- このトピックには7件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年、 5ヶ月前に更新されました。
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河村晃太郎ゲスト
ある若い芸能人が亡くなりました。その人はSNSでの心ない誹謗中傷によって傷ついていた、という報道がなされていました。現在多くの識者たちが、誹謗中傷した人たちを批判しているようです。
心ない中傷をしたという理由で、逆にその人が非難されるのは、当然の報いかもしれません。心ない中傷をする行為は良くないことですが、それをまた批判する行為も、積み重なると誹謗中傷に発展してゆくのではないでしょうか。
かくして、無限連鎖がおこります。誰かを誹謗中傷した人を誹謗中傷した人を誹謗中傷した人を誹謗中傷する…(以下略)、という事態です。
何であれ、ひとをを悪と名指すとき、自分は正義の側に居られます。それは人生の快事かもしれません。しかし、その正義は悪によって担保されたものですから、正義の半分は悪なのではないでしょうか。
SNSで心ない誹謗中傷をしてしまった人たちは、どんな気持ちで過ごしているのでしょうか。他人を貶めて良い気分になろうとするくらい、迂闊なこともありません。それが分っているなら、誹謗中傷したあとには苦い気持ちが残るだけでしょう。そうなると、気の毒なのは非難された人ではなく、非難した人たちの方かもしれません(だからといって人を非難した行為を許されるわけではないでしょうが)。
件の芸能人は、他人から浴びせられた非難のことばの数々を挙げ、自分が一番自分に対して思っていた、という言葉を残して亡くなられたそうです。むしろ、人を非難した人を批判する人の方が、そのことを重く見る必要があるのではないでしょうか。 -
浦靖宜ゲスト
確かに無限連鎖になってしまっていますね。どこかでこのやりとりはやめたほうがいい。
個人的なアドバイスとしてはSNSをやめることですね。私もここと、あと友人が作った、友人同士でしか見れない鍵付きのサイトでしか書き込みません。Facebookもtwitterもインスタもやらないほうが心の健康にはいいんじゃないかと思います。芸能人が辞めるのはハードル高いかもしれませんが。
誹謗中傷した人間が不特定多数で誰に罰を与えればいいのか分からない状態では特に無限連鎖は続きそうですね。
許すことと罰を与えることは、物語を終わらせる上で同じ効果を持ちますが、ネットで不特定多数が絡む問題では、スパッと終わらせることができない。河村さんの非難の非難が抱える問題についての冷静なご意見も、ここではなくSNSで投稿していたら、「誹謗中傷していた奴の肩を持つのか」と炎上しそうですね。
そしてご指摘の通り、正義の糾弾はなかなかに快楽的です。(今こうして意見を述べるのも、俺良いこと言ってんじゃんって思いますもの)とりあえず、個々人がそっと離れるくらいしか解決策がないのではないか。
今回、SNSを法的に規制するみたいな案が政治からも出ているようですが、個人的には悪用されそうで嫌なので、それは避けたいなと思っています。ただ意外と近い将来、人類はSNSを捨ててもおかしくないのではないかと思います。
SNSは私たちの政治的コミュニケーションをあまりに不安定にしすぎました。
忘れられる権利とも関連しますが、過去に犯してしまった罪が何十年かたった今になって取り沙汰される事例が最近多いですね。去年アメリカの最高裁判事に任命されたカバノーの学生時代の性的暴行問題とか。それは確かに酷いし、糾弾されるべきかもしれませんが、とはいえ、毎回こんな事やってたら、物事がうまく機能しないのではないかと思います。若い人ほど馬鹿をやってしまいがちですし、それが何十年もSNSに記録され、将来その人が出世したり政治家になったときに、それを疎む人が過去のデータを漁って、黒歴史を糾弾するみたいなことが頻発するのではないか。それに人類が耐えられるのか。 -
河村晃太郎ゲスト
浦様 コメントいただき、ありがとうございます。見識の高いご意見かと存じます。私などのような言いっぱなしの無責任なものではなく、きちんと根拠に基づくご発言で、全て納得致しました。議論の場に乗せるような話題ではなかったかと反省しております。
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浦靖宜ゲスト
いえいえ、それほどではありません。
今回のリアリティーショーの問題は色々と考えさせられることが多いですね。
アメリカやイギリスでも自殺者はちょくちょく出ているようです。致死率が結構高い・・・。その辺から今後の出演者には注意を促した方がいいようです。
またニコ生主が危険な動画を取ろうとして死亡したりする事故もあったりしますね。
まだSNSが流行る前、2ちゃんねるが流行っていたくらいに、仲正昌樹『〈ネ申〉の民主主義』という聖書や古典的な哲学思想を絡めた社会批評本を読んだことがありますが、そういう議論が参考になるのかもしれません。実家にあるので、どんな議論だったか詳細は覚えてませんが。ニーチェの「末人」や東浩紀の『動物化するポストモダン』や『一般意志2.0』を参照していたような。タイトル通り、ネットの声が神の声かのように振る舞ってしまう現代人をニーチェの言う末人として論じていたかと思います。
あと同じ東の『ゲーム的リアリズムの誕生』も今回の問題に関して示唆的なものを含んでいると思いますが、やはり実家にあるので、参照できずですね(電子で買い直してもよいですが)
ゲームの主人公を眺める(操作する)プレイヤー(ゲーム実況者)を眺めるニコ生視聴者みたいなメタのメタみたいな存在がやんややんやコメントし、それにプレイヤーは呼応してプレイすることでゲーム主人公は物語を生きるわけですが、それと同じようにネットの様々な声に人生が引きずられてしまうリアリティーショーの出演者みたいな。現実と虚構は違うと多くの人は言うわけですけど、本当は現実と虚構とをごちゃ混ぜで認識している(あるいは相互にフィードバックしあっている)のが、人間の現実なんだみたいな議論を東浩紀はしていました。 -
河村晃太郎ゲスト
浦様 諸々ご教示いただき、ありがとうございます。最後の東さんの虚構と現実は入り交じるという議論は、歴史叙述問題に関して、ヘイドン・ホワイトも指摘していたと思います。記憶が変化したり作り変えられたりするのも、現実と虚構の融合かもしれません。小説の叙述にリアリティーを感じるのだから、多くの人がリアリティーショーにリアリティーを感じて、出演者を非難したとしても、仕方ないのかもしれません。私はそこではなく、非難そのものをしなくてはならないその人の心の状態が問題かと思います。明らかに幸せな人は、他人を非難はしないので、非難するということ自体が不幸です。そのような不幸を放置し助長しようというような社会にみえて仕方がありません。
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浦靖宜ゲスト
そうですね。現実と虚構を切り分けられる。演じている自分と、ありのままの自分を分けられるというのが、実は近代的な人間観にすぎず、実はそうではないのではないか。特に大きな物語の共有が喪失したポストモダンでは、みんなが好き勝手にそれぞれの世界観で評価するようになるので、出演者側が非常に不安定になりやすいのではないか。出演者側も演じている自分とそうでない自分とを分けられると思っていた場合、実際そうでなくなるとかなりしんどいと思います。今回の事件の被害者がプロレスラーであることが私にはとても示唆的でした。
非難してしまう心性も確かに大きいですね。芸能人の不倫バッシングとか、お前になんの関係があるんだって話ですけど、非難してしまう。そうする人の中には、本当は自分も人間関係が上手くいってなくってしんどくて、不倫という抜け道でなんかうまいことやっているように見える人を叩いてしまうという人もいるかもしれません。羨ましさの裏返し。また道徳的非難は自分が正義なので優越感と承認欲求が満たせます。
そうしたコメントに「いいね」がついたりやRTされたりするのも問題を助長させていますね。
もちろんずっと昔から人間はそうだったともいえそうですが、SNSがなかった頃はテレビの前で家族や友人に「タレントの〇〇はダメだ」と言えるくらいでした。今は直接本人に対し、世界中に公開の形で批判できます。炎上を楽しむ人もいます。マスコミにとっても記事になります。やはりSNSはやめた方がいいかもしれませんね。 -
河村晃太郎ゲスト
毎度、含蓄の深いコメントをありがとうございます。非常に射程の長い思索が表現されており、大変参考になります。
一点だけ。SNSはやめた方が良いというのは、SNSを社会的に排除した方が良いということでしょうか?それとも、とりあえず自分だけはやめる。自己の中から、個人的に抹消するという意味でしょうか?杜門却掃して読書に耽っているだけ、というのもなかなか魅力的ではあります。 -
浦靖宜ゲスト
まずは個人的にやめることを勧めますかね。(といいつつ何年か後に自分が使い始めるかもしれませんが(笑))
国家が社会から排除するというのも、人々がそれを望むのならありかなとも思っています。
ある表現はダメで、ある表現ならOKみたいな国家の警察権の裁量次第となるような規制よりは全面撤廃の方が安全な気がします。
宇沢弘文の『自動車の社会的費用』みたいな話だと思ってもらえたら。
今、現状はなくすことは難しいでしょうが、つい十数年前はなかったものですし、長い年月をかけてなくなる方向に向かうというのは考えられるんじゃないかなと思います。
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