フォーラムへの返信
-
投稿者投稿
-
管理人キーマスター
私の回答を受けての木場さんの再質問、それに関連する北詰先生のコメントをめぐって、私の考えを申し上げます。
「うめきた2期」をテーマに、関大で行われた講演会の趣旨・内容などを、当方はまったく承知していません。講演された野村卓也氏のことも存じ上げず、木場さんが発された質問に対して、いかなるご返答があったかも知りません。ただ、木場さんがその返答に納得されなかったらしい事実を、「哲学者からの提言」を求められたことから、忖度するだけです。
当方からの回答の最後に、「最初から哲学者不在の世界で、技術屋が引いた図面に注文など付ける余地はない」と書いたのは、たしかにホンネではあるものの、やや素っ気なさすぎる。そのあたりの説明を、少し補います。
「都市計画」と「まちづくり」を混同されているのではないでしょうか。前者は、土地の有効活用を主眼とする都市の基盤整備、後者はハードウェアとしての都市構造の上に展開するコミュニティづくり。双方の目的は、大きく異なります。「徳」や「品格」にかかわる人づくりは、後者の目標であって、前者のインフラ整備が、それを直接の目標に掲げるということはありえません。もちろん、「緑とイノベーションの融合」というスローガンには、将来のコミュニティ形成が可能になるような条件整備、という狙いが含まれているだろう、という程度の推測は可能です(野村氏は、たぶんそういう答え方をされたのではないでしょうか)。とはいえ、現時点でのマスタープランに、人づくりのビジョンを織り込むということは、「木に縁りて魚を求む」類の現実離れした要求であると言わざるをえません。
哲学者の出番が、もしあるとするなら、計画実施後、何年、何十年かして、「うめきた」に人々の住む街が形成されようとする時点で、コミュニティのあり方を話し合う場面、例えば各地で活動する「まちづくり協議会」のような集まり、になるでしょう。それまでは、北詰先生のように、「都市計画」と「まちづくり」の両方に見識を持つ方の、「監視」をお願いする以外にありません。
そういう場面がやって来れば――私の存命中には、たぶんないでしょうが――、どこへでも出向くにやぶさかではありません。ただ、「関大を退職され、…」と誤解されているようなヒマは、まだ在職(~2020年3月)中の私にはない、という事実だけ申し添えます。(木岡伸夫)
管理人キーマスターA.
大阪都市域最大の再開発計画として、「うめきた2期」が注目されています。計画地域全体で90000㎡、その半分の45000㎡が「都市広場」とか。たしかにおっしゃるとおり、「緑とイノベーションの融合」を謳うだけの大がかりな構想ではあるようです。とはいえ、華々しくうちだされているヴィジョンのどこを見ても、「徳・品格・思いやり」につうじる雰囲気は見あたりません。というのも、この種の都市再開発事業は、バブルの時代(1980年代後半)から30年を経て、なお健在な企業戦略の現れに過ぎない、そう思われるからです。かつて「地上げ屋」が暗躍して、都市共同体破壊のお先棒を担いだという事実。むろん近年の再開発には、一見して昔のように露骨な利益追求目的ではない、種々の仕掛け――緑地面積の最大化など――が施されている。それは今日、ハードとしての街づくりから外すことが許されない「目玉」として、それなりに人心をそそります。
ですが、そんな計画には、あなたが期待される人間性の「徳」など見つかるはずもありません。孔子孟子が説いた「礼」の精神からは、まさに対極に位置するのが、私の申し上げる〈欲望の論理〉にもとづく現在の都市開発だからです。「質問」の最初に引かれた例は、儒教の本家である中国が、「改革開放」のスローガンの下で自国の哲学を忘れ去り、西洋近代の経済成長至上主義に染まり切っている現実、それと同時に、中国の人々がようやくそのことに気づきはじめたという、日本人にとっても他人事ではない事実を物語っています。
ですから、「うめきた2期」に関して、私からの「提言」などはありません。最初から哲学者不在の世界で、技術屋たちが引いた図面に、注文を付ける余地などないのです。
(木岡伸夫)
-
投稿者投稿