毎月21日更新 エッセイ

テクノロジーの問題(2)

欲望の論理

 連載「テクノロジーの問題」の第1回(11月)では、技術(テクノロジー)の底に〈欲望〉が潜むという私の考えを示し、ひきつづき「技術と欲望の関係」をテーマとしていく考えを述べました。最近の拙著(2014年の『〈あいだ〉を開く』以後)に、しばしば登場する〈欲望の論理〉。まず、それをご存じでない方に向けて、それがどういうことを意味するのか、そのどこに問題があるのかを、今回は説明したいと思います。それから、先回りして申し上げますが、近年の情勢から、〈欲望〉の内容が変化してきたのではないか、という印象が生じています。そう思える理由を、いくつか挙げてみます。そういう次第なら、これまで私が〈欲望の論理〉に込めてきた意味も、変わらざるをえないことになります。すでに仕上げたつもりの風土学理論の重要な柱に、手を加えなければならない、ということになるわけです。

資本主義と欲望

 見出しに掲げた二つのものは、たがいに切っても切れない関係にあると考えられます。それには先例があります。ずいぶん前に出た本ですが、佐伯啓思『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書、1993年)は、「資本主義の本質は、欲望開拓のメカニズムである」と明確に主張しています。刊行された当時、それを読んだ私は、そこから影響を受けていろいろ考えた結果、自分なりの〈欲望の論理〉という着想に到達しました。最近のBS番組でも、『欲望の資本主義』が2017~2019年の3年続きのシリーズで放映されたことは、ご存じの方も多いでしょう(番組制作に合わせて、同名の書物も刊行されています。丸山俊一ほか著、東洋経済、2017年)。「資本主義」――capitalismは、「イズム」がつくものの、主義・主張ではなく、経済システムであるとして、「資本制」と呼ぶ上野千鶴子のような社会学者もいます――のシステムが、「欲望」とつながりをもつという事実は、世間一般に承認されているようです。

 前回のエッセイで、私は「欲望」と「欲求」が同じでないこと、「欲求」が有限であるのに対して、「欲望」は無限であるとして、両者の違いを強調しました。欲求が個々人の生理的身体の問題にとどまるのに反して、欲望は資本主義と結びついて、社会全体を支配する。そこに、両者の比較にならない違いが生じてきます。この点を説明するためのキーワードが、〈欲望の論理〉という言い回しなのです。

欲望の「論理」

 旧著『邂逅の論理』(2017年)の第一章、第三章で取り上げた〈欲望の論理〉は、近代社会の中で資本主義が広がっていく運動の原理を表します。

1)19世紀の西欧社会で、資本主義が成立し発展する。資本主義体制の下で、主体に客体である自然および人間を支配し、利用したいという欲望が目覚める(あるいは、他者や自然を支配したいという欲望が、資本主義の出現によって一気に高まる)。

2)先進資本主義国(「北」)が、非西洋の後進地域(「南」)に欲望の視線を向け、支配・搾取の対象とする。

3)最初は「北」の欲望の客体でしかなかった「南」が、「北」の欲望に支配されるうちに、自身の内なる欲望に目覚めて主体化する。ここに、欲望の〈転移〉が成立する。

4)かくして、全世界が欲望の主体として、たがいに競い合う〈欲望のグローバル化〉が生じる。

 『邂逅の論理』では区別しなかった1と2を、ここでは別にしたので、テクストで三段階とした欲望の発生、転移、普遍化のプロセスは、計四段階になります。きわめて大まかな、この〈欲望の論理〉によって私が意図したのは、「この言い回しによって、環境破壊の元凶である資本主義的近代の本質的な問題点の所在を、図式化して示すこと」(同書69頁)です。今回の四段階説は、〈主体―客体〉を分ける二元論と資本主義をいちおう区別して、二つの契機が一体化する1の歴史的段階を、他の三つから切り離して特定したことが特徴です。

「南北問題」に複雑で込み入った歴史的経緯があることは、イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム論」などで、よく知られています。ですが、〈欲望の論理〉は、そういう込み入った歴史的展開の細部は省略して、資本主義の本質が、先ほど挙げた「欲望開拓のメカニズム」(佐伯啓思)であるという事実だけを、ズームアップした表現です。

 とはいえ、欲望の「論理」とはどういうことか、これが問題です。というのは、どなたもご承知のように、欲望はコントロールすることが難しい本能のようなもので、それに「論理」があるなどということは、ふつうに考えられないからです。欲望は、無意識の底でうごめく、混沌としたエネルギー――フロイトは、それを「リビドー」(欲動)と呼びました――ではないか。そうだとすると、明確な思考の筋道を意味する「論理」は、欲望とはまったく異質なものであり、その二つをくっつけた〈欲望の論理〉は、木に竹を接ぐような表現だ、ということになるでしょう。しかし私は、『邂逅の論理』の中で、近代の本質を言い表す言葉として、あえてこのような言い回しにこだわりました。その理由は、次の点にあります。

意識と無意識の〈あいだ〉

 上に挙げた資本主義の段階1では、資本主義体制下において、主体が客体を支配・利用する「欲望」がめざめる、としています。これが成り立つ条件は、主体と客体を分ける二元論です。主体の抱く欲望には、それが向かうためのターゲット(客体)が必要です。デカルトがうちたてた主客二元論は、その意味で、主体が客体を支配するための呼び水にほかなりません。主客二元論の枠組は、無意識の底でうごめくリビドー(欲動)にとって、おあつらえ向きの吐け口になります。とはいえ、主体が客体を欲するとしても、いつでもどこでも明晰判明な二元論が意識される訳ではないでしょう。ですが、いったん主客分離の明確な形式が出来上がったなら、その後は放っておいても、そこに無意識のエネルギーが注ぎ込まれ、あたかも自動機械のように作動することが可能です。この事態は、意識の深層と表層、無意識と意識の連携協働による心的メカニズム、かつてドゥルーズ=ガタリが「欲望-機械」と名づけたものが、つくられていくプロセス、と見ることができるでしょう。私が、あえて欲望の「論理」という言い方を選んだことの大きな理由は、欲望の働きの大本に、二元論的思考が介在するという事実です。

 もう一つ、欲望の「論理」にこだわる理由を挙げましょう。欲望が、無意識に潜む本能でしかないなら、それを意識によって制御することは難しい。理性の力で欲望を抑えることなど、ほとんど不可能だという話になるでしょう。しかし、たとえ見きわめがたい意識の深みから発するエネルギーであったとしても、それが表層に現れ出る瞬間をとらえて、その正体を見破り、何とかしようとしてブレーキをかける程度のことなら、できるはずです。欲望の〈原因〉を突きとめて、それを除去する、というような対応策はとれなくても、それが発現しようとする局面を意識して、待ったをかける。そういう可能性が、「正しい思考の筋道」である「論理」には、あると考えられます。そういう場合、意識は、客体が欲望の視線にさらされているありようをひたと見つめ、これではいけないと反省する。このような反省に至る道筋が存在する、という含みで、私は、欲望の「論理」という言葉を使用したいと考えたわけです。

 いま申し上げたとおり、〈欲望の論理〉は、欲望が無限に自己展開する運動のメカニズムを意味しつつ、他方、欲望をのりこえる自己超克の可能性を指示する、という正反対の方向性を含んでいます。欲望は、自らを肯定して〈悪〉の極致に至る可能性と、そのことの自覚をつうじて〈悪〉から脱却する可能性、この両方に向かって開かれています。私の言うことが、難しいと思われたなら、親鸞の「悪人正機説」を思い浮かべてみてください。ふつうに考えられる宗教的な救済とは違い、親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)と語り、善人ではなく悪人こそが往生(救済)に与れるのだ、とする逆説を説きました。「悪人」自身が、「悪」の自覚に徹することで、悪人を救い上げる如来の「摂取不捨」に与る、という深い宗教的な真理が、ここに明かされています。もっとも、ここは宗教を語る場ではありません。〈欲望の論理〉といかに向き合うか、という問題をここから考える前に、どうしても見ておかなければならない、重大なテーマがあります。それは、最初に断ったように、資本主義の進展とともに、欲望の内実が変化してきたのではないか、という問題です。

変質する欲望

 19世紀以来の産業資本主義は、20世紀後半の「ポスト産業社会」(脱工業社会)に至って、終わりを迎えました。20世紀前半までの、工業生産を中心とする「ものづくり」が、大量生産・消費のピークを迎えたことで、投資の対象は、モノから情報に向けられることになる。20世紀後半を特徴づける「情報化」によって、新たな「情報資本主義」の時代が開かれました。その勢いは、現在もとどまることがありません。産業化と情報化、いずれの時代においても、主役は技術革新で、それまで存在しなかったテクノロジーによって、資本主義の中身が大きく変化してきました。欲望と資本主義の関係は、技術の発展に左右されてきたという事実に、おそらく間違いないはずです。

 IT(情報関連技術)が氾濫する現代社会。そのすさまじさは、例えば、電車に乗って自分の周囲を見回してみると、ほとんど全員が何かに憑かれたように、スマホ操作にかかり切っている、そういう場面を挙げれば、それ以上の説明は不要でしょう。20年前には見られなかったこの情景は、携帯電話が普及して以後、いまや情報社会の原風景、とでも言いたい様相を呈しています。いったいどうなっているのか、という慨嘆など漏らそうものなら、私より年長でいて、こともなくスマホを使いこなしている人たちから、「お前さんは遅れている」の一言が必ず返ってくることでしょう。

 そう、「遅れている」それは確かです。ですが、私のように情報社会の最後尾を、亀のごとくノロノロ歩いている者からすると、つい昨日まで目にしなかった情景が、当たり前のように繰り広げられ、人々がそれに違和感なくはまり込んでいる変わり身の早さが、異常に映ります――なぜ、どういう事情があって、自分の生活スタイルを変えることに、それほど無抵抗でいられるのだろうか、と。そういう印象は、30数年前、私の学生時代には当然であった原稿の手書きが、急速にワープロに取って代わられていった時期のそれに重なります。専門研究者の仲間に入ったばかりの若造が、「文体が変わるのは困る」として、ワープロの導入に抵抗の姿勢を取るのに対して、当時の先輩連中から、お前は何を言っているのか、と笑い飛ばされたものです。使えば必ず能率が上がる、便利な道具を拒む理由として、「文体」云々にさほど説得力があるでしょうか。やがて世間の軍門に降った私は、それなりにパソコンを使いこなす身となりました。今や手書きの原稿を作成することは、まずありません。

 当時を顧みて、いま申し上げたいのは、新しい技術に飛びつくことを控えるのは、社会がそれを許さないギリギリの時点まで、状況の推移を観察しつづける態度。そういう姿勢には、それなりの意味があるのではないか、ということです。そのことは、〈欲望〉の問題に関係します。という理由は、風呂敷のように世界全体を覆うハイテク化の誘惑は、それを撥ねつけるのに、――最初からその世界の「弱者」にとどまろうとしないかぎり――相当の勇気を必要とする、それぐらい強い力をもっていると見うけられるからです。イノベーションの成果は、それを拒否する特別の事情がないかぎり、瞬く間に社会に拡がり、やがて全世界を席巻します。水が低きに流れ落ちるように、その勢いはとどまることを知りません。「抵抗」を口にすることが憚られるような、有無を言わさない力が、ハイテク化には含まれています。私の見方は、間違っているでしょうか。

 産業化が進行する時代、欲望は自分が所有しないモノ、憧れの対象に向けて発せられました。高度資本主義の世界において、産業化の行き着いた先に、モノに代わる欲望の標的―—情報――が生まれ、〈情報への欲望〉という新しい欲望の形が生み出されました。ケータイからスマホへ、ワープロからパソコンへ、という技術革新の波は、それに乗り遅れることが許されない状況を現出し、われもわれもと競うように、その流れに入り込むあり方を生み出したのです。とはいえ、そういう人々のだれ一人、自分が〈欲望〉に取りつかれているなどとは考えない。自分から求めた動きであるより、あらかじめ敷かれたレールに乗っかるように、いわば受け身的に参加しているだけですから、それは当然です。欲望にとりつかれている、とは夢にも思わない。それほど隠微に、したたかに仕組まれた〈欲望のネットワーク〉に人々を誘い込む、巨大IT企業の仕掛人たち。もっとも、GAFAなどの経営責任者が、そういう事実をどこまで意識して、人々を欲望の渦の中に誘い込んでいるかについては、疑問が残ります。そんなふうに、〈能動-受動〉を区別することができない自己発展的システムに、彼らを含めて万人が巻き込まれている。そういう穿った見方も、できないわけではありません。

全体主義の流れ

 以上に述べたことは、個々人が特定のアイテムを志向する従来型の欲求とは違い、抗いがたく迫ってくる大きな力に従っている、というより従わざるをえない状況が存在する、という事実を物語っています。〈欲望の論理〉によって、私が想定したのは、19世紀以来の産業資本主義における〈生産-消費〉のシステムです。『邂逅の論理』に示した南北問題の三段階(本エッセイでは、四段階)の構図、「北」から「南」への欲望の転移による欲望のグローバル化、という図式は、欲望の主体と客体を明確に区別した上で、主客の入れ替わりが生じるというものでした。モノの〈生産-消費〉にかかわる欲望なら、そういう二元論的な説明図式を当てはめることができます。しかし、こと情報に関しては、主客を明確に区別することができない。情報を発する主体と受けとる主体が、一つになってしまう。そういう事情を、「抵抗しがたい大きな力」という言い方で、ひとまず要約したわけです。

 ここから追究したいと思うのは、欲望の「全体主義」というテーマです。ただ、そういう言い方で一括りにしてしまう前に、「欲望とは何か」という基本的な問題に立ち返って、じっくり考えてみる必要があります。欲望は、単純に何かが欲しいという欲求ではなく、欲求充足のように、それを手に入れることで収まるような心理ではありません。このことを第一回のエッセイで、「欲求」と「欲望」の違いとして説明しました。欲求は有限だが、欲望は無限に拡大する。そう言ったことの理由を、さらに追究しなければなりません。

 欲望は無限増殖する。このメカニズムを開発したのが、資本主義の経済システムです。何かが欲しい→欲しいものが手に入る→さらに次の何かが欲しくなる→…というように、一つの欲求が充たされるや否や、新しい標的が現れる。それを手に入れると、さらに新しい標的が現れる、というように、果てしなく続く欲望追求のプロセス。欲望には切りがない、と言ってしまえば、それでおしまいのようにも思われますが、何かに触発されることで欲望が発展していくと考えるなら、話は複雑になってきます。欲望が無限増殖することの本質的メカニズムを、「模倣」として言い表した思想家がいます。フランス出身の文芸批評家ルネ・ジラール(1923-2015)。この人は、『欲望の現象学』(1961年、原題の「ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実」は、邦訳の副題。古田幸男訳、法政大学出版局、1971年)という書物の中で、「欲望の三角形」という有名な理論を展開しています。その考え方を紹介しましょう。

三角形の欲望

 ふつう欲望は、主体(S)が特定の客体(O)に向けるものと考えられています。ところがジラールは、主体を客体に結びつける「媒介者」(M)の存在を考え、〈S-M-O〉の三者関係によって、欲望のはたらきを説明しています。これが、有名な「欲望の三角形」の理論です。欲望が、〈主体-客体〉の二者関係で完結するという考えは、「考える我」とそれ以外のものを分ける、デカルトの二元論から生まれた近代の個人主義。自律的な個人が、他からの影響を受けることなく自己決定する、というおなじみの考え方ですが、ジラールはそういう個人主義を「ロマンティークの虚偽」として退け、主体の欲望なるものは、客体以外の第三者によって媒介される、という三項図式をうちだしたのです。こういう思想は、近代社会を動かしてきた二元論の枠組を否定し、つくりかえる狙いを秘めています。

 欲望が「他からの影響」を受けるとは?わかりやすい例で言うなら、他人が何かを欲しているのを見て、自分もそれが欲しくなる、という場合。そういうことが、よくありませんか?私にはそういう覚えがあります。小学生の頃、教室にいる隣の子が、親に買ってもらった新しい文具を見せびらかしているのを見て、あれが欲しいと親にねだる、というような… だれにでも、そんな思い出があるでしょう。ジラール流の表現で言うなら、それは「他者の欲望の模倣」です。一つしかない客体(例えば、恋人)を、自他がともに欲求する場合、他者は私のライヴァルになる。その場合、他者は私の欲望を内的に媒介する、と言われます(媒介者が主体とライヴァル関係に立たないケースは、「外的媒介」とされますが、話が込み入ってくるので、説明を略します)。

 ここに、「欲望の三角形」が成立します。主体甲が客体乙を欲する。そのとき甲は、媒介者である丙の乙に対する欲望を「模倣」するという形で、<甲-乙-丙>を結ぶ欲望の三角形が成立します。この図式に従って考えるなら、私が何かを欲する場合、その欲望は、同じ客体を欲する他の誰かに触発(つまり媒介)されることによって生じたものだ、という解釈が成り立ちます。そう考えることは、妥当でしょうか。「欲望の三角形」を発案したジラールの本領は、文芸批評です。彼が分析の例に引くのは、ドストエフスキーなど世界文学の傑作ですが、ここではそういう特殊な事例から離れて、私たちにとって身近な現代社会のあり方を見ることにしましょう。

 具体的な例――電車で自分の横に座った客が、新機種のスマホを操作し出したとします。それは、3年前に買った自分のものより明らかに高性能で、使い勝手がよさそうだ。そろそろ買い替えるなら、これがいい… 自分が何かを所有したいという思いは、同じ思いを共有する他人を知ることによって、触発されるのではありませんか。私自身の気になる一例を挙げました。いつ頃からでしょうか。ケータイがスマホに取って代わられ、向かい合わせの座席に座っている人たちが、全員、それを一心に(?)使う光景を目にするようになったのは。欲望の「模倣」あるいは「相互媒介」とでも言いたい情景が、目の前に繰り広げられています――蛇足ながら、私はそれに対する抵抗の意識もあって、いまも旧式の「ガラケー」しか使いません。

情報と欲望

 上の例から確実に言えることが、ひとつあります。それは、三角形の図式で表される欲望の模倣は、情報社会において生じやすい、というよりも情報社会と文字どおり一体で展開する、という事実です。スマホの普及は、情報化がどういうものかを端的に物語っています。他人が新機種の製品を使いだした、それはクールだという情報が、またたく間に世の大多数に共有され、人々は、われもわれもという勢いで当の商品に飛びつく。その結果が、昨日までとは一変する前述の光景を、すぐさま生み出すというわけです。「情報社会」は、無数の情報を人々が共有する、というより共有せざるをえない状況を表し、それゆえ他人の欲望を自身が模倣せざるをえない状況をつくり出しました。先ほど挙げた「欲望の三角形」は、内に閉じられることなく、外へと無限に拡大します。つまりそれは、〈甲-乙-丙〉として完結することなく、〈乙-丙―丁〉…という仕方で、一つの三角形に続く別の三角形を、次から次へとつくりだしてゆく。というと、あたかも時間を要する連鎖反応のようですが、情報化の実状は、情報伝達が一瞬に起こるところにあります。ふと気がついたときには、誰もが新しいアイテムを手にしている、というように。誇張でしょうか。

 話をあまり急がず、ジラールの提示した理論の線に返って、考えるようにしましょう。主体甲が客体乙を欲するようになるのは、他の主体丙が同じく乙を欲しているからです。このとき丙は、甲の欲望をめざめさせる「内的媒介」者として機能します。しかし、いま申し上げたような情報社会では、特定の人間が内的媒介を行うというより、すべての主体が、たがいに欲望を模倣し合う内的媒介者となる関係が、否応なく成立します。「万人の万人に対する戦い」(ホッブズ)をもじって言うなら、「万人の万人に対する欲望」が社会全体を覆う、というあり方です。

では、そういう社会で自分が自分であるために、何が必要なのか。自分は、一個の商品を獲得することによって、他者の欲望を模倣する主体になると同時に、他からその欲望を模倣される媒介者の地位に立つことができます。社会の中で、この二重の役割を引き受けることが、情報社会に参加するための必須条件になるわけです。自身が欲望を抱くこと、他人に欲望を模倣されること、主客を異にするこの二つの出来事が、無理なく両立するためには、欲望がそのつど意識されることなく、ごく自然に演じられる必要があります。「欲望の無意識化」が、情報社会の大きな特徴になる。だからこそ、電車内でスマホをいじっている人たちは、例外なく、あのように淡々と、クソ面白くもないといった風情で、その行為に没頭できるのです。

とはいえ、無意識的に欲望を演じる一員であるというだけで、その人が自分のアイデンティティを実感できるでしょうか。情報社会が、いま申し上げたように、自他がたがいの欲望を無意識的に模倣し合う社会であるのなら、まずそこに位置を占めるという必要から、誰もが所有するのが当たり前の客体――スマホのような商品――を手にする必要がある。それは、社会参加の資格を充たす最低限の行為であって、それを充たしたからと言って、別にその人の個性が際立つわけではない。ここから先の問題は、自分が他人並みであることに加えて、他人から区別される何らかの資質を具えていることをアピールしなくてはならない。それが、「承認欲求」につながります。今回の話は、ここまでとしましょう。(つづく)

コメント

    • 木場雅次
    • 2019年 12月 21日
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    『欲望は、主体(S)が特定の客体(O)に向けるものと考えられています。』との事です。

    しかし、最近は「自分が**になりたい」との欲望が増えている様に思えるのですが?

     例:筋肉ムキムキマンになりたい。IT機器を自在に操れるようになりたい。

    この欲望の場合も自分自身が「特定の客体」になるのでしょうか?

    • 木場雅次
    • 2019年 12月 23日
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    私が子供の頃、「3種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、「3C」(カラーテレビ、クーラー、自家用車)が憧れの商品として人々の欲望を掻き立てました。
    今、皆の関心は何でしょうか、健康・グルメ・旅行 等でしょうか?
    物欲から体験・変身願望に推移している様に思えます。
    国家目標については如何でしょうか?
    1853年にペリー提督が来訪以来、1945年の敗戦まで日本の国家目標は軍備拡充であり、その指標は戦艦の数と大きさでした。
    戦後、日本は経済復興に専念し国家目標は豊かな国造りであり、その指標はGNPでした。
    しかし、経済の隆盛に伴い為替は360円/ドルから2011年には75円/ドルにまで高騰し、輸出産業は大打撃を受けました。
    一方、2001年に470万人だった訪日外国人は2018年には3120万人に、インバウンド需要額は4兆7700億円に達しました。
    4兆7700億円は繊維工業の出荷額と比肩できる産業規模であります。
    訪日外国人の目標は2020年までに4000万人・8兆円、2030年には6000万人とされ、日本の新たな国家目標の指標になった様です。
    漫画・アニメ・ポップミュージック・コスプレ・フィギュアー等のサブカルチャーの雄、アニメーションは市場規模が2兆円を超えました。
    アニメや漫画がきっかけで日本に興味を持った人は訪日アジア人の56.6%に上ります。
    彼等はドラゴンボール・ドラえもん・スラムダンクを見て育ち、その価値観・美意識を日本人と共有しているのです。
    日本の国家目標は「武力」から「経済力」そして「文化力」へと変遷してきた様です。
    個人の欲望が「物欲から体験・変身願望」に、国家目標が「武力から文化力」へ変わってきたのです。
    これは日本人の欲望が量的な無間地獄に陥っているのではなく、動物的生存欲求からより高次元の精神性な自己実現の質的欲望へと昇華してきたのではないでしょうか?
    素晴らしい事だと思います。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 24日
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    12.21のコメントについて――
     「変身願望」については、自分がなりたいもののイメージ(ex. 筋肉ムキムキマン)が「客体(O)」になります。自分以外に、同じ願望をもつ他人がいた場合、その他人が「媒介者(M)」になる。ジラールの言う「三角形の欲望」の図式では、自分自身が欲望の主体=客体であるというような解釈は成立しません。
    12.23のコメントについて――
     個人・国家における欲望が、物質的な所有欲から精神的・文化的次元に高められたことを「素晴らしい」と称賛されています。ご自身がそういう見解を抱かれることは自由ですが、私の考えとはまったく異なります。戦後の経済成長が、「無間地獄」から脱して「衣食足りて礼節を知る」豊かな社会を実現したこと、そのことにケチのつけようはありません。その時点で、欲望は物質の所有から「自己実現」に向かうけれども、その内実は「自分をよく見せたい」「他人から認められたい」といった承認欲求に過ぎません。ものづくり中心の産業資本主義から情報資本主義に変わって、「情報」に踊らされているだけのこと。「国家の文化力」――いったい何のことですか。国と国の関係は、他国を凌いで上位に立とうとする剝き出しのエゴ丸出しではありませんか――米中の対立をはじめとして。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 06日
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    欲望の「論理」あるいはジラールの「欲望の三角形」のえげつないところは、それが相対的な貧困を生むところですね。
    相対的貧困は主観的なもので、エッセイでもいくつか例が出ているように、「他人は持っているのに、俺は持ててない」という認識が貧困感を生み出します。
    例えば、シングルマザーで家計が厳しいお母さんでもスマホの通信費は維持しようとする場合がありますね。もちろんスマホがあるのとないとでは便利さが違うというのもありますが、やはり「他の同世代のお母さんは持っているのに、私は持ってない」というのが辛いというのも大きいと思います。LINEなどアプリによるコミュニケーションから排除される不安もあるでしょう。
    取り付け騒ぎと同じで、いざそれが始まってしまったら、便乗しない方が不合理になってしまうのが辛いところですね。
    また少し前の若者の中にはホリエモンとかスティーヴ・ジョブズに憧れた人がいると思います。「内的媒介」とは少し遠い存在のようにも見えますが、一方で彼らはめちゃくちゃ金を稼いでる割りに、Tシャツにジーパンにサンダル履いてマクドで美味しそうにハンバーガーを食っていてもおかしくないイメージです。身分社会が終わり、階級も解体されつつある今、見た目やライフスタイルは平等の割に、資本力だけ桁違いに違う状態が、マクドのカウンターで隣り合ってハンバーガーを食べてる二人に起こりえています。それが余計に「俺もあいつみたいに」と思わせる遠因にはなっていそうです。

    グローバル化は世界の絶対的な貧困を減らすことには貢献していますが、それと結びついた資本主義は相対的貧困や格差は圧倒的に拡大しています。
    グローバル化そのものは絶対的貧困を減らす上でも重要と思いますが、資本主義をどうすればいいのか。

    最後に豆知識(木岡先生はご存知かもしれませんが)
    Facebookの「いいね」が承認欲求を掻き立てる様々な評論家が批判的に言及しています。
    実際、哲学・思想にそこそこ詳しい人は「ああ、ジラールの『欲望の現象学』ね。昔から言われてることだよ。あんなのに踊らされてちゃダメだよ」と思うでしょうし、私もそんな感じでお高く止まっていました。

    ところが去年厄介な事実を知りました。
    Facebookに多額の投資をし、自身もそのシステム開発に様々な助言をしたという超有名テクノロジストのピーター・ティールの指導教官がルネ・ジラールだったのです。
    https://thesocietypages.org/cyborgology/2016/08/13/mimesis-violence-and-facebook-peter-thiels-french-connection-full-essay/

    ティールがどこまでFacebookの開発に関わったのかはわかりませんが、ジラールの理屈をわかった上で、開発している可能性がかなり高いです。
    文系学部廃止問題で、再び哲学や文系は役に立たないという言説がもてはやされましたが、役に立つどころか普通に「悪用」される現状を考えた方がいいと思います。
    似たような事例を挙げると、第一次大戦時、ウィルソン大統領が設立した大衆情報委員会(CPI)に所属し、アメリカの大戦への貢献が「全ヨーロッパに民主主義をもたらす」とプロパガンダを行い、「近代広報活動の父」とも呼ばれるエドワード・バーネイズはフロイトの甥です。彼は自身の活動に叔父の学問的成果を利用し、アメリカの参戦に貢献しました。叔父のフロイト自身はその後「死への欲動」という概念を作り出すくらい、この戦争にショックを受けたのですが。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 5月 09日
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     懇切なメッセージをありがとうございます。欲望の「内的媒介」が「相対的貧困」を生むという指摘は、非常に示唆的です。「欲望」に「貧富」の問題を結びつける必要があることを教えられました。ジラールの言う「外的媒介」は、「神」が典型であるように、直接ライヴァル関係に立つことがないモデル、例に挙げられたホリエモンやジョヴズが、それに相当します。今回は議論を略しましたが、宗教などに絡めて取り上げる必要があるかと思います。
     「豆知識」と言われましたが、なかなかどうして、私の知らないことばかりです。ジラールの「スケープゴート」理論は、昔よく取り上げられた記憶があるものの、欲望の理論をマーケティングに応用する輩がいるとは! 行き届いたフォローをしてくださり、感謝に堪えません。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 09日
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    やはり「外的媒介」ですかね。みんな、彼に嫉妬するというより、彼のようになりたいという感じですからね。ホリエモンがドン・キホーテのアマディースになるのがちょっと癪ので「内的媒介」風に言ってしまいましたが。この私の心情もジラール流に解析されてしまいそうです(笑)

    • kiba1951
    • 2020年 5月 18日
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    1、「資本主義体制下において主体が客体を支配・利用する「欲望」が目覚める、としています。これが成り立つ条件は主体と客体を分ける二元論です。」とあります。
    「欲望は無限増殖する。このメカニズムを開発したのが、資本主義の経済システムです。」とあります。
    人間の欲望に対して「二元論」や「資本主義の経済システム」を持ち出さなくても、「金とゴミは溜るほど汚くなる」「這えば立て、立てば歩めの親心」で済むのでは?
    3、「主体甲が客体乙を欲する。そのとき甲は、媒介者である丙の乙に対する欲望を「模倣」するという形で、を結ぶ欲望の三角形が成立します。」とあります。
    新商品のヒット率は18%余りで、欲望が他者との関係性によって働く事は主要因ではなく加速要因に過ぎないのでは?

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 18日
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    1.欲自体は「私はお金を欲する」みたいに「誰が」「何を」の形式を取るので、主体・客体なしに考えるというのはなかなか難しいと思います。そういう意味で二元論的です。どの時代、地域でも、そうした欲は普遍的にあるわけですが、「資本主義がそうした欲を「欲望」に進化させたのだ」というのが木岡先生が主張だと思います。厳密にどこまでそうと言えるのかは歴史学者や経済史家に任せますが、資本主義が私たちの欲望に常に当て込んでいるのは事実でしょう。欲望の無限増殖と言うと、「私たちは別にそこまで欲に塗れていないよ」と思うかもしれませんが、常に誰かが何かと何かを交換したいという欲や、それが大きなゲインになって返ってくるだろうという期待を抱いているから、市場は消えずに存続してます。大昔のように、冬が近付いたから、それぞれ狩った物を持ち寄って、お互いに冬が越せるように物々交換し合う、その場限りの市とはレベルが違いますね。もし誰も何も欲しなかったら、生産も分配も消費も何もかも止まります。
    ほとんどの人が死に、わずかに欲が残った者が狩猟採集でも始めるのではないでしょうか。

    2(3?). この前の哲学塾で発表者が解説されたマズローの欲求5段階説の最初の二つ生理的欲求と安全欲求以外は、他者が関係します。
    「他人の欲望を欲望する」と言われても、「私はそんな流行とやらには関係ない」と思うかもしれませんが、これはいわゆる流行に限った話ではありません。
    流行に囚われずにクラシック音楽を純粋に楽しむと言う人も、その欲望には他者が介在しています。
    モーツァルトを我々が楽しむのは、過去たくさんの人たちが彼の作品を評価し、そうした評価を私が内面化しているからです。
    もしかしたら、中には「俺は他人の評価とか関係ない。自分がモーツァルトがいいと思うから、評価しているんだ」という人もいるかもしれませんが、その場合二つのパターンが考えられます。一つは、モーツァルトの曲の響きが本当に身体的に快楽であるという場合と、本当に自分で勝手にモーツァルトが良いと判断している場合です。前者は喉が渇いた時の水は美味しいみたいな生理的欲求に近いですね。電極を埋められたマウスが脳を刺激して快楽物質を出すためにひたすら電流発生ボタンを押すのと同じ快楽です。後者は、普通はその評価軸や評価する言葉も他人から学んだものなので、他者が介在しますし、ガチで自分で評価する言葉を作ったのだとすれば、他人に通じません。あまりそんな人はいないでしょう。往々にして「俺だけがモーツァルトをわかっている」といったような他人との差を見せつけたい欲に塗れた人であることが多いですね。
    欲望が他者との関係性によって働くというのはかなり本質をついていると思います。
    私たちにとって他人は無数にいるので、どの他人を参照するかによって、何を欲するかが変わってきます。普通は身近な存在を参照しますね。なので全ての商品が全員に欲望されることはありません。たまたま他人の欲望を欲望した他人の欲望を欲望した他人の欲望を・・・の連鎖がうまくいった商品が馬鹿売れしたりします。その連鎖がうまくいくかは確かに別の要因によるものです。例えばネットの普及で口コミが加速度的に広がりやすいとか。それがうまくいくのも「他人の欲望に欲望する」人間の癖をうまく突いているからともいえます。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 19日
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    1、市場の存在意義は「価値の交換」以上に「鞘取り」にあるという訳ですね。
    2、堺の会合衆がベトナム安南で尿瓶として使われていた陶器を輸入して、茶道具として吃驚する様な値段で売った事を思い出しました。
     確かに千利休の様な有名人が太鼓判を押せばそれで価値が発生するのですね。刀剣の本阿弥家の「折り紙」もあります。
     紙幣自体に価値はないけれども、政府が保証する事によって価値を持つというのも同じですね。
     「欲望が他者との関係性によって働く」というのは正解の様です。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 19日
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    1.ちょっと資本主義の悪っぽさを描こうと思って、利鞘みたいな話をあげただけですけどね。需給バランスに基づいて価格が定まるのが市場の本質ではないでしょうか。理論的にはそうでも、現実はそうそう価格は変わらないですけど。(今回のコロナ禍でのマスクの高騰は久々に「ミクロ経済学の教科書で読んだやつだ〜」って思いましたけど(笑))
    利鞘は金を貸してもらうためのインセンティブみたいなものです。お札も株もクーポン券も借金の証明書みたいなもんですから。それを持っている人にはいつかそれに見合った何かを返さないといけない。普通の企業が背負える借金は有限で、不況になれば全てが終わりそうですけど、無限に借金を背負える存在がいるから、不況でも貨幣経済は廻ります。無限に借金ができる存在が国家ですね。今回のコロナ禍の不況も、各国家が多額の借金をして金をばら撒くことで一応経済を存続させることができていますね。普通はそんな借金したら、誰も信用してくれないわけですが、国家は国民に税というみかじめ料を暴力的かつ合法的に徴収できたり、合法的にお金を作ったりできるので、信用が持続します。そんな無尽蔵な借金をいつまで人民は信用するのかという疑いがないではないですが、今回のコロナ禍での国家の役割の大きさを見るとまだまだ捨てたもんじゃないなと思いました。暴力装置(それ自体は資本主義の外部)が安定を生んでいるわけです。ビットコインなどの暗号通貨が懐かしいですね。あれが流行った頃は国家に依存しない通貨発行権(昔ハイエクがやってた議論ですね)が現実化するのではないかと思われていましたが、やはり国家の存在なしに信用を持続させるのはなかなか難しいようですね。

    千利休はそんなやつでしたね(笑)
    物差しが変われば、価値も変わりますね。千利休の物差しに別にイチャモンつける気はありませんが。侘び寂びもそれなりに意味のある物差しだと思いますし。

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