毎月21日更新 エッセイ

テクノロジーの問題(1)

ハイテクの底に何があるのか

「エッセイ」のページに、今月から《テクノロジーの問題》を連載します。このテーマを考えようと思ったきっかけ、それを考えることの狙いを、最初にお話しします。

テクノロジーと私――二つのイベント

私は、「テクノロジー」あるいは「技術」という問題に、これまで時折ふれたことはあっても、最近までそれを主題とする本や論文を書いたことはありません。技術に関連する「情報化」、情報社会と風土の関係に、かつて言及したことがあるぐらいです。AI(人工知能)、VR(仮想現実)、AR(拡張現実)、ロボット工学、といったハイテクの問題を考えることは、次に申し上げるような〈出会い〉が生じるまで、まったくなかったのです。気になるテーマではあっても、考えなければならない他の問題が目前にあるため、技術・テクノロジーの問題にまで立ち入る余裕がなかった、というのが実情です。
そんな私に、このテーマを突きつけてきた人がいます。香港出身の中国人哲学者ホイ・ユク(許 煜、Hui Yuk)。ホイは気鋭の技術哲学者として知られ、日本でも最近『現代思想』や『ゲンロン』といった雑誌に、著書の一部が翻訳紹介されています。とはいえ、学界事情にくらい私は、その時点で未知の人物から、5月上旬にソウルで行われる国際学会に参加してくれ、という要請(メール)を3月末に受けとって、困惑しました。ですが、「今日における風土の政治学」(Politics of Milieu Today)というワークショップのテーマを知り、趣意書を読んだ結果、参加してみようかという気持ちになりました。脳卒中で倒れた2012年以来、いちども国外に出たことのない私に、そう思わせるだけの力が、ホイのメッセージにあったということです。
で、参加してどうだったか。参加したことは、正解でした。というのは、技術の哲学が切実に求められるにもかかわらず、十分な成果が挙がっていない現状が判明したからです。さらにいえば、その状況に一石を投じることのできる可能性が、私の風土学にはある、という確証が得られたからです。
この重要なテーマに、正面から向き合わなければならなくなった理由が、もう一つあります。ソウルの催しに参加してからまもなく、デンソーに勤める若い知人から、テクノロジーの近未来を考える同社のプロジェクトCreation GIGⅡへの参加を打診されたことです。トヨタ傘下の自動車部品メーカーとして出発したデンソーは、ロボットなどのハイテク化によって、いまや日本のものづくりをリードするグローバル企業。そんな一流企業が、IT技術の進歩によって、将来、車などによる移動がゼロになる可能性を見越して、いわば企業の生き残り戦略の一環として、技術のあるべき姿を原点から模索しようとして着手したプロジェクトが、”Mobility-Neo”、”Mobility-Zero”というものです。そういう先端的な研究プロジェクトに、「哲学者」も加わってほしいと言われ、これに背を向けることはできないと感じて、参加をOKしました。これが、直前の国際学会につづく二つ目のイベントです。連載最初の今回は、以上二つのイベントに参加して考えたこと、それをもとにこれから考えたいと思うこと、をお話しします。

ソウルの学会へ

5月8日、7年前の発病後、もう二度と足を踏み入れることはあるまいと思っていた異国の地、韓国の仁川空港に到着しました。私のイメージする「外国」の典型は、関西国際空港から13時間を要する、フランスの首都パリです(2002年度の在外研修以外にも、何度か訪れています)。それに比べれば、2時間半で到着する韓国は、ほんのお隣、というぐらいの近さでしかない。ですが、仮に「異郷度」を測るとするなら、地理的距離に反比例するとさえ言いたい遠さを、ソウルの地に感じたことは事実です。言語と文化の違い、それに何よりも日韓に横たわる重い負の歴史が、一日本人の接近を易々とは許さないバリヤーとしてそそり立つ、そういう印象を現地に着いてすぐに受けました。でも、そんな主観的印象とは裏腹に、招待してくれた韓国の人たちは、みんな親切で好意的でした
ホイ氏と親交のある叉松大学校(Woosong University)の朴 城佑(Park Sung Woo)教授が中心となって、2日間の国際ワークショップを企画運営し、発案者であるホイ氏に加えて、同じく技術哲学が専門の若いフランス人プチ氏(Victor Petit)と私、以上の三人が、海外からのゲストとして招かれたという次第です。二日にわたるプログラムは、「今日における風土の政治学」にひっくるめることのできる多彩なトピックをめぐる発表と討論。その中で、地元韓国の研究者が取り上げるテーマは、現代アート、都市計画、その他多岐にわたるもので、技術の問題に直結しないものもあったことは、こうしたイベントの性格上、やむをえません。
「技術の哲学」という本題をめぐって、どういう議論が闘わされたか。その全容を明らかにするには、一冊の報告書を要するでしょう。ゲスト三人による英語の発表と討論(私は朝鮮語には不案内で、ハングルの一文字も読めませんし、朝鮮語で行われた討論には入っていけませんでした)をつうじて、この方面の研究がどうなっているのかについて、おぼろげなイメージがつかめてきました。細かい詮索は省いて――というより、しようと試みても無理なので――、ホイ氏の発表やそれをめぐるやりとりから私が受けた印象を、おおまかに申し上げるなら、次のようなことになります。

ホイの技術哲学

デカルト以後の近代哲学には、自然の機械論的解釈を徹底的に推し進めようとする流れと、機械に還元されない独自の意味を生命現象に認める流れ、の二つがあります。かつてフォンウリクト(フィンランドの哲学者、1916~2003)は、この二つを科学における「ガリレイ的伝統」と「アリストテレス的伝統」と呼び、それぞれの学問的方法の特徴を、「説明」と「理解」として区別しました(G.H.フォンウリクト『説明と理解』丸山高司・木岡伸夫訳、産業図書、1984年)。現代の先端技術、たとえばAIやロボット工学は、もはや単なる機械技術ではありません。人間に近い、もしくは人間を超えるとされる「人工知能」(AI)、人間と「同じ」である、とまで言われることのあるアンドロイドを見れば、機械がもともとの非生命から生命現象の領域に進出して、生命存在に取って代わろうとする勢いにあることは、明らかです。テクノロジーの発達は、近代のはじめには明確な一線が引かれた機械(非生命)と人間(生命)の区別を破棄し、双方を一つの領域にしようとする方向を歩んでいるかのように見えます。
二つの領域を一つにする、といま申しました。それは、どういうことを意味するのでしょうか。二つの伝統、ガリレイ的伝統とアリストテレス的伝統のうち、前者が後者を圧倒する勢いで、後者を吸収しようとする、つまり機械的なものが生命的なものに取って代わる動きが生じている、ということです。AIを例にとるなら、コンピュータに埋め込まれた計算機能が、人間のものとされた知性の働きを代行するばかりでなく、現在は人知を超える水準の「ディープ・ラーニング」にまで到達した、とまで言われています。人間の手から生まれた機械が、つくり手である人間の地位を奪いかねない、皮肉な逆転現象が起こっているわけです。近代科学の歴史において、機械論と生命論(有機体論)の緊張対立関係が、長らく続いてきました。それが、コンピュータ・サイエンスの飛躍的発達によって、機械論の圧勝とも見える事態が生み出された。この現実をいかにとらえ、技術の進むべき道をどのように指し示すべきか。ホイ・ユクの関心は、そういうところにあるように見うけられます。
ソウルの国際学会は、時あたかも、彼の著書『中国のテクノロジーに関する問い――宇宙技芸試論』(The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2017)の韓国における翻訳出版を記念して開催されました。そこで私が知ったのは、機械論が生命論の地位を奪い、生命論を無効にする、といった極端な機械一元論の動きに対して、批判的な距離をとろうとする彼の姿勢です。上の著書に付された副題の「宇宙技芸」(cosmotechnics)という独自の用語が、そういう彼のスタンスを物語っています。この言葉は、過去の技術に無縁と考えられていた「コスモス」(宇宙的秩序)を、技術に取り込もうとするホイの立場を示します。私の立場から言えば、これまで対立しつづけてきた機械論と生命論の〈あいだ〉を開こうとする企て、そんな我田引水的な解釈ができるかもしれません。
ソウルの発表で、彼がまず口にしたのは、サイバネティクスへの評価です。機械論的な因果関係では、A→B→C→D→…という、一方的で単線的な進行しか考えられない。ところがサイバネティクスは、機械論の世界で考え出されたにもかかわらず、A→B→C→D→A→B→…というように、出発点に還って同じプロセスを繰り返す、回帰的なサイクルを想定します。「フィードバック・ループ」と呼ばれる自己反省・自己言及の要因が、システムに組み込まれていることが、他の機械論的技術にはない、サイバネティクスの特徴です。コンピュータ工学からスタートしたホイが、技術の領域で目をつけたのは、中国思想の底に横たわるコスモロジーにもつうじる性格の、サイバネティクスだったという訳です。
わずか三日の付き合いでしたが、私はこの人物に稀有の志をもつ天才を認め、「あなたは私の真友である」(”You are my true friend.”)という一言を贈って、別れました。彼は別れ際に、出たばかりの著書『再帰性と偶然性』(Recursivity and Contingency, Rowman & Littlefield, 2019)を、出会いの記念に、と手渡してくれました。その後のメールのやりとりから、この本が来年、邦訳刊行される見とおしであること、私の「書評」が出版社(青土社)に届けば、早期の刊行に向けて後押しになるだろう、と聞かされました。それを知った私は、この夏、時間をかけてこの本を読み上げ、短いコメントを日本語で仕上げて、彼に送りました。ちなみに、この人は英独仏中と何でも使える語学の達人ながら、日本語だけは未修とのこと(余計な付け足しですが、私の推薦が出版社を動かすような事態は考えられません)。そのコメントの中で、私は、この書の中心テーマである「偶然性」の理解が、参考文献―—ものすごい量に及ぶ――の大半を西洋思想に頼るホイの立場では、不十分であり、せめて九鬼周造『偶然性の問題』には目を通すべきである、という遠慮のない批判を呈しました。それに対しては、九鬼のテクスト――すでに中国語の翻訳が出ている由――をこの夏読んだ、という返事がありました。なぜ、九鬼周造を読む必要があるのか。その点については、いずれ説明する機会をもちたいと思います。
以上が、私にとって今年最大の――おそらく人生でも最高と言える――出会いの一部始終です。

デンソーのイベント

ソウルの学会は、私にとって、ホイ・ユクという傑出した人物との〈出会い〉、それをとおしたテクノロジーの問題との〈出会い〉でした。帰国後の私は、向こうで発表した原稿をもとに、英文の « Non-dualistic thinking in mesology(fūdogaku) »(「風土学における非二元論的思考」)を仕上げました。これが、テクノロジー批判の最初の論文です。それにつづく東京のイベント、DENSO Creation GIGⅡへの参加は、現代テクノロジーの問題に対する、最初の態度表明になりました。問題にめざめたばかりの私が、早々に回答を提出しなければならなくなった理由は、デンソーのスタッフから、当のプロジェクトの中心を占める池上高志東大教授――「人工生命」開発の第一人者――との対談を要請されたことにあります。池上先生は、アンドロイドの研究開発で著名な石黒浩阪大教授と組んで、日本におけるロボット研究の最先端に立つ方です。そういう方と、四つに組んで論じ合うなど、自分の力では逆立ちしてもつくれない機会を、デンソーが与えてくれた。ラッキー!というのが、ホンネでした。
ところが、9月20日の対談予定を私が知ったのは、8月20日。春以降、関大の研究室で、デンソーの関係者と何度か相談した後、しばらく連絡がなかったのを、「流れた」ものと勘違いしていた私は、それから押っ取り刀で準備にかかりました。最初の催し(DENSO Creation GIGⅡ-1、8月29日 デンソー東京支社)に出席した直後、木曽の別荘で数日かけて書いた「テクノロジー批判ノート」を担当者に送ったところ、これを池上先生に回してもよいか、とのお訊ね。OKと答えたものの、その中身は、池上・石黒両先生に対する「悪口」ばかりです。〈敵〉に手の内を見せて、丸腰で戦場に赴く――大げさやなあ!それが、イベント当日(9.20)の私の姿でした。当日のセッションの一部始終は、動画で公開されています。→デンソーURL
私の立場は、それが人工生命であれアンドロイドであれ、機械であるロボットに生命はなく、生命はつくれない、という単純明快なもの。その自分からすれば、「ロボットは人間ではない」という判り切った事実を否定するような動きが、世の中に生じている。一見、本人と見紛うばかりにそっくりにつくられたアンドロイドを、そのまま人間であると主張している(らしき)石黒氏に影響されたか、「精巧につくられたロボットは人間である」ということを真顔で言う学生が、私の勤める大学の哲学のコースには、何人もいるのです。それが、この方々の思想と実践から来るものだとすれば、石黒氏と池上氏のお二人とも、私の〈敵〉と言わざるをえません。
最初のエッセイですから、あまり突き詰めた議論に持っていくつもりはありません。当日の15分という、限られた持ち時間の中で、参加者に伝えようとした考えを、手短に説明します。まず、機械であるロボットが、絶対に人間にはなりえない理由は、単純至極。「考える我」から延長物体を切り離したデカルトの二元論によって、人間ではない機械を開発する道が開かれた、という事実。あらゆる科学技術の大前提は、「思考」(精神)と「延長」(物体)の区別にあります。どんなに精巧なロボットを仕上げて、「本物」に見せかけたところで、この出発点をチャラにすることはできません。機械を人間に「する」ことは、技術が二元論に立脚する以上、ありえない話なのです。

欲望と技術

にもかかわらず、ロボットを人間並みに仕立て上げることができる、と技術者が考えるのはどうしてか。そこに、〈欲望〉が絡んできます。過去に私の書いたものでは、特に技術、テクノロジーを主題として論じていませんが、近代の科学技術の底に〈欲望の論理〉が働いていることを、最近の著書では指摘しています。ここで、〈欲望の論理〉とは何かを再説することは、控えます――これからの連載中に、言及する機会があるでしょう。その要点は、主体(人間)と客体(事物)を分ける二元論が、意識の深部に潜むエネルギー(フロイト流に言えば「リビドー」)と結びついて、際限なく欲望を解発するシステムが実現した、つまり明示的な意識と暗黙的・無意識的な衝動が絡み合うかたちで、欲望の無限運動が生まれたということです。
科学技術の土台は二元論ですから、当然、欲望と技術の関係が問題になってきます。17世紀のデカルトが、「我思うゆえに我あり」という発見をもとに、精神と延長物体を分離して以来、心と身体、人間と自然が分断され、主体から切り離された客体(自然、他人)は、主体の意のままに操作できる〈資源〉となりました。この成り行きは、二元論の発想――それ自体は、何も間違ってはいません――から、二者の中間(あいだ)が取り落とされ、閉ざされたことによるものです(私の考える風土学のキーワード〈あいだ〉については、いずれご説明します)。二元論によって、〈あいだ〉が閉ざされるとき、客体はそれを支配しようとする〈欲望〉の視線にさらされ、支配利用の対象となる以外にない。科学技術は、欲望と結びつき、欲望と一体になって、環境破壊を推し進める原動力になってきました。
いま「科学技術」と一括りにしましたが、「科学」と「技術」は違います。「科学」が解明した自然のメカニズム、それに介入して利用する手続きを具体化するのが、「技術」の役割。科学と技術は、たがいに支え合い、たがいに依存し合って、パートナーシップを形成します。ですが、自然破壊の元凶という点で、科学と技術は同罪です。こんなドギツイ言い方をするのは、ここではむろん、科学技術の功罪のうち、「罪」の方に照準を合わせているからです。技術と欲望の結びつきを、もう少し説明します。
技術は、ある状態から出発して、目標を達成するための手段です。出発点と目標点を設定することから始まります。出発点と目標点との距離が明確で、手段と目的の関係がはっきりしている場合には、欲望は生じない。そういう距離が不明な場合、たとえば、取り組みとともに、目標点が蜃気楼のように遠ざかっていく場合、「見果てぬ夢」を追い続ける欲望が生じてくる。「人間をつくる」というロボット工学の目標が、その典型例です。〈ロボット=人間〉は、絶対に達成不可能な目標です。工学技術の出発点が、人間と物体を分ける二元論である以上、二つのものの隔たりは、原理上越えられない。しかし、越えられないにもかかわらず、いや越えられないからこそ、何とかして壁を乗り越えたいというのが、欲望の本質です。

欲望のゆくえ

欲望は充たされるでしょうか。二つの方向が考えられます。一つは、ロボットをどこまでも人間に近づけること――ロボットの人間化、技術者の取り組みです。もう一つは、人間をロボットに近づけること。これは、技術者よりもむしろ一般社会に関係します。最近の動向は、この二つが相俟って、あたかも欲望が充足されうるかのような幻想を生じさせています。
第一の方向は、池上氏が取り組んでいる「人工生命」の開発が典型的で、氏の著書『動きが生命をつくる』(青土社、2007)を読むと、単純な機械論の発想にはない「複雑系」が導入されるなど、生命現象に類した「動き」を機械に取り入れる技術が実現している、ということが判ります。氏の共同研究者である石黒浩は、自分にそっくりのロボットをつくって、人間と機械の隔たりを越えようとしていますが、そこに大きな問題があります。それは、原理上、絶対に越えられない壁が、越えられるという錯覚を人々に惹き起こしていることです。これは、第二の方向――「人間のロボット化」――に関係します。技術は万能ではなく、限界をもちます。どれだけ人間にそっくりなアンドロイドをつくろうと、壁は越えられない。その壁を「越えた」とする錯覚は、呪術(magic)に特有のものです。丑の刻参りの藁人形は、本人ではなく、その身代わりとして、本人と等価であるとみなされる。イシグロイドはそれと同じで、ここにあるのは、技術というよりも呪術の世界です。
しかし、これを「お呪い」の類と言って放置できないのは、呪術にたぶらかされて盲目となった連中、とりわけ若者が、数多くいることです。「精巧につくられたロボットは、人間である」、なぜそんなことを言うのか。何年も考えてきましたが、ここに来て、ようやくその理由が解りました。「ロボットは人間である」という言葉の裏に、「人間はせいぜいロボットと同程度の存在にすぎない」という、もう一つの判断、人間否定の意向が働いています。ハイテク社会の現代、人間が従来その存在の証としてきた「高貴な」人間性など、発揮すべくもない。「人間」として、まともに生きられない以上、自分はロボット並みの存在で沢山だ……これが若者のホンネです。人間が人間として生きられない現実、それを彼らは、「ロボットが人間である」という逆説によって、訴えているのです。重ねて言うなら、若者は〈人間〉として生き続けることのプレッシャーに押しつぶされています。石黒氏は、私の眼からは、藁人形に魂を吹き込もうとする女行者にしか見えないが、現代社会の実相を私に解らせてくれた「恩人」だ、そう言えなくもありません。

「技術の哲学」に向けて

テクノロジーの礼賛者にとっては、多分に胸糞の悪い言辞を書き連ねましたが、こちらとしてはまだまだ言い足りない、そういう思いで一杯です。ですが、悪口はもうやめましょう。私のHPにわざわざおいでくださった方々に、これから続く予定のエッセイで、どういう内容をお目にかけるつもりなのか。その点にふれて、連載の第1回を切り上げることにします。
香港の技術哲学者ホイは、先ほどご紹介したように、サイバネティクスから想を得て、機械と生命の〈あいだ〉を開くcosmotechnics(宇宙技芸)をうちだそうとしています。この人は、若い(?)――年齢を訊ねた私に、「秘密!」と返しましたが――に似ず、目を見張るような学識とともに、困難な課題に挑戦しています。いまのところ、それに期待をかける以外にありません。というのも、〈欲望の論理〉を克服する方向に追求すべき技術とは、どういうものであるのか、それを実現するために、企業や社会のどのようなシステムが必要なのか、を提言できるだけの用意は、現時点の私にはないからです。ただ、その著書から窺うかぎり、現在のホイ・ユクに〈欲望〉の問題についての洞察は見られません。
私としては、世の技術哲学者が見過ごしているそういうテーマを、これから考えたいと思います。当面の課題は、〈欲望と技術〉の関係に光を当てることです。今回のエッセイを読まれた方々には、HP最後の「出会いの広場」に、感想・質問・意見をお寄せくださり、対話の輪に参加してくださるようお願いします。そこから生まれるアイディアが、「テクノロジーのゆくえ」という未解決の問題に挑もうとする私にとって、大きな弾みになると信じます。(次回に続く)

コメント

    • 宮原秀彦
    • 2019年 11月 29日
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    長い、難しい。
    また、時間かけて読みます。

    • 口ノ町 一男
    • 2020年 1月 10日
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    ドラえもんもあいちゃんも人間ではないけど、なぜか魂が吹き込まれている様な錯覚に落ちる。しかしこのふたつは必ず人間が指示しないと見かけ上の命は生まれない。けれどもこれからのアンドロイドは自立する可能性が高く、そうすると機械生命体の様になkつてsじゅまうかも。
     今のアンドロイドは上記の中間位にあって遠隔地のひととひとを結びつけるツールとして活躍していないだろうか。この続きはまたにしたいと思います

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 23日
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    「これからのアンドロイドは自立する」――そういう考えが生まれたのは、鉄腕アトムやドラえもんのように、「人間化するロボット」というフィクションに、私たちが馴染んできたことの証拠です。私が哲学の立場から言おうとしたのは、①ロボットが人間になることは、原理上不可能であるということ、②にもかかわらず、それを信じようとするのは、人間の〈欲望〉だということ、この2点です。それと、アンドロイドをツールとしていかに活用するかは、別の問題。こちらについては、技術の可能性をにらにながら、いろいろ議論していく必要があると思います。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 18日
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    1、石黒氏は、私の眼からは、藁人形に魂を吹き込もうとする女行者にしか見えない。
      魔女裁判における検察官の冒頭陳述の様に聞こえます。
    2、工学技術の出発点が人間と物体を分ける二元論である以上、ロボットが人間になる事は原理上不可能である。
      ①「ないことの証明」は「悪魔の証明」で実施不能ではないでしょうか?
       実施不能は何らかの制約条件下(現在では・地球上では)においてではないのでしょうか?
      ②「科学進歩の障害は,大衆の無知ではなく専門家の固定観念である。」との諺を聞いた事があります。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 18日
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    1.私は石黒氏の仕事や考えをあまり知らないので、彼が何を本当に目指しているかはわかりませんが、テレビでタレントのマツコ・デラックスのアンドロイドを作って、それを小学校の教室を置き、子供たちと会話させて子供がマツコを本物と思うかみたいなことをやっていたのだけ見たことがあります。ちなみに子供の会話相手はアンドロイドのカメラ越しに子供達を見ている本物のマツコ・デラックスです。結構リアルで、受け答えは本物のマツコがやっているので、意外と初めは騙されてたように思います。
    本物のマツコに受け応えさせるのは番組上、仕方ないとはいえ、つまらないですね。そもそもマツコという子供たちにもわかりやすいキャラでやったのも、つまらない。
    なぜつまらないのかといえば、この実験は、人は他者のどのような振る舞いを見て、他者に心があると見なすのかを知る実験となるはずなのに、わかりやすいキャラでそれをやるのはハードルを下げ過ぎだと思うからです。
    哲学的ゾンビ問題というのがありますね(私自身はそんなに面白い問題とは思いませんが)。他人には本当にこの「私」ような心があるのだろうかという疑念です。理詰めで考えたら、あるとかないとか言えないですね。でも、我々はなんの問題もなく、他人に心があると見做しています。これはあまり自明なことではありません。「蟻には心がない」とかいう人もいるからです。ミジンコとか、単細胞生物になるともっと微妙です。犬は我々に近い心があるだろうと思う人が多いでしょう。どの程度の振る舞いをする存在になら、私たちは相手に心があると思うのか、その臨界点を探るために藁人形に魂を吹き込んだフリをするのは、それなりに意味のある探求です。ただそれは本当に藁人形に魂を吹き込むこととは違いますね。ちなみに私は、何かを「これは何々だ」と見なすことが、魂を吹き込むことだと思っています。目の前のパソコンは、私が「パソコンだ」と思うから「パソコン」であり、本当はただの無数の原子の塊に過ぎませんから。何かに魂があると思うのは、そうした人間の認識行為の派生だと思っています。

    2.心身二元論が本当に正しいのなら、ロボットを人間にすることは不可能ですね。物体と魂は全く異なる次元の存在だとするのが心身二元論ですから。物体から精神は出てきようがありません。松果腺がどうこうというデカルトの説は、全く心身二元論に反しています。松果腺等で説明できるなら、精神は物体だということになります。
    逆に二元論が正しくなければ、我々が物質と呼ぶものから、我々が精神と呼ぶものを生み出す可能性があります。実際、おそらく我々がそういう存在なはずですから。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 19日
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    もし外見が全くの人間で人と自然な会話が出来たなら、どうやって人間かどうかを見分ける事が出来るのでしょうか?
    また、その人が普通に生活し社会に貢献して居たら、見分ける事自体が必要なのでしょうか?(B級ホラーSF映画にありそうな設定です)
    中世の錬金術師は卑金属から貴金属へ変換しようと、様々な実験を続けましたが成功しませんでした。
    元素の分裂・重合は化学では不可能で、核物理学の進歩を待ってやっと実現しました、
    生命・意識は物質なのかエネルギーなのかそれともその他の要素が存在するのでしょうか?
    現代化学ではまだ不十分ですが、遠くない将来に解明されると思えます。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 19日
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    その存在が「怪我」をしたり「病気」になったら、人間との違いが出てくると思います。
    助けたいのであれば(人間の技術で助けられるかわかりませんが)、見分ける必要があります。まあ自己申告してくれれば問題ないですね。

    私自身は化学物質以外のその他の存在が現実としてあるとは思わないですが、解明されたところでまた謎が深まると思いますね。

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