- このトピックには26件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 5ヶ月前に更新されました。
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kiba1951ゲスト
kibaは以前に「再生医療」のワークショップに参加し、加藤和人(大阪大学大学院医学系研究科)教授の御講演をお聞きしました。
加藤教授は科学者として真摯に研究に取り組まれ、その態度には強い感銘を受けました。
今社会の関心はIPS細胞・遺伝子とAI・ロボットに集中しております。
また、世界では生命科学での覇権・利益を求めて何でもありの国もある一方で、過度の宗教的制約も存在します。
大学・企業人の講演はどうしても「HOW」に偏り、「WHY」「WHAT」が欠落します。
尤も理系研究者としては当然で、むしろ生命科学に対する人文科学者の無関与が問題だと思います。
「IPS細胞・遺伝子」への興味は「生命の根源」に対する疑問であり、「AI・ロボット」への興味は「魂・自我」に対する疑問と言えます。
「神の領域」である生命科学に対し最適の政策を採るには現実論(過去の推移・そろばん勘定)に加え、理想論(本質論・目的論)が不可欠だと思います。
其の為には宗教者・哲学者・法学者・歴史学者・人類学者等の関与が必要であると思います。
加藤先生も宗教者や哲学者の生命科学への関与については大きく期待されておられました。
「テクノロジーの問題⑤」に於いて浦さんがこの問題に対し一つの考えを提示されました。
この問題は「AI・ロボット」と並ぶ大きな問題ですので、別トピックを建てて論議しようではありませんか! -
kiba1951ゲスト
生命科学は最新の学問領域であり、その工学的進歩には目を見張るものがあります。
従って生命科学においては常識や中道なるものはまだ形成されておらず、研究者も右往左往しているとの事です。
この出会いの広場に集まった人々が喧々囂々・侃侃諤諤の論議を繰り広げる事で何がしかの貢献がなされたらと思います。
議論のあり方として100人が同じ考え方を述べるよりも、10人がそれぞれ異なった意見を開陳する方が有意義だと思います。
過去の常識に囚われない斬新で想像力を極限まで広げた論議が出来たらと思います。
木岡先生も「 私のモットーとする対話は、一つの合意に収斂しない、言いたい放題の対話」と仰られています。 -
浦靖宜ゲスト
ちなみに私が提起したのは、「例え倫理的に問題のある技術(遺伝子操作など)で生まれた命であっても、それが生まれてしまった以上は命を肯定せざるを得ず、その技術もまた事後的に肯定せざるを得ない」みたいな議論です。そして、もしそうした技術が盛んとなった未来人から僕らの生命倫理の議論を聞いたら、なんて反倫理的に聞こえるだろうかという想定をしてみました。
最近はこういう投稿ばかりなので、一応バランスをとるために、私なりにそうした技術の倫理的な問題点を述べると、私がそうした技術に最も問題を感じるのは、それが偶然性を排除する方向に親和性が高い点です。技術なので偶然性を排除するのは当然なのですが。
我々が一応、男女平等だと思えるのは男とか女とかがランダムに生まれるからです。
もし技術的に男ばかりを増やすことが可能なら、男性優位な社会では、男性を作る方が優位なので、みんな男性ばかりを作り、女性が少なくなり、ますます男性優位が強まります。最終的には女性は、次の世代を生み出すための道具に堕ちるでしょう。優生思想って感じですね。ロールズの無知のヴェールに近い発想ですが、とにかく物理的に誰に生まれるかわからないから、みんな平等に扱おうということに意味が出てくる。
生命を操作する技術はそれを毀損する可能性があるので、危険なのです。その危険性はちゃんと認識しておかないとまずいです。私も結構、常識人なんですよ(笑)では、私は明確に生命操作に反対なのかといえば、曖昧な立場です。
やっぱりそれで生まれた存在について考えざるを得ない。それを無視できるのは無神経だと思います。人の気も知らないで・・・って感じです。違うケースを考えれば
例えばハンチントン舞踏病という遺伝性の病気があります。優生遺伝子によるこの病気は、その遺伝子を持つ人間は40代ごろに確実に発症に、確実に死ぬ病です。優生遺伝なので、子供がその遺伝子を受け継ぐ確率は50:50です。親が発症した時に、子供は遺伝子検査すべきかどうかとか、その検査結果を保険会社に伝えるかどうかとかという話がもう倫理的に難しい話ですが、例えば親がその病気を発症して、自分も調べたら、将来発症するとわかったとする。でもどうしても自分の子供が欲しい。今の技術であれば、病気を発症させる遺伝子を持たない受精卵を選別することが可能である。という時に、彼らがその技術を用いるのを責めるのは非常に難しいと感じる。
なので、肯定せざるを得ない局面は出てくるんですよね。 -
浦靖宜ゲスト
生命科学に話を戻せば、私はやっぱり、生命とは何かという問題に迫っていって欲しいなと思います。哲学的な興味はそこですね。
そのためにはDNA以外でできた生命を発見して比較検討を・・・
と考えるのですが、それは今は無理なので。
再生医療で考えれば、そもそもなぜ私たちの体は再生しないのかが本当は謎なんですよね。
普通、生物は壊れた部分が再生するようにできています。蜥蜴のしっぽがわかりやすいですけど、僕らも爪や髪は切っても伸びるし、肌が傷ついても、瘡蓋ができて、剥がれたらも元に戻ってます。生物はコピーや再生が通常なんですよね。にもかかわらず、腕とか切断したら、生えてこない。全然、首尾一貫してなくて理不尽です。原理的になぜそうなのかはまだよくわかってないんじゃないでしょうか。僕たちが有性生殖となり死ぬようにできていることと関係あるのかもしれませんが(テキトーに言ってます)あるいはある一定の潜在性を発揮する条件が異なるのか。種という概念もよくわかってない。
何を持って違う種とするのか。
交配ができるできないという分け方がよくされますけど、それはそもそも無性生殖生物をガン無視ですからね。そんなんじゃダメなはずなんですよ。
まあ全部DNAなんで、その組み合わせのグラデーションを人間が勝手に分類しているだけというのが正解なのかもしれませんが。生命科学に、宗教者がどう関わるか
生命操作の観点では、キリスト教やイスラム教は拒絶しそうですね。神の似姿を作っていいのは神だけですし。
仏教的にもアウトですね。そもそもこの世に生まれてきたこと自体が誤りというのが仏教の前提ですから。奴らにとっては何もかもがアウトですよ。とはいえ生まれてきたことはそいつの業でなるべくしてなっているんだから、まあ現世でがんばって来世に期待しろって感じでしょうか。
原理的にはそうですが、がちの臨床の現場で(例えばさっきのハンチントン舞踏病のケース)とかで、患者たちに何かを語り、心を救う努力を宗教者はするべきだと思いますし、語れることはあると思いますよ。 -
浦靖宜ゲスト
人間に生命は作れるか
ロボットで人間を作れるかこの問題について私見をいえば、私は石黒氏や池上氏に軍配が上がる可能性が高いのではないかと考えています。
別に彼らの人間観や生命観が正しいと思っているわけではないですよ。
それは木岡先生を始め、たくさんの哲学者が述べていることです。とは言え、なんだかんだ言って、僕らの意識やら感覚やらは脳神経の回路や肉体との関わりで生まれていることは事実ですよね。
とても複雑だとは思いますが、様々な機械の組み合わせで、僕らのような意識が発生しないとどうして断言できるでしょうか。
近い将来にできるとは思いませんし、人類が絶滅するまでにそこまで行くかどうかも微妙ですけど、可能性がゼロだとも思えません。
人間の肉体と機能的に全く同じ仕組みをもし人工的に作ることができたら、それは人間ですよね。人間かどうかは別にしても意識とか自我とかはありそうです。何のメカニズムで意識が発生しているのかはわからないとしても、とりあえずめっちゃ正確に真似て作ってみたらできた、みたいなことは考えられなくはないかなと思います。
「めっちゃ正確に真似る」が怪しい表現ですがね・・・。それが可能ってことはメカニズムを理解しているからではないのか・・・。 -
kiba1951ゲスト
浦さんが色々と書かれましたので先ずは簡単な感想を。
現にそれが起こってしまったら、「お前の存在は倫理に反してる」なんて言えないので、そうなった時の倫理を考えざるを得ない
①倫理自体が時代の流行の反映だと思いますので、古今東西・状況の如何を問わない倫理はとても少ない様に思います。
②以前の雪山登山と同様に「怪しからん想定外」が実現してしまった時の対応を問われており、平時に考えておくべき事かと思います。今の黒人とか先住民の人達が、大航海時代の宣教師達の「アボリジニーは人間か?猿か?」みたいな議論を見ると怒ると思うんですよね。
①ローマ教皇ニコラス5世は人間と認めた上で、奴隷として良いと言ってるようです。
教皇ニコラス5世がポルトガル王アフォンソ5世に出した勅書には「サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、
彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を ① 終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与する」とあります。
②大航海時代の宣教師達は人間と認めず、人型動物としている様です。完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかかる。これが〈かた〉に相当する。その理念・方針に沿って、試行錯誤する(つまり、〈かたち〉をつくっていく」
白状しますと木岡先生の仰る<かた>と<かたち>の主張自体が私には今一つ良く理解できません。人民が自由に声を上げる事ができる事は大事だけど、政治が人民の声を常に聴く必要はないと思っています。それではただの衆愚制です。
①しかし、不思議な事に選挙で選ばれた大統領はその時代が求める人物である様に思えます。トランプ・レーガン両大統領
②個人は愚でも国民全体の智の合力は賢となるのでしょうか?インターネットやらスマホやらドローンやらロボットやらは目的と手段がちゃんと結びついた形で開発され、ちゃんと目的どおり人を殺してきた
①仰る通りです。
②「過去を分析して理論付けできても、将来の事など判るか」従って「希望と勇気を持って暗闇を進め」なのでしょうか?ロボット・人工生命の類が、将来的に意識をもって人間批判をする事は原理上、絶対にありえない。
石黒氏や池上氏に軍配が上がる可能性が高いのではないかと考えています。
①「世の中に絶対などという事は絶対ない」が私の信条です。
②同感です。ハンチントン舞踏病
①「孟子は、王は牛を直接見ることで憐憫の情が生じた。一方、王は羊を直接見なかった。だから犠牲にできた。」との記述を思い出しました。
②患者の苦悩を目の当たりにする医師と、優生学による民族の向上を図ろうとしたヒトラーの立場の違いでしょうか? -
浦靖宜ゲスト
未来人の倫理が本当に正しいのかもわからないですよね・・・。
私は相対主義的、多元主義的に考えがちなので、異なる世界観、時代、地域に生きている人々ごとに倫理観が異なるのは当然であり、どこか一つの倫理観が特権的に真理の座に座ることはあり得ないと思っています。
異なる倫理観を有するものたち同士が出会ってしまったなら、なんとか折り合いのつけられるところはつくように、二つの間で新たな倫理を創出するしかないでしょう。ロールズの重なり合う合意みたいなことをやっていくしかないのではないかと思っています。
未来人とは出会うことがあり得ないので、そこまでする必要はないですね。想像はすべきと思いますが。
過去人とは記録を通して出会うことができるので、関わり方は未来人よりも具体的になるでしょう。「完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかかる。これが〈かた〉に相当する。その理念・方針に沿って、試行錯誤する(つまり、〈かたち〉をつくっていく」がkibaさんはよくわからないということですが、
私もエッセイ「テクノロジーの問題(5)」コメントで誤読をしたわけですが、
わかりやすくするために、具体的な例を挙げるなら、作曲とかがいいのではないかと思います。
交響曲を作曲するとき、作曲家は頭の中にある程度完成形〈かた〉があってそれを譜面に落とすとします。交響曲は一定の型がありますしね。
ところが、いざそれで演奏して見ると、とてもじゃないが人間業ではできないとか、この楽器ではその音色はそもそもでないとか色々な制約が出てきます。実際、作曲家は奏者に「これってそもそも可能?」って聞くみたいです。
そうなると当初の頭の中の譜面を修正せざるを得ない。
あるいは逆に、実際に演奏してみて、逆にこう演奏した方が、元々の理想〈かた〉に近い、あるいは元々の〈かた〉とは少しずれるがとても良い、みたいな気づきを得られる可能性もあります。
そうした妥協と気づきを繰り返しながら、壮大な交響曲〈かたち〉を作っていく。それは時として、従来の型を超えた交響曲になっていることもある。これが〈かた〉と〈かたち〉の相互媒介による開発だと思います。確かに武芸や昔ながらの職人仕事であれば、結構理解しやすいのです。
ただ現代の技術に応用すると想像が難しいという気がする一方で、そもそも例えばプログラミングとかは結構職人技なので、実はハイテク産業も普通に似たようなことをやっている可能性があるような気もします。あいつら「禅(Zen)」とか好きそうですし(苦笑)(正直、奴らの禅好きには問題あるなと思いますが)
もし既にハイテク産業に木岡先生の論理を理解する素地が既にあるのなら、それを僥倖とすべきか、それとも逆に〈かたちの論理〉も暴走するということなのか・・・衆愚制については、私も「個人は愚でも集合知が集まれば・・・」、みたいな考えをしてましたが、
最近は個々人の方はちゃんと話し合えば通じ合えることが多いけど、集団になると途端にダメになる気がしています。
コロナ自粛も、「自粛、自粛っていうけど、末期癌とかで今年が最後のチャンスって人もいるんだから、そこは各自の事情を踏まえて判断すべきだよね」みたいな議論は個々の人とはできますし、相手が異なる意見でも、一応理解は示してくれますが、相手が集団になるともう無理って感じです。空気読み合って集合痴になるというか。
トランプ大統領は衆愚制の象徴ですね。今のアメリカは衆愚制だと思います。国民感情にそのまま応えてくれる人間を政治家にすべきではないですよ。むしろ僕たちが感情的になってしまった時、例えば「もうあの国は許せない!戦争だ!」と国民感情が高まったときに、「まあ、気持ちはわかるが」となだめつつ、粛々と戦争にならないよう交渉していくのが政治的リーダーのあるべき姿でしょう。国民の多数派の意見が正義とは限らないですから。憲法とかもそうですけど、僕たちはいつでも愚かな存在に成り下がるので、成り下がった時でも最悪の判断はしないように、自分を縛っておくべきです。人民の言うことを聞かない政治家もその機能の一つです。もちろん人民の言うことをそもそも封殺するのは良くないですし、政治家が人民の言うことを聞かなかったことは人民が知れるようにすべきですが。(なので中国のような政治体制は支持しません。人民を無視できるのは羨ましいと思いつつ。)ただ民主制は我々が愚かな時に選挙が行われると、愚かな政治家が選ばれてしまうので、なかなか脆いとは思います。「②「過去を分析して理論付けできても、将来の事など判るか」従って「希望と勇気を持って暗闇を進め」なのでしょうか?」
分析もできるならしたらよいと思います。人権とか価値観を持って進むことが大事かなとは思います。ただ価値観そのものが変容させられる可能性はあります。希望と勇気もあった方がいいでしょう。(なんか普通ですね。。。)「ロボット・人工生命の類が、将来的に意識をもって人間批判をする事は原理上、絶対にありえない。
石黒氏や池上氏に軍配が上がる可能性が高いのではないかと考えています。」
人工生命はわかりませんが、石黒先生がロボットに意識を持たせることはないだろうとは思います。あと「人間批判」までする「意識」は相当「意識高い系」なので、人間でもそんな高い「意識」を持った人はそうそういないと思います。虫とか動物とか人間とかが共通に持っているであろう「意識」が人工物に発生するかもしれないという意味で、石黒氏、池上氏に軍配が上がるかもと思っています。人工物に意識があると判別するにはどうすればよいかが、もう哲学的に難問って感じですが。なんか生きているように動いている対象物に意識があるかを判別することをあまり人間はやってきていないはずです。どれくらいのレベルの生物だと意識があることになるんでしょうね。②患者の苦悩を目の当たりにする医師と、優生学による民族の向上を図ろうとしたヒトラーの立場の違いでしょうか?
私個人としては、技術は開発されていくものなので、大事なのは使い方をどう制御するかだと考えています。技術開発の暴走も怖いのかもしれませんが、本来とは異なった目的で技術が悪用されることの方が多いのではないか。今日、ルワンダ大虐殺に関わった人物がたまたま逮捕されたようですが(タイムリーですね)、棍棒だって使い方を誤れば、100万人を殺せます。
何事も教育が大事だと思いますよ。人権意識がそれなりにあれば、いきなり「生命操作技術で最強の子孫作るぜ!」みたいな馬鹿なことは考えないでしょう。ただ個人はそう自制できても、ナチスドイツのように、集団が自制できるのかという問題があるので、衆愚制の問題に帰ってきそうですね。それも教育が大事だと思いますけどね。 -
kiba1951ゲスト
「テクノロジーの問題」①~⑤を通して読んでみて、やっと木岡先生の話の全体像が判りました。
今まで私は一月分の話から自分が理解できた処だけを取り上げて批判していた気がします。
でも、全体を一度読んだ限りでは「欲望ー大量生産ー二元論ー型&形」の論は「風が吹けば桶屋が儲かる」論ではないのかとの印象を受けました。
しかし、もう数回読んでみたいと思います。 -
kiba1951ゲスト
昨年12月に国立民族学博物館准教授:松尾 瑞穂 氏の「身体を媒体とするエコノミー インドにおける代理出産」に行きました。
日本で子宮障害等で不妊となっている女性は20万人余だそうです。
近年、不妊夫婦によるインドでの代理出産が増えていたそうです。
2012年7月の国連発表:インド全土に3,000以上の不妊治療クリニックと、4億ドル以上の代理母出産ビジネスとなっている。
中心はグジャラート州アナンド市で料金は2~3万ドル(アメリカの1/10)ですが、代理母には3千ドル程しか渡されないそうです。
方法は妻の卵子と夫の精子を体外受精し受精卵を代理母の子宮に移植するか、夫の精子と卵子ドナーが提供する卵子を体外受精させ、その受精卵を代理母に移植して赤ちゃんを出産させるのだそうです。
講師の方は関係者の証言として以下を挙げられました。
卵子提供をする女性:子供と自分が繋がっている?そうは思わない、自分と似ているとは思わない。
代理母:子供が出来ない人達に命を与えた。良い事をした。何時か自分にも良い事が帰って来るだろう。
受精卵を移植した女性:自分と子供が似て居るかは気にならない。子供が何処から来たかよりも、子供がいる事が重要。
しかし、2015年10月末にインドでの外国人向けの代理出産を禁止されたそうです。
実は日本でも諏訪マタニティークリニックの根津八紘院長が、日本国内初の代理母出産を実施し2001年5月にこれを公表しました。
2008年4月5日時点で根津医師が公表したものだけでも15例あるそうです。
上記について皆様はどの様に思われます? -
浦靖宜ゲスト
民博の研究者が代理出産の研究をしているのは面白いですね。
おそらく単純に生命科学における倫理に関する議論というよりも、インドという風土では、そうした技術がどのように受け入れられているのかを調査、考察しているのでしょう。著書もあるようなので、機会があれば取り寄せてみようかなと思います。
これは勝手な推測なので、間に受けないでいただきたいですが、おそらくインドではまだまだ女性は子供を産むべきであり、それができないのは女性として劣っているという考え方が根強いのではないか(そうでなかったらすみません)。そこにはヒンドゥー教やカースト制に代表されるようなインドの世界観が複雑に絡んでおり、そうした風土に現代の科学技術が出会った時にどういうことになるのかという現地調査として興味深い研究ではないかと思います。なんとしてでも自分の子(自分の遺伝子は無理でも夫の遺伝子だけでも)を残さないといけないのであれば、代理出産は喜ばしい技術でしょう。
技術をどのように受け入れるか、使っていくのかは、まさに各地域の風土に合わせて決められるものであるわけで、とはいえ、そうした決められ方が本当に正しいのかというと微妙ですね。女性蔑視の側面もあるわけですし。
日本における代理出産とでは、当事者の考え方が異なるだろうとは思います。
インドの当事者は産みたいというより、産まねばならないというインド的風土の規範として代理出産を使う。
日本の当事者は養子ではなく自分の子がどうしてもほしいから代理出産を使う。これも現代日本の風土なのかもしれません。昔は養子縁組でよかった気がしますが。江戸時代とか。
単純な分け方ですが、そうした違いはあるのではないかと思います。あと代理出産とかの難しい問題はお金ですね。
負担の大きいことなので、代金はちゃんと支払われたほうが良いと思う反面、値段の違いが生命の価値に結びついてしまう危険性はあります。
代理母はまだ母体を提供するのみなので、統一できそう(代理母の年齢に応じて値段に差がつけられそうですが)ですが、精子とか卵子になると、遺伝子の内容に応じて値段が変わるみたいなことはありそうです。あと生まれてきた子に障害があったとかいった場合は、どこがどう責任をとる立て付けになっているのでしょうか。そもそも責任取るべきかも難しい問題ですが・遺伝子とか生命科学的なものは無償で提供するのが原則みたいになっていることが多いですが、とはいえ、俺の遺伝データを勝手にタダで使われていくのもなぁという気もしますね。
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浦靖宜ゲスト
という観点からすると、「外国人に対しては禁止」というのはそれなりの知恵な気がします。
世界観や倫理観が異なる存在に、それが深く関わる技術を提供するのはリスキーであり、責任が取れないと考えられますね。 -
kiba1951ゲスト
代理出産の事例は余りにも問題点が多く、何処から手を付けたら良いのか判りません。
この問題は売血から始まり、心臓移植・生体肝移植・臓器売買・死体の冷凍保存サービスにまでに及びますが、いよいよ幕内の取り組みに入った感がします。取り敢えず気がついた処から
1、講師が代理母の言として「子供が出来ない人達に命を与えた。良い事をした。何時か自分にも良い事が帰って来るだろう。」を挙げていました。
全ての代理母がこの様に思っているとは思えませんが、この重苦しい話題に対し呆気らかんとした言葉には肩の力がほぐされます。
仏教説話の「捨身餌虎」を思い出しましたが、ヒンズー教も仏教的な考えを共有しているのでしょうか。
2、「昔は養子縁組でよかった気がしますが。江戸時代とか」とあります
アメリカに於いては個人が集まって家庭・会社といった組織を編成するのに対し、日本では先に組織ありきで欠員に個人を補充してきた様に思えます、
子供に血族や家業の代表者としての機能が重視された時代ならば、血の濃さよりも能力が重視されたのだと思います。
今の日本に於いて家系・家業継承が重要視されない分、逆にDNAが重視される様になったのでしょうか。
これは日本の天皇制のあり方にまで波及しかねない問題だと思います。 -
浦靖宜ゲスト
1.ヒンドゥー教も輪廻転生の世界観で、善因善果、悪因悪果の考えがあるので、ヒンドゥー教徒であれば良いことをしたら返ってくると考えているはずです。そして普通に代理母が良いことと思っている人も多いのかもしれません。
そもそも代理母にしろ、臓器移植にしろ、なぜそれが倫理的な問題とされるのかの大きな要因は自分の身体は自分のものであり、神聖不可侵であるという強固な所有権概念があるからだと思います。所有権という概念自体が、自分の身体が生み出したものは自分のものだというところから来ています。自分の身体を使って耕した畑で取れたものは俺のものといったことです。『統治二論』のロックがそうした議論をしています。
もし所有権がなく、人類皆平等が正しいければ、私たち健康体の人たちは全員くじを引いて、当たった人は病気の人に腎臓や角膜などを提供すべきです。一個くらい取られても私たちは死にませんし、それがないと死んでしまう人の命を救えます。功利主義的にはそれが絶対正しい。でも誰もそれをしようとしません。自分の身体は神聖にして犯すべからずという感覚が強いからです。まあ身も蓋もない言い方すれば、多分痛いので嫌なだけでしょうけど。でもなんで自分が他人のために痛い目を合わなければいけないのかというのは、最もな疑問ではあります。私も、「臓器提供しろ」って言われたら、躊躇しますよ。
近代社会とは少し異なる社会の人たちの方が、共同体のために自分を犠牲にすることに躊躇しない傾向はあるかもしれません。2.日本はイエが重視されたので、個々の人員が誰であるかはあまり問題にされていませんでしたね。
柳田國男がいうように日本は地縁くらいしかない国なので、今、自分の子を求める人が多いのは不思議な気もします。中国やアメリカは家族主義、血縁主義なので、その若い人ほどなんとなくその影響を受けているのかもしれません。核家族化が影響しているのでしょう。
天皇制は一応、血が重視されてはいますね。ただ、天皇家が続きさえすれば、誰が天皇であるかはそれほど重要ではないという点ではやはりイエ制度に似てますね。イエはブランドですから。 -
浦靖宜ゲスト
1.誰も提供しようとしないから、ビジネスにするしかない。でもそうなると、お金のない人ほど、臓器や母体を提供する可能性が高い。この辺りが倫理的に問題となりうるところですね。iPS細胞は、それが実用化されれば、受精卵を使わないですむし、少なくとも臓器移植の問題は解決されるので、話題になりましたね。ただ国際的にはES細胞を使う方が主流のようです。
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kiba1951ゲスト
「自分の身体は自分のもの」よりも「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり」の方が強いのではないのでしょうか?
刺青に対する嫌悪感にも繋がりそうな気がします。 -
浦靖宜ゲスト
ですかね?無意識にはそういう観念が働いてはいそうです。
とはいえ大真面目に孝の考え方を持ち出す現代人は少ないでしょうし、持ち出したとしても、他人の命よりも親への孝が優先されるのかと問われたら、劣勢に立たせられるように思います
身体にメスを入れるにしろ入れないにしろ、その選択権は自分にある。なぜなら自分の身体は自分のものだからだという所有権的な考えの方が反論として有効と思います -
kiba1951ゲスト
「自分の身体を使って耕した畑で取れた物は俺の物」この感覚はとても良く理解できます。
でも自分の体は自分が作った物ではないので、一義的には父母からさらには神・天等から授かったとか借りている様な感覚を覚えます。
自分の物なら自分の好きに出来ても、頂き物・借り物の場合は呉れた人・神・天に対して遠慮を感じます。
しかし、確かにこの感覚は他人に対して説得力がないですね。 -
浦靖宜ゲスト
所有権概念の弱点は、「自分の身体を作ったのは自分じゃないよね」という点ですね
それをなんとかするためには、kibaさんが仰るように宗教的な何かが必要とされてきました。
我々は我々の身体を我々自身のものとして神に与えられたのだと。
ロックの議論も神が前提となってますね。彼にとっては神は自明なので、所有権の問題も極めてクリアですが。 -
kiba1951ゲスト
「再生医療で考えれば、そもそもなぜ私たちの体は再生しないのか」とあり、これはとても不思議です。
阪大歯学部主催の講演会で「人間の歯は乳歯から永久歯に1度しか生え換わらない、これを50台位に再度生え換わる様に為らないのか。されば治療費は1/10で済む。」と嫌がらせの様な質問をした事があります。 -
浦靖宜ゲスト
歯が生え変わる生き物もいるので、私たちもそうであったらと思いますね。
歯の生え変わりを犠牲にすることで、何かを得られたのか。あるいは特に理由はないのか。 -
kiba1951ゲスト
我々は我々の身体を我々自身のものとして神に与えられたのだと。とあります
高校の歴史で習った「王権神授説」もこの流れなんでしょうか。
一神教の国々では神の製造者としての責任・権利が最後の拠り所になるのでしょうか。 -
浦靖宜ゲスト
確かに関係があります。先に王権神授説があって、それの批判としてロックの『統治二論』が出ました。
ざっくりいうと、王権神授説は国王はアダムの正当な継承者であり、聖書によるとアダムは神にこの世界を支配する権利を与えられたのであるから、その継承者たる国王は人民も財産も所有することができるという考え方です。
ロックは聖書からそのような考えを導き出すことはできないことを論証しました。『二論』のうちの一つ目の論がそれです。また人間はあくまで神の作品であり、神の目的のために存在しているとロックは考えます。神は人間が永遠に存続することを望んでおり、人間がそのように生きるように指示しています。自己の生命を保持したいという人間の欲求も神の意志によるものです。そこから自己の身体や財産を保持するプロパティー=所有権が導き出されています。
歴史の大雑把な流れとしては、封建領主がそれぞれの領地、領民をバラバラに支配していたのが、絶対王政になり、一人の君主が一元的に支配するようになった。権力が一気に中央集権化した。そしてロックやルソーのような思想家が出て、具体的に革命が起きることで、君主が人民に置き換わった。バラバラな封建支配(中世)→君主による中央集権(近世)→人民による中央集権(近代)が(現代においては批判も多いでしょうが)これまでのオーソドックスな歴史理解です。フランスが典型的ですね。
マルクス主義の唯物史観ではこの後に共産主義革命が待っています。マルクス主義は今では見る影もない(忘れられた頃にブームなったりしますが)ですが、なんだかんだで歴史の教科書は、今でもこの流れで記述しているように思います。
日本史も縄文時代の原始共産主義社会から奴隷制、貴族制の古代、貴族制が廃れ、様々な封建領主(権門や武士)がバラバラに領民を支配する中世、それを一元化した徳川時代(近世)、人民がそれを打倒した明治維新という市民革命(近代)、残すは共産(社会)主義革命のみ、みたいな理解をされてきました。
ただ日本の場合、天皇が明治維新の主となってしまうので、実は市民革命ではないのではないか。共産主義革命の前に天皇制(←この言葉は実は左翼用語です)を打倒する必要があるのではないかといった議論もありました(日本資本主義論争)
明治維新を市民革命とみなすのが労農派、明治国家は絶対王政段階とみなすのが講座派と大雑把に理解できます。
マルクス主義者ではない進歩主義者は、市民革命後、人々は生まれや宗教、国家に縛られない自由な社会を生きるようになり、世界中がいずれそうなると考えているかと思います。冷戦終結ごろに流行ったフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』ですね。世界は自由主義化し、そこで歴史は完結するというお話です。 -
浦靖宜ゲスト
近代は基本的に世俗主義なので、神を最終根拠にできません。
ギロチンで王の首を刎ねてしまったので、神は死んでしまいました(ニーチェ)。
とても大雑把にいえば、外なる神が、内なる自分に置き換わったと考えればいいでしょう(フーコー)。
かつては、「誰も見ていなくても神が見ている」が倫理の根拠でしたが、近代以後は誰も見ていなくても、神がいなくても自分が見ているという感覚を人々にインストールする必要が出てきました。自分で自分を律する自律した人間ですね。カントの有名な『啓蒙とは何か』も、他律(未成年状態)ではなく、自律した人間になれみたいな話です。今の私たちが思う「人間らしさ」もこの段階の人間観に影響を受けています。フーコーが「人間の終わり」と言った「人間」もこの意味での「人間」です。フーコーの述べた通り、こうした人間観はだいぶ瓦解してきましたね。近代が世俗化、脱魔術化の時代なら、現代はポスト世俗主義、再魔術化の時代と言われたりします。あれだけ近代主義者で、これまで「宗教家もパブリックな場では世俗の言葉で語るべき」と言っていたハーバーマスも「宗教家こそ超越を語れ」というようになってきました。自律した人間が実はありそうもないことがわかってきたからでしょう。(もちろん近代主義的な見方が無効になったわけではありません。今でも最大勢力ですし、私もその中の一人だと自分では思っています。ただ後で述べるように全部をそれでカバーできるのはとても無理になってしまった)
かつてのキリスト教のように再び何か一つの宗教が大きなヘゲモニーを獲得することはないでしょう。理由はあまりに人口が増えたからです。これまでの思想が限界を迎えた(もともとあったアポリア(袋小路)が現実化した)のも人口が爆発的に増加したからだというのが本当のところではないかと思っています。思想も宗教もとてもじゃないが75億人をカバーすることはできない。バラバラの宗教(近代の世俗主義も含む)、文明圏、哲学・思想が重なり合い、共存(衝突も含め)する時代が今なのでしょう。
人口が10億、20億の時代はまだ一神教や近代主義でいけそうな気がしていたわけですが、もう臨界点を超えてしまった。これこそ本当のシンギュラリティー(相転移)だと思います。(こういうテキトーな理系用語を使うと反ポストモダン系の人に叱られそうですが) -
kiba1951ゲスト
生命と金銭の関係についてはどうでしょう?
事故で親や子が殺されても金で解決するしかなく、示談で被害者から「誠意を示せ」と言われたら「もっと金を出せ」と云う事です。
現状制度では遺族への金銭的慰謝に終始し、相続人と加害者・相続人同士が金銭の多少で揉めるのは被害者にとって更なる不幸であります。
若し被害者が自然保護や児童愛護を生き甲斐にしていた様な場合、加害者がその趣旨に賛同して支援・参加してくれたら嬉しいと思います。
「被害者の意思を継ぐ」 そんな事が有り得ないのは重々承知ですが、なんだか書いてみたくなりました。 -
浦靖宜ゲスト
事故等の賠償での生命と金銭の関係は「逸失利益」を測る場面でよく取り沙汰されますね。
その人がもし生きていたら、稼いでいたであろうと想定される金額は当然に人によって異なるわけです。
その人の職業や年齢(平均余生から考えて、事故がなければどれだけ生きられたであろうか)などをもとに計算します。
もちろん生命の価値を測ることはできませんが、ひとまず経済的な尺度から金銭的価値を計算することは可能です(あくまでも予測ですが)。その人が経済的に稼いでいること=金銭的な賠償とその人の生命の価値は別物ではありますが(そもそも生命の価値は測りようがありませんが)、今のところ賠償と刑罰くらいしか、やったことの責任を測れないので、そこにこだわるしかないという状況だと思います。
その点、kibaさんのおっしゃる加害者が被害者の意志を継ぐというのは、金銭的価値とはまた異なる価値の補填と考えられるかもしれません。パッと具体的な実際の事例は浮かびませんが、世界のどこかではありうる話だと思います。ヨーロッパでは教会などが間に入って、加害者と被害者とのコミュニケーションの場を作る、修復的司法といったあり方があります。そうした実践から何か生まれることがあるかもしれません。
フィクションで似た事例としてはブラックジャックの寿司屋のエピソードが思い出されます。
ブラックジャックの通うある寿司職人が交通事故にあり、自慢の両腕を失います。
トラック運転手の加害者は被害者である寿司職人への償いのため、自分を寿司職人にして欲しいと、握りの指導を頼みます。
見事、被害者の寿司職人と同等の寿司を握れるようになった運転手ですが、彼はその後事故にあい、死んでしまいます。
再び自分の両腕を失った寿司職人ですが、死んだ運転手の腕はまだ生きているため、ブラックジャックが彼の両腕を寿司職人に移植し、再び彼は寿司を握れるようになったという話です。
被害者の意志を加害者が継ぎ、さらに加害者の意志を被害者が継ぐというお話ですね。 -
kiba1951ゲスト
私が妄想の様にぼお~と考えていた事を明瞭に表して頂けた事に感謝いたします。
妄想2としてまた思い付きました。「その人がもし生きていたら、稼いでいたであろうと想定される金額」を基に「逸失利益」を測るとあります。
将来がある若者については妥当な考え方だと思います。
でも、「若い頃身を粉にして働いて、財産と時間が出来たので今から使って人生を楽しんでやろう」と思っている方々にとっては「適応される基準が違う」と思われるのではないでしょうか。
「稼ぐだけが人生ではない、使うのも人生だ」と妄想しています。 -
浦靖宜ゲスト
なるほど。これまで貯めたお金をこれから使う予定だったのに〜
というのは悔しいですね。しかし使う主体がもう存在しないので、どうしようもない気がしますね。
仮にお金に換算して、亡くなった君の父は100万円分の楽しみを未来にとっていたが、死んで楽しめなくなったので、君がその100万を受け継いで代わりに楽しめみたいな話かしら?いい話っぽいけど、それが父の死の償いとなるかというと違う気がしますね。
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