- このトピックには2件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 5ヶ月前に更新されました。
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浦靖宜ゲスト
前回のスレッドの木岡先生の答えを拝読して、アナロギアの概念についてもっと勉強する必要を感じました。
私はクリスチャンではないので、アナロギアの概念よりも、スピノザの「神即自然」の方が魅力を感じます。
スピノザは「無神論者だ」と非難され、実際、それに近い気がしますが、でも下宿の女将さんにはちゃんと教会のミサに行くように言っていたエピソードが好きですね。プラグマティックで。私はしばしば、宗教を「それを信じて生き方が変わる宗教」と「それを信じても生き方が変わらない宗教」という分け方で考えることがあって、
スピノザの『エチカ』は後者ですね。信じても信じなくても、一緒。信じても一向に不都合がない。
カルヴァン派の予定説も後者ですね。だって全部神様が事前に(←こういう言い方が有効化どうかも不明ですが)、決めてしまっているのだもの。普段通りに生きていけば問題ないですよね。神社に初詣に行くとしても、それは神が決めたこと。地獄に落ちたとしても、それは私がどう生きようが(それ自体が決められていたのだから)関係ないこと。
にもかかわらず、みんな生き方変えて勤勉になったっていうんだから不思議なものです。(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムと資本主義の精神』)仏教も「今この瞬間は全部縁起で定まってます」という世界観は信じても、信じなくても一緒の感じがします。
まぁ仏教を信じる場合は、仏の教えに従えば、自分も縁起の網の目から抜け出すことができると信じ、修行しなくちゃいけませんが、それは来々々世くらいの自分が頑張ることにすれば、今回の人生においては特に生き方を変えなくてすみます。何が言いたいんでしょう?なんとなくぼんやり浮かんだまま書いているのですが。
決定論的なものの見方は、そんなに怖いものでもないよということでしょうか?(仏教は厳密には決定論ではないですが)
私は自由主義者ですけど、内心、別に世界が決定論的でもそんなに困らないとも思っていますが、変でしょうか? -
浦靖宜ゲスト
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』→『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
倫理が抜けてました。『プロ倫』ですね。 -
浦靖宜ゲスト
最近はすっかり、決定論者のような態度をとっている私ですが、
昨日、SF作家テッド・チャンの短編集『息吹』の中の最初の短編「商人と錬金術師の門」を読んだら、それはタイムトラベルもので、しかも過去も未来も決定されており、それらをタイムトラベルで変えようと思っても変えられない。というよりタイムトラベル自体が織り込み済みの時間軸であるというお話でした。ずいぶん私好みのお話だなと感じました。
『メッセージ』というタイトルで映画化された彼の短編「あなたの人生の物語」(『あなたの人生の物語』所収)は主人公の時間感覚が変わる話で、主人公の最後の選択もとても好きで、お気に入りの小説ですが、私が決定論に好意的なのも、そうした作品に触れてきたからなのかと思いました。
特に2000年代に入ってからは、(特に日本では)アニメ版『時をかける少女』や『魔法少女まどかマギカ』『僕だけがいない街』など結局過去や未来は変えられない、あるいは仮に変えられたとしても、別の何かを断念せざるを得ないみたいな作品が多く作られるようになりました。普通にそういう作品に影響を受けてるからなんだろうと、昨日の小説を読んで振り返りました。
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