な真理」への道を歩みつつありますが、まだまだ道半ばであります。」kibaさんとしては一応「普遍的・絶対的な真理」には至れる、あるいはその可能性はあると考えているということでしょうか?
kibaさんが挙げた「正義」の定義「自分の存在する社会を維持する為の行動」から普遍に至る道があるのだとしたら、「正義」の定義を「人類を維持するための行動」にするしかない気もしますが、なかなかぼやんとしてますね。ちなみに私が先に挙げた正義の定義「各個人や各共同体の善を調停する為に作り出される一定のルール」もぼやんとしてます。
もしかしたらkibaさんはその辺にモヤモヤを感じているかもしれませんが、ぼやんとするのは当然のことで
なぜなら普遍的な正義の定義ができるのなら、人類はとっくにその正義の定義に従って粛々と理想の人類社会を作っているはずだからです。そして現実はそうなっていない。とりあえず誰もが共有できそうな正義を定式化するなら、上記のようなぼやんとしたものにならざるを得ないでしょう。
それでも結構いい感じの定式の仕方だと思いますけどね。
あと正義がなぜ大事かを述べれば、散々生き残ったもの勝ちを批判しておいてなんですが、生き残るためだと思いますよ。
正義を捨てて人類が生き残るのは不可能だと思っています。少なくとも文明は正義なしに生き残ることはできないでしょう。
協力なしに文明は維持できず、多様性なしに環境の変化には耐えられません。
文明が滅んでも部族社会は継続できるかもしれない。だったら部族社会も多様性として残しておいた方が生き残る率が上がる。
こう書くと随分打算的に見えますし、実際大きな視点から見れば打算なのかもしれませんが、個々人のここの判断は必ずしも打算ではないということが重要です。
経済学などでは「どんな行動も結局、それが自分の為になるから、そうしているんだ」とまことしやかに語られますが、絶対そんなことないでしょう。
個々人はそこまで賢くないですよ。なんかかわいそうだから。なんか間違っていると思ったから。で行動しているはずです。
人はやはりそれぞれの場面で何が正しいだろうか考えて生きているのだろうと思います。
そして大事なのは自分もそうだということですね。だから、「正義はそれぞれにある」とか「いや、正義は普遍的だ」と議論しても仕方ない気が今はしています。「目の前で差別されている人がいるけど、お前はどう思うの?」に答えることが大事なのじゃないかと。
正しさは普遍を志向するが、現実としては相対的である。
それを踏まえた上で、それぞれも問題について考えていけばいいと思います。 -
浦靖宜ゲスト
2.別にこれは順番とか関係なくて、全部ごちゃ混ぜに考えるしかないと思いますよ。そもそも「国益第一」と言っている時点で、「国益第一が正しい」という正義の言明になってしまうので。ちなみに私も基本的には国益を第一に考えていいと思っています。そして正義に反することはそもそも長期的には国益にならないと思っています。国益を重視して環境問題に取り組まなかった結果、地球に人類が住めなくなったら、国益も何もなくなるので、結局、人類にとって正しいことやるしかないと思います。国家が正義を持ち出してろくなことにならなかった事例はたくさんありますが、正義を無視して差別問題に対応しなかったり、貧困国に援助をしなかったりされても困りますね。現実的に大事なのは正しいことしたら良いことありますよって思わせることですね。
3.に関しても、正義とか善とかとは無関係な、純粋な社会を維持する行為が存在するようには思えません。結局同時に考えるしかないのではないか?「敵」の概念は良いですよね。私も「敵」は善悪関係なく「敵」なので妥協できる相手だと思い、このワードを引っ張ってきました。
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浦靖宜ゲスト
4.これは具体的な話なので、自分の考えをいうと
核保有は将来的にはなくした方がいい。現状難しいとも思いますが、最終的にはなくすという目標を捨てるべきではないと思います。奴隷制復活やユダヤ人虐殺は完全に不正義で、それを正義と思う人は間違ってるし、彼らにも別の正義があるんだと言われても、知らんですよ。訂正してもらうしかないでしょう。最終的には力づくで。
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浦靖宜ゲスト
5.
正義も捨てたものではないでしょう? -
浦靖宜ゲスト
6
はkibaさんの⑤に対するコメントでしたね。要は
kibaさんは「国家は不義に対し自国に影響があれば介入し、なければ無視し、都合が悪ければ見ぬ振りをする。個人は己の判断に従い行動すればよい。」で良いと思っているのですかということです。私は日本がそんな態度とったら嫌ですよ。個人については、判断と行動は自由にすべきだけど、ちゃんとやったことの責任はとれよって思いますね。悪いことしたり、悪い結果になったら非難されて当然です。 -
浦靖宜ゲスト
7.
でも「法の不遡及」の「法」は実定法のことですよね?
「私(未来)がチャーチル(過去)を人種差別主義者だと評価すること」を「法の不遡及」により間違っていると言われても、そもそも私は法律でチャーチルを裁いているわけではないので、よくわからないことになっていると思いますよ。もしも本当に「評価する」という行為も「法の不遡及」で反論できると考えているのなら、それは「法の不遡及」を拡大解釈しすぎです。「倫理観の不遡及原則」があるのならいいですけど、そんなのないでしょう?kibaさんはあるべきだと主張するかと思いますが、であれば、それ専用の理屈を作らないといけません。なぜ倫理観は不遡及でないといけないのか。私は過去の人をどう評価するなんて自由だと思いますけど。 -
浦靖宜ゲスト
8.
私にとっては建前でも「不義」と主張する必要があるとその国が感じていることに希望を感じますよ
だって本当に正義も何もどうでもいいなら、そんな言葉遣いする必要もないじゃないですか。
「気に食わないからぶっ潰す」でいいはずです。
それを「相手に不義があるから」って建前でもいうのは、「正義」に価値がある(少なくとも周りはそう思っていると、その国は考えている)からでしょう。しかもその「正義」は「自分の社会の維持」などという狭い正義じゃなく、より広い範囲の正義のはずです。(なぜなら建前でも相手に「不義」があると言えるためには、自分も相手も同じ「正義」を共有しており、それを相手は踏みにじったと言えないと、相手の「不義」を責めることにならないから。つまり「不義」は「正義」の共有を前提にしています。「正義はそれぞれだ」だとそもそも全く正義の意味がなくなっちゃう気がするんですよねえ) -
浦靖宜ゲスト
7「私は過去の人をどう評価するなんて自由だと思いますけど。」
という私の発言はよくないですね
そういう話をしているわけではない。
もちろん原則自由だけど、評価の仕方の良し悪しはあるわけで。 -
kibaゲスト
浦さんは寸暇を見つけて書き込みをされている様で恐縮です。
妻に「浦さんと討論を楽しんでいる」と話すと、「新婚さん相手に何って事するの、奥さんに恨まれる」と叱られました。
私は暇なので時間が取れますが、浦さんはどうか家庭第一でお願いします。1、 力のあるものが得するとか、多数者が得するというのは「公正」ではなく、それだけで「正義」に反すると考えます。
⇒私もその様に思います。しかし万人が納得する「公正」「正義」を見つけるのはとても困難です。平均にも相加平均・相乗平均・調和平均・対数平均など様々な平均があります。
1、kibaさんとしては一応「普遍的・絶対的な真理」には至れる、あるいはその可能性はあると考えているということでしょうか?
⇒無限に続く永遠の道でしょうが、歩み続けてほしいと思っています。
1、「正義」の定義を「人類を維持するための行動」にするしかない気もします。
⇒人類に限定せず、動物や生物としての正義もあると思います。
1、正しさは普遍を志向するが、現実としては相対的である。
⇒私もその様に思います。
2、現実的に大事なのは正しいことしたら良いことありますよって思わせることですね。
⇒私もその様に思います。
3、「敵」の概念は良いですよね。私も「敵」は善悪関係なく「敵」なので妥協できる相手だと思い、このワードを引っ張ってきました。
⇒使い勝手の良い言葉だと思います。
4、核保有は将来的にはなくした方がいい。現状難しいとも思いますが、最終的にはなくすという目標を捨てるべきではないと思います。
⇒私もその様に思います。
4、訂正してもらうしかないでしょう。最終的には力づくで。
⇒やむを得ないと思います。
5、正義も捨てたものではないでしょう?
⇒大義名分の旗印として、とても有効だと思います。
6、「国家は不義に対し自国に影響があれば介入し、なければ無視し、都合が悪ければ見ぬ振りをする。個人は己の判断に従い行動すればよい。」で良いと思っているのですか。
⇒国家がまやかしの正義を唱えて変な行動をするよりは明確で判断し易いと思います。次善の策なのかもしれませんが。
⇒個人の行動については「自ら反りみて縮くんば、千万人といえども吾往かむ」で良いと思います。
7、なぜ倫理観は不遡及でないといけないのか。
⇒①チャーチルを人種差別主義者だとする評価が間違いとは思いません。
②「考え方が変わった」にも拘らず制度を変えなかった者は非難されるべきだが、座敷牢から精神病院に改善した者は評価されるべきと思います。
③韓国の様に過去の大統領の全てを断罪するのは行き過ぎだと思います。
④正義は「属人的・相対的な美意識」が私の主張ですので、浦さんの主張も尊重します、
8、「不義」は「正義」の共有を前提にしています。「正義はそれぞれだ」だとそもそも全く正義の意味がなくなっちゃう気がします。
⇒中国が「自分もチベットも同じ正義を共有している」とは思っていないと思います。「チベットの農奴制を力づくで訂正した正義」であると主張しています。 -
浦靖宜ゲスト
仕事の行き帰りや、休憩時間に応えることが多いので、大丈夫ですよ
夜中の返事は連れが寝てからですし8については
中国とチベットというより、中国と日本のような他国が同じ「正義」を共有してると考えないと正義の意味がないということですね
わたし達が中国を正義に反すると主張できるのは、中国も日本も「信教の自由は基本的人権として守られるべきである」という正義を共有していて、中国がそれを破っているように思われるからです。(中国も表向きは信教の自由を認めているはずです) -
kibaゲスト
「中华人民共和国宪法(2018修正)」の第一章 第一条には中国共産党による指導が明記されております。
また、宪法序言に於いても「中国共产党领导」の言葉が4回も繰り返し強調されています。
宪法36条には「何人も宗教を利用して社会秩序の破壊、国民への健康被害、国家教育制度への妨害をしてはならない。宗教団体は外国の支配を受けない」とされています。
中国が認めている信教の自由はあくまでも「中国共产党」の指導下においての自由で、基本的人権ではありません。
憲法よりも「中国共产党」の指導が優先するというのが中華人民共和国の正義です。
従って、『中国も日本も「信教の自由は基本的人権として守られるべきである」という正義を共有している』とは言えないと思います。 -
浦靖宜ゲスト
もちろん、その通りで、中国と日本や他の先進とでは信教の自由の実質は全く異なります
とはいえ「信教の自由」という建前は取っているという点が私が重視したい点です
あるいは一応、「憲法」を用意しているという点が。
中国共産党の当初の考えでは、憲法や信教の自由なんていらなかったはずです。
「党の指示に従え。宗教は阿片だ」以上終了。
でも、そうはなっていない。
「何人も宗教を利用して社会秩序の破壊、国民への健康被害、国家教育制度への妨害をしてはならない。宗教団体は外国の支配を受けない」という文言も、私たちのようにそれなりの教育を受けた人からしるとヤバイ臭いがプンプンしますが、多分その辺の日本人にこの文言どう思う?って(中国の憲法という点を伏せて)訊いたら、「そりゃそうじゃないの?オウム真理教とか嫌だし」と応えるくらいにマイルドにしていると思います。(もちろん何をもって「社会秩序の破壊」や「国家教育への妨害」になるのかは当局が恣意的に決められるのでとても恐ろしいのは重々承知していますが)何が言いたいかというと、中国にとって憲法も信教の自由も、中国が近代国家として国際社会に認めてもらう為の妥協の産物であり、ならもっと妥協を引き出すことは可能だということです。妥協しないとまずいというくらいには、私たちと正義を共有していると判断します。(中国当局は打算で妥協しているのであって、必ずしも正義を共有しているわけではない可能性が高いですが、そんな相手の本当の気持ちとか考えても仕方ないので、彼らは私たちと正義を共有していると勝手に判断して行動するのが良いと思います)
大日本帝国においては信教の自由は不十分でしたが、それも改善されました。(戦争で負けたからですけど)とりあえず建前は用意してくれている。その建前を少しずつでも広げ、また実質も確保していけるよう働きかけるのが重要だと思います。宗教については、バチカンとの関係も改善の方向に向かったり、儒教が見直されたりと、これも当局の都合によりですが、以前よえいだいぶ緩やかになっているのではないかと思います。
甘いかもしれないですけど、大きな犠牲を出さずに改善を促すにはゆっくりやるしかないかなと思います。 -
kibaゲスト
毛沢東の「政権は銃口から生まれる」をモットーにしている中国共産党に対し、どれだけの効果があるかは疑問です。
しかし、5000KMも離れているチベットの為に中国に楯突く事ができない日本としては、大人の考え方かと思われます。 -
浦靖宜ゲスト
あと中国は国連の常任理事国でもあるので、国際法の手練れでもあります。なかなか大変な相手です。
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kibaゲスト
彼らは私たちと正義を共有していると勝手に判断して行動するのが良いと思います。
⇒彼らは力の論理に従っていると勝手に判断して行動するのが良いと思います。
「大工と話すときは大工の言葉を使え」が良いと思います。
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浦靖宜ゲスト
たとえ中国が力の論理で動いていようと、こっちは正義などの理屈で動くべきであり、中国もそれに乗るように仕向けるべきだし、現に中国も基本的にはそれに乗ってます。
単に武力で全てが決まるでいいなら、強い奴がいくらでも侵略していいことになります。そんなの特に強くもない日本やその他大勢の国々は認められないですよ。
私は絶対に力の論理で話をしてはいけないと確信しています。勝ち目のないゲームをする意味などないでしょうし、そもそも勝ち負けの話にすべきでもない。負けたら国が滅ぶし、戦えば間違いなく負ける。だったら力の論理にそもそも乗るべきではないですよ。
力の論理に持っていこうとすること自体を不正義として非難する
「力による現状変更は一切認められない」これだけは是が非でも堅持すべきです。そしてほとんどの国家は大国ではないので、この点については同意を得られているはずです。 -
kibaゲスト
たとえ中国が力の論理で動いていようと、こっちは正義などの理屈で動くべきであり、中国もそれに乗るように仕向けるべきだし、現に中国も基本的にはそれに乗ってます。
⇒中国(世界殆どの国)は国際的に認知された正義ではなく、「己の正義+力+利害」で動き、日本の手前勝手な希望・思い込みで動いてない事を冷徹に認めるべきだと思います。
⇒日本は正義の旗印を掲げ大多数の国の支持を集め、中国が「戦っても敗れる、勝っても損害が大きすぎる」と思わせる体制を構築すれば中国は国際的な正義に同調すると思います。
⇒「右手で握手し、左手にはナイフ」が交渉する場合の原則です。ナイフなき交渉は歎願にすぎません。でも、日本はその様にして真珠湾を攻撃したのですが・・・・。 -
kibaゲスト
浦さんが出会いの広場に来られた時に『出会いの広場にようこそ!今まで、夜中に人気のない街で吠えている野犬の様な気がしていました。
これでやっと賑やかになりそうです。外出自粛の日本で侃々諤々の議論を楽しみましょう。』と書き込みました。
しかし吠え方が過ぎたようです。慎みたいかと思います。 -
浦靖宜ゲスト
そうですね。私の方は「出会いのひろば」という場の意味を省みずに、私的な遊び場として好き勝手しておりました。深く反省いたします。
kibaさん、お付き合いいただきありがとうございました!木岡先生、趣旨を取り違えた投稿の数々、申し訳ございませんでした。
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