毎月21日更新 エッセイ

テクノロジーの問題(3)

かたちの論理(上)

 先月のエッセイでは、〈欲望の論理〉を取り上げて、ハイテク社会と〈欲望〉の結びつきを論じました。現代社会では、他人の欲望を模倣する「欲望の全体主義」が支配的である、という見解に対して、講義に出席している学生からは、賛同の意見がありました。しかし、技術開発の底に〈欲望の論理〉がはたらいているとしても、それをどう扱えばよいのか。欲望を解消したのでは、ものづくり自体が不可能になるのではないか。そういう疑問が生じてくるでしょう。もっともです。人間社会から欲望が消えてなくなる、なんてことは考えられない。人が生きていくうえで、欲望はともかく〈欲〉をもたない、ということはありえません。とすれば、〈欲〉あるいは欲望の存在を認めたうえで、それとどう付き合っていけばよいかを考えることが、いっそう重要な問題になるのではないか。そういう問題提起が行われたなら、私はその問いに答えなければなりません――その種の問いを正面からこちらに突きつけてきた人は、まだいませんが。

最近、いくつかの会に出たことがきっかけとなって、誰かに指摘されたというよりも、私自身がそういう問題のあることに気づきました。「欲望=悪」という簡単な図式で済ませるのではなく、一定の欲を伴う「ものづくり」の過程にまともに目を向け、技術がいかにあるべきかを考える必要がある。そのような関心から、今回は、これまで自分なりに考えてきた〈かたちの論理〉を、技術論の文脈において活かすことに着手したいと思います。

資本主義の展開

 資本主義は、〈大量生産-大量消費〉のサイクルが継続する、経済₌社会システムを意味します。生産された商品が、販売されることで得られた利潤を、費消することなく次の生産に向けた資本に組み入れることで、より多くの製品を生産する。このプロセスが続くかぎり、資本の成長と拡大再生産はとまらない、というのが資本主義的生産の基本です。

 ここでは、「拡大再生産」というポイントに絞って、それが〈欲望の論理〉と一つになる理由を説明しましょう。理由は単純です。拡大再生産は、生産する側の「より多くの商品を生産したい」欲望と、消費する側の「より多くの商品を消費したい」欲望の、マッチングを前提とします。先月紹介した「欲望開拓のメカニズム」(佐伯啓思)という資本主義の定義は、まさに「より多くの…」という欲望にもとづいて成立する、資本主義的〈生産-消費〉のあり方を表しているのです。

 しかし、生産者と消費者の双方が、「より多く」を欲するというだけでは、〈生産-消費〉のサイクルがテンポアップするということはない。つくる側が、生産をアップすることのできる仕組みを実現するとともに、そのようにしてつくられたモノを、消費する側が受け容れる体制が必要になる。ここに、資本主義社会における〈欲望〉の独特なあり方が生まれないわけにはゆきません。先月論じたような欲望の「模倣」(相互媒介)、欲望の「全体主義」は、〈生産-消費〉のサイクルに、「情報」が必然的に関与するあり方を物語る一例です。もちろんそれは、工業生産が飽和状態に達した後の「情報資本主義」を特徴づける事例であって、産業資本主義段階の話ではありません。20世紀半ばまでの時代には、より多くを生産し、消費したいという思惑が、生産者・消費者のどちらにもはたらいていた。その段階での〈欲望〉のあり方を、まず考えなければなりません。

 大量生産と大量消費のマッチングは、どのようにして成立するのでしょうか。まず、大量生産が可能になる条件。それは、〈同じもの〉を複製するということです。工業的生産の条件は、一つの完成品を予想したうえで、同じ鋳型から標準化された部品を生み出し、それらを同じ規格の下に組み立てること――20世紀前半の産業社会を席巻した「フォード・システム」(フォーディズム)が、その典型です。大衆車の代名詞となったフォードは、同じ製造の原理に沿って寸部違わぬ形に生産される工業部品を、まったく同じ手順で組み立てる方式によって、最も効率的な大量生産の手本となりました。ものづくりのモデルを〈型〉と呼ぶとすれば、少数の〈型〉から、まったく同一、言い換えれば個性のない〈形〉の製品を、つくりつづける方法が、大量生産を可能にするわけです。

 大量消費の方は、どうでしょうか。大量生産をつうじて市場に出回る商品は、すべて画一的で無個性、同じ顔をしています。モノが無差別的であることを受け容れる心性が、もし消費者になければ、たくさんの商品をつくっても売れ残り、供給過剰を来すことになる。これでは大量生産は行き詰まります。しかし、20世紀前半の産業資本主義の下で、大衆は同じ顔をしたモノに進んで飛びつく。ここでは、他人と同じ品物を所有することで人並みになろうとする大衆社会のエートスが、力を発揮するのです。なぜ、そうなるのか。社会の隅々にまで物資が行き渡っておらず、欠乏を充たそうとする欲求が、社会を覆っているからです。人々がまず望むのは、他者が持つのと同じ商品を所有すること、それによって人々から遅れることなく肩を並べること。この欲求が健在であるかぎり、大量につくられた製品が余ることはなく、〈生産-消費〉のサイクルは健全に維持されていきます。それを言い換えるなら、モノがあり余る段階に達したとき、同じ商品を所有したいという欲求に、終わりがやってくるわけです。

 前回問題にした「情報資本主義」は、この段階――経済学者ガルブレイスの言う「豊かな社会」――に到達して以後の社会を表します。それは、大量に生産された商品が、社会全体に行き渡り、もはやそれまでのような飽くなき欲望の対象ではなくなった段階です。ここに来て、拡大再生産のサイクルは行き詰まる。「より多くの生産」を促す消費の欲求が、いったんストップするからです。「欲望開拓のメカニズム」が維持されるためには、それまでとは異なる方向に欲望が展開するような仕掛けを、新たに生み出す必要が生じてくる。画一的な製品の大量生産ではなく、「多品種少量生産」がターゲットになる。〈他人と同じモノ〉ではなく、〈他人と違ったモノ〉へと欲望が切り替わる、その転機をもたらすのが、「情報」という訳です。

 情報の役割は、他人が何を所有し、何を欲しているかを知らせること。前回のエッセイで述べたように、私の欲望を掻き立てる〈媒介者〉となるのは、他者の欲望についての情報です。それが得られるとき、状況次第で、⒜他人と同じものを所有したい、⒝他人とは違うものを所有したい、この二種の欲望のいずれかが掻き立てられることになる。歴史的に見て、情報化に先行する大衆社会では⒜、情報社会では⒝が、際立ってくる。いずれにせよ、資本主義の存立にとって情報が本質的であるゆえんが、ここにあると言えます。

技術と〈型〉

 以上は、資本主義の展開についてのイロハ、教科書的説明です。問題は、そういう資本主義のあり方に、技術がどうかかわるのかにあります。ここからが本題です。

 〈生産-消費〉のサイクルを加速するためには、消費者のニーズに応えるよう、できるだけ生産の能率を上げなければなりません。「能率」というのは、単位時間当たりの生産量。短時間にできるだけ多くのモノをつくり出すというのが、能率を上げることです。そのためには、標準的な規格を設定して、それに合う製品をつくることが必要です。〈型どおり〉のものづくりであることが、大量生産の基本条件になるわけです。型、型式、フォーマットと呼ばれる一定の規格が、こうして開発されます。それは、それなくしては大量生産が不可能な前提、いわば生産の〈原理〉である、ということができるでしょう。

 生産の原理としての〈型〉。それはどういうものでしょうか。日本の文化では、一般的に〈型〉が重視される。〈型〉は、日本人の生活全般を導く指針として、重要な意義を与えられています。その反面、「かたどおり」「かたくるしい」といった言葉づかいが示すように、〈型〉のもつ因襲的で拘束的な性格がうとんじられる、といった面も見てとれます。日本人にとっての〈型〉は、積極的・消極的、肯定的・否定的な二面性を表す、特異なキーワードであることに注意してください。「型にはめる(はまる)」も、良い意味と悪い意味をあわせもつ表現です。〈型〉のこうした二面性については、後ほど〈形〉との関係に言及するさいに、掘り下げて考えたいと思います――〈型〉と〈形〉の微妙な関係を論じるために、もともと日本語であるこの二つの語を、以後、〈かた〉〈かたち〉と仮名で表記することにします(この点は、昨年知り合った香港出身の中国人哲学者ホイ・ユク[許 煜、Hui Yuk]の示唆によります。彼は、漢字の「型」と「形」には本質的な区別がない、ということを教えてくれました)。

 テクノロジーの原則は、生産の原理が唯一の〈かた〉だということです。資本主義的生産の根本原理は、単一の〈かた〉に従って、同じ(・・)――という意味では、一つだけの――〈かたち〉を無数に産出する、という方法にあります。一つの〈かた〉(フォーマット)に、一つの〈かたち〉(製品)が対応する、これが資本主義成功の要因であり、西洋近代が世界全体の覇権をうちたてることのできた理由だと私は考えます。私たちの日常生活には、大量生産によって生み出された「同じ」商品が充ち溢れており、誰もそれを不思議なこととは思いません。しかし、よく考えてみてください。この世に存在する人で、同じ姿形、同じ性格をもった二人の人間がいるでしょうか。一人一人、顔も違えば、心も異なる。それが当然であるのに、人々の日常用いる商品が、人ごとに異なるということはなく、まったく同じです。それを、だれ一人――私自身を含めて――変だ、オカシイ、と声を上げないのは、どうしてでしょうか。それが当然のことになっている、「近代」に生きているからです。このことのもつ意味を、より立ち入って追究しなければなりません。

 モノをつくるという行為は、〈かた〉から〈かたち〉を生み出すことだと考えられる。生産とは、原理である〈かた〉から、結果としての〈かたち〉を導き出す行為である、と規定しましょう。この考えからすると、みんなが同じモノを使う生活というのは、誰も日ごろ疑わないけれども、相当に特殊なあり方だと言わなければなりません。「特殊」だというのは、別にオカシイとか間違っているということではない。大量に出回る工業製品を、便利なものとして利用することが当たり前になっている私たちの生活が、そのことの意味を改めて問い直す必要を感じさせなくしているのです。近代以前の暮らしにおいて、モノは一つ一つ職人の手でつくられ、利用者はそれぞれの流儀にしたがい、自分用の品物を使い分けて暮らしていました。その時代には、そういう暮らし方が当たり前であった。そういう手仕事の時代から反照してみることによって、近代の〈大量生産-大量消費〉にかかわる技術が、いかに特殊なものであるか、という批判的視点が成立するのです。

頭と手

 ここから技術一般のあり方を、〈かたち〉と〈かた〉の関係として把える手順に移ります。技術の一つの典型は、「手仕事」にあります。職人が何かをつくるとき、おのれの身体、とりわけ手が用いられる。身体以外の道具が使用される場合も、それが文字どおりの「手」に代わる「手段」「手立て」となることで、目的が達成されるわけです。ですが、ただ手を動かすだけでは、モノはつくれない。何をどうやってつくるか、というイメージ、プランがなければ、手の動きは空回りするだけでしょう。頭と手、いわば〈理論〉と〈実践〉が連動しなければ、ものづくりは不可能です。

私の考える技術者、というより「職人」は、製作の目標となるモノのイメージをもつと同時に、それを実行に移す手腕を具えた主体です。こう言うと、たぶん多くの人は、技師と設計図の関係を思い浮かべるでしょう。完成した作品のイメージと、そこに至るための工程を具体化した設計図。近代の工学技術は、それを製作主体から切り離す二元論によって発展しました。しかし、近代以前の職人による手仕事は、そういうものではありません。職人が自らの手を用いてモノをつくる手続きは、設計図の作成とその現実的適用のように、別々に切り離される過程ではなく、目的と手段が一体をなす進行です――手を使うことで頭が働き、頭の働きが手の動きを導く、というように。デカルトの近代的二元論は、職人の仕事に含まれる頭と手の分かちがたい関係を切り離し、それぞれを精神(思考)と身体(延長)という、たがいに独立の実体に振り分けました。「頭」は設計図、「手」は機械、というかたちで、別々の要素に振り分け、それぞれを別の主体に担わせる「分業」を行うことによって、工学技術の飛躍的発展がもたらされたのです。

「頭」と「手」が結びつくような職人仕事。私はこのイメージを、〈かた〉と〈かたち〉の関係を説明するのに適当な例と考えます。頭と手、思考と製作を分けるというのが、二元論の流儀だとすると、それを物語る典型的な例が、工業生産だと考えられる。それとは対照的に、頭と手の連動を条件とする職人仕事は、非二元論的であるだけに、生産効率は低くなる。と、こう申し上げると、アダム・スミス『国富論』に出てくる「ピンづくり」の例を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。全工程を職人が一人で担ったとすれば、一日がかりで1本のピンすらつくれるかどうかであるのに対して、分業体制をとるマニュファクチュア(工場制手工業)では、一人当たり一日に4800本ものピンが生産できる、という有名な話です。スミスは、「分業」が人間の本性に潜む「交換」の性向から生じるという観点から、19世紀における資本主義の発展をあとづけています。

分業を可能にするためには、職人の頭と手を切り離すこと、設計と作業の工程を分離すること、が前提になります。資本主義は、分業によってはじめて成立しました。それを裏返して言えば、頭と手が一体性をもつ職人仕事の世界は、けっして資本主義には行き着かず、したがって〈欲望の論理〉に巻き込まれることがない、そういうことになります。

工業生産と職人の手仕事の違いは、技術の根本を支配する二つの原理――二元論と非二元論――の対立を意味します。この対立における後者、非二元論の立場を、私は〈かたちの論理〉として、以下で具体的に提示したいと思います。それは、〈かたち〉と〈かた〉の不可分な連帯によって発展する、技術の可能性を意味します。

日本における「形の論理」

 〈かたちの論理〉は、日本の哲学でなければ考えつかない発想、西洋哲学(フィロソフィ)にはないアイディアを表します。なぜなら、〈かたち〉および〈かた〉は、日本語でのみ区別される概念であり、それゆえこの二つを関係づける論理は、日本語の世界でしか成り立たないからです。私がそれを取り上げるよりも、だいぶ前の戦前、「形の論理」を提唱した哲学者がいます――三木清(1897-1945)。彼一人ではなく、弟子である三木から刺激を受けた師の西田幾多郎(1870-1945)も、同時期に「形の論理」を唱えて、それを追究しました。師弟が同じ理念を共有するというのは、珍しいケースのようですが、それには理由があります。それは、近代日本を代表する優秀な二人だからこそ、西洋哲学の二番煎じに甘んじることなく、日本独自の哲学をうちたてようとした、ということです。しかし残念なことに、二人の企ては挫折しました。日本の「哲学」として、「形の論理」を完成することができなかった大きな理由は、彼らがそれまで身に着けてきた西洋哲学の根本原理(二元論)から、自由になることができなかったためだ、と私は考えます。そのあたりの込み入った事情は、機会があれば説明することにして、彼らから引き継いだ、私なりの〈かたちの論理〉に焦点を合わせます。

 〈かたちの論理〉とは何か。それが、西洋哲学とは異なる「論理」である、というのはどうしてか。二つのものを根本的に区別する二元論が、〈かたち〉と〈かた〉については成り立たないからです。〈かたち〉と〈かた〉は、語形の上でもそっくりだし、区別されない場合もしばしばある――例えば、空手の競技では、「形」と書いて「かた」と呼ばせています。英語では、どちらも「フォーム」(form)と訳せますが、〈かた〉にあって〈かたち〉にない意味合いを強調しようとするなら、「パターン」(pattern)「モデル」(model)といった他の訳語を工夫する必要が出てきます。

 〈かたち〉と〈かた〉は、よく似ている。似ているけれども、同じでない。二つのものが、区別されながら重なり合う、といった微妙な関係にあることを、四字熟語で「不一不異」(一ならず異ならず)と書き表します。大乗仏教の祖龍樹(ナーガールジュナ、150-250頃)が著した『中論』の最初に取り上げられる「八不」、つまり「不~不~」という形をとる四組の二重否定の中の一つで、仏教的なものの考え方を表します。二つのものは、別々でありながら別々でない。この関係は、肯定と否定が両立する矛盾を犯しています。したがって、それは論理的でない、ということになるでしょうか。しかり、それは論理的でない。ただし、矛盾律が論理的であるとするなら、の話です。矛盾律が「論理」を代表する世界では、矛盾律を犯すものの考え方は、「非論理」ということになる。しかし、それとは反対に、矛盾律だけが正しいということはなく、矛盾律を破るあり方も、それなりに「正しい」と認められる世界がある。それが仏教的な論理、日本人哲学者山内得立(やまのうち とくりゅう、1890-1982)が、「レンマ的論理」と名づけた論理の世界です。

 連載の三回目で、はじめてその名を挙げる山内得立。近年私の書いたテクストで、この人に言及しなかったものはありません。なかでも、6年前に刊行した『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)は、その副題に「レンマ」を入れているように、彼の提示した「レンマ的論理」の紹介を主たる目的とする著作です。一書の全体が、これまで論じられることのなかった山内得立という哲学者に光を投じた、いわば山内哲学へのオマージュになっています(昨年亡くなった梅原猛先生からは、恩師についてよく書いてくれた、というねぎらいのお言葉を賜りました)。「レンマ的論理」は、西洋の「ロゴス的論理」と対になる東洋の論理であるとされ、主著の一冊である『ロゴスとレンマ』(岩波書店、1974年)の中で、その解明が行われています。

 しかしここでは、〈かたちの論理〉に「レンマ的論理」とのつながりがある、という指摘にとどめたいと思います――「レンマ的論理」については、適当な折を見て、立ち入って説明することにします。当面の問題は、〈かたち〉と〈かた〉の関係です。それが、二元論にはない「不一不異」の関係である、とはどういうことでしょうか。

〈かた〉と〈かたち〉

 前出「技術と〈型〉」の節で、「型の二面性」にふれました。「型」には、模範・手本というような肯定的・積極的な面と、因襲・拘束という否定的・消極的な面の両方がある、と指摘しました。それを想起してください。「型」に、なぜこのような両面があるのでしょうか。それは、〈かた〉が〈かたち〉から切り離されず、つねに〈かたち〉と連動するからです。〈かた〉と〈かたち〉の非二元論的関係が、〈かた〉のこうした二面性を必然的に生み出します。この点を具体的に示しましょう。

 〈かたち〉と〈かた〉の区別は、語尾に「ち」がつくかつかないかという、わずか一字の違いにあります。〈かたち〉の「ち」は、「力、勢い」を意味するという説明が、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』(岩波書店、1991年、68頁)にあります。他に「ち」を用いた例として、「いのち」(=いき[生き、息]の力)があるように、動き・生命力といった要素が〈かた〉に加わることで〈かたち〉が生まれる、そう考えることができます。〈かたち〉は、〈かた〉に動きが加わったもの、逆に〈かた〉は、〈かたち〉から動きが失われたもの、そういう区別が、二つの語に成り立ちます。

 しかし、二つの言葉はたがいに独立ではない。「かた」という語幹が、両語に共通しているということは、〈かたち〉から〈かた〉へ、〈かた〉から〈かたち〉へ、という相互移行があっても不思議ではない、という事情を示唆すると思われます。例えば、私たちが何かの芸を身につけようとするとき、―—何でもよいから、稽古事を想像してください――必ずお手本、マニュアルの類を参照するでしょう。教えてくれる先生が身近にいるなら、その人の指導のひと言ひと言に、従おうとするでしょう。これらは、〈かた〉に当たります。むろん、お手本が示されたからと言って、教わる方がすぐに上達するわけはない。指示された〈かた〉をなぞりながら、自分なりのやり方を試みる。失敗を繰り返しながら、工夫を重ねる試行錯誤の末に、やがてどうにか初心者の域を脱して、一定の〈かた〉を身につけるまでに至る。このとき、繰り返される一回一回の試みが、〈かたち〉を表します。

こうした稽古事一般のあり方が、〈かた〉と〈かたち〉の不可分な関係を物語っています。まず、一定の〈かた〉というものが存在する。そのうえで、それを目標とする個別の〈かたち〉が実践される。不動の〈かた〉から、動いて変化する〈かたち〉が生み出されるわけです。変化する多様な〈かたち〉は、しかしある段階に至って、一つの〈かた〉に行き着く。練習・稽古は、〈かたち〉の実践をつうじて、目標である〈かた〉に到達する。これだけを見ても、〈かた〉から〈かたち〉へ、〈かたち〉から〈かた〉へ、という双方向のベクトルがはたらいている、ということが解ります。

しかし、芸道が想定する修業の過程は、この程度の単純な説明では片づきません。という訳は、修業は一定の〈かた〉の習得をもって終わるのではなく、その先に〈かたやぶり〉による革新・創造の過程がつづくことを想定するからです。一定の〈かた〉を修得するということは、それを一つのステップとして、次の段階、〈かたやぶり〉に進むべき時機である、ということを意味します。芸の道に終わりはない、とよく言われるのは、そのことです。そういう革新の手続きがとられなければ、〈かた〉は、そこで主体の努力がストップする停止点、停滞のしるしとなる。ここに、〈かた〉の両面性が浮かび上がってきます。創造的革新へと進むか、停滞・保守にとどまるか、道は二方向に開かれています。どちらに向かうかは、あらかじめ決定されているわけではなく、主体によるそのつどの決断に委ねられます。古来、芸道や武道の世界で名を成した成功者は、すべて〈かたやぶり〉の冒険に賭けた人々です。そうした成功者の陰には、無数の主体が歴史に残ることもなく、ただ伝統の分厚い層の中に埋没し、忘れ去られているのです。

以上のような〈かたち〉と〈かた〉の関係は、二つのものを分断する二元論ではありえないような、相互依存――仏教の用語では、「相依相待(そうえそうだい)」――の関係を構成することが、お解りいただけたかと思います。ここから、日本の風土における文化的特質を〈かた〉の相続に認める「日本文化論」へと、議論を進めることができるでしょう。日本の文化は〈型の文化〉であるということ、その含みを徹底的に追究することは、それだけでも重要なテーマになります。ただ、「テクノロジーの問題」と銘打たれた本エッセイでは、〈かたちの論理〉が切り拓くことのできる技術論的地平とは、どういうものであるかに焦点を合わせることが、当面の最重要課題になります。そのことを念頭に置いて、ひきつづき資本主義的近代、および現代の問題点を明らかにしたいと考えます。(つづく)

コメント

    • masa1951
    • 2020年 2月 03日
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    欲望について
    『他者の欲望についての情報が得られるとき、状況次第で、⒜他人と同じものを所有したい、⒝他人とは違うものを所有したい、この二種の欲望のいずれかが掻き立てられることになる。』と述べられています。
    この見方はブランドバッグを筆頭とした多くのファッション商品については当て嵌まると思います。
    特に衣料品に於いてはAライン・Iライン・Vライン・Xライン等の流行がフランスのデザイナー中心に企画され世界中の女性の欲望を掻き立てました。
    一方、デルはパソコンを顧客がネットで入力した仕様通りに作る様にし、顧客満足と最大利益を実現し「デルモデル」と言われています。
    衣料品においてすら機能を前面に打ち出したヒートテック(保温下着)の大成功は記憶に新しい物です。
    この様に顧客の購買動機は購買層・商品特性によって異なり、(a)・(b)何れかとは限りません。
    メーカー主導の流行で消費者の欲望を喚起できたのは昔の話で、今は機能・価格・配送時間・イメージが企業・商品の盛衰を握っていると思います。

    効率的生産について
    『資本主義は、〈大量生産-大量消費〉のサイクルが継続する、経済₌社会システムを意味します。』と述べられています。
    『単位時間当たりの生産量。短時間にできるだけ多くのモノを造り出すというのが、能率を上げる事です。』とも述べられています。
    資本主義の主役である企業の目的は「利潤」の最大化であり「生産」の最大化ではありません。
    その指標である「総資産利益率」は以下の式で表されます
    =売上高利益率×総資産回転率=純利益/売上高×100×売上高/総資産
    即ち ①大量生産 は「総資産回転率」の向上にとても有効な方法であります。
    しかし、他にも「総資産回転率」の向上には ②資産の圧縮 も有効であり、外注化やトヨタの「カンバン方式」があげられます。
    さらに「売上高利益率」向上の為には ③売価の値上げ ④原価の引き下げ があります。
    即ち ①大量生産は ②資産の圧縮 ③売価値上げ ④原価値下げ 等の利益向上の為の手段の一つに過ぎないのです。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 24日
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    「欲望について」――〈他者志向〉だけではないさまざまな要因が、消費者の購買意欲に関係している、というご指摘でしょうか。おっしゃるとおりですが、私が問題にしているのは、欲望が他者との関係性によって働く、というその側面だけです。誤解のないように――
    「効率的生産について」――これも上と同じく、執筆の意図を誤解されています。資本主義の目的が「利潤の最大化」にあること、そんな自明なことを問題にしているのではなく、〈大量生産-大量消費〉を求める「拡大再生産」のシステムにどんな問題があるのかに集中して論じることで、〈かたちの論理〉の必要性に目を向けてもらうことが、このエッセイの狙いです。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 10日
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    『邂逅の論理』でも論じられる〈かたちの論理〉、面白いですね。
    日本ということで考えれば、天皇の問題(天皇という型を継承しつつ、個性も大事)や襲名(同じ名を継承しつつ、個性も大事)の問題とか考えるのに、有効かもしれません。
    あえて西洋で言えばドゥルーズの『差異と反復』の議論が近いのかなとも思いましたが、かっことした型もある点、異なる感じがしますね。(そもそも『差異と反復』はまだ積読中ですが)

    いくつか思ったこと。

    前段:資本主義について
    画一商品→差異化の流れに引き続き、オンリーワン化が起こってますね。「オーダーメイド」、「手作り」、「あなただけの」という文句が売れる!
    断捨離やらミニマリズムやら、「あなたと物との関係をきちんと見直しましょう」(こんまり『片付けの魔法』でしたっけ?)という一見、反資本主義的な事象、自然に優しそうな思想そのものが「意識高い系」の人たちに売れていく。反資本主義の資本主義化。なんでも資本主義に呑まれる。恐ろしいことです。

    デカルト二元論について
    心身二元論は、心身を二つにキッパリ分けたために、じゃあなんで心と体が密接に結びついているのか。なぜ心で思ったように体が動くのかという心身問題(身脳問題)を引き起こしましたね。デカルトは松果体とかいろいろ考えたようですけど。
    80年代はデカルト二元論を批判して、「身体あっての心」みたいな身体論が流行し、今もそうした考えの延長で身体論を論じる人がケアとかの文脈で多いです。
    私も仕事上無縁ではなくかなり影響を受けているのですが、一方で近年では障害の分野でデカルト二元論の復興が起こりつつあるかもです(復興というほどではないですけど)。
    去年、紀伊國屋じんぶん大賞に選ばれた伊藤亜紗『どもる体』という吃音をテーマにした本がそうです。
    障害は、頭で考えていることと、体の動きが全く合わない、本当に言いたいことがどもってしまい、別の言葉で置き換えざるを得ないというデカルト二元論を地で生きざるを得ない状態なのだというのです。もし彼らの主張が正しければ、「心身は一体だ。分けようと思って分けられるものじゃない」というデカルト二元論への批判は、健康体のお幸せな奴の思想に過ぎないということになりそうです。
    まあ「とはいえ、心と体が全く分離しているわけではないだろう。思った通りに動かせたことが一度もないわけでないだろう。障害者ほどではないが、健常者だって思った通りに体が動かないこともある。程度問題だ」と反論できるでしょうけど。伊藤さんも別にデカルト二元論を両手で賛成している人ではないでしょうが。

    物作りについて
    4月の哲学塾で、アーレントについて論じてほしいと希望された方がいましたが、このエッセイを読んで私もアーレントの議論を想起しました。
    『人間の条件』の「労働」、「仕事」、「活動」の三類型は有名ですね。この2番目の「仕事」は「製作」と置き換えてもいいくらい物作りを念頭においた概念でした。しかもそれが人間の世界を作っていく。物(特に建築物ですが)は人間より寿命が長いので、継承という事象が起こります。僕は大阪生まれですが、ここが生まれた時から大阪なのも、400年前建築された大阪城が(再建が何度かありましたが)何世代にも渡り継承されるなど、様々な人間の製作物が継承されたが故のことです。そうして人間世界は継承され、誰にとっても生まれた時から人間世界が存在してます。それは「製作=仕事」のなせる技です。結構いい議論だと思うんですが、彼女は「労働」と「活動」に議論の焦点を当ててるので、あまり仕事の論点が深められていないように思います。「型」、「継承」、からの自由な連想ですが、木岡先生の議論と絡められるでしょうか?

    〈かた〉と〈かたち〉
    〈かた〉が全体で、〈かたち〉が一部だ(そこまで単純化できるかは分かりませんが)としたら、〈かた〉を習得することで、一回、一回〈かたち〉にする瞬間に全体が含まれているみたいな話になりそうですね。オーケストラのバイオリニストが、スコアという〈かた〉を何度も反復練習して習得することで、いざ演奏で〈かたち〉にする際に、今この一瞬の音を鳴らす時でさえも、これまでの展開、今後の展開、自分以外の奏者との調和とかを全部感じながら弾いているイメージ。実際、奏者の心象風景はそんな感じだと聞いたことがあります。「一即一切」感がありますね。

      • 浦靖宜
      • 2020年 5月 10日
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      もう一つだけ。
      画一化された商品に溢れる世界をなぜ人は不思議に思わないか。
      もちろん木岡先生のおっしゃる通りでもあるのですが、もう一つの理由に、例え同じ型の商品、規格品であっても、その人個人にとっては特別になりうるからというのが挙げられます。先生の論点とはズレますが、私はこっちも重要だと思っています。
      というのも、以前、出会いの広場のスレッドで「お掃除ロボ、ルンバを家族と思っている人もいる。ルンバは飼い主に似るんだそう」みたいなことを書いたのですが、まさにそのことです。ルンバは規格品で、どの家庭のルンバも基本的には同じ形で同じ性能です。でも私のルンパと他人のルンバは違うと思ってしまう。「私のルンバの方がおっちょこちょいで可愛い」みたいな

      ルンバはちょっと特殊なので、理解しづらいかもしれませんが、例えば同じカバンでも使っているうちに愛着が湧いてきます。革が馴染んで、自分の体にフィットしてきたり、傷もついたり、汚れたりもするのですが、それがより一層、その物の唯一性を引き立てます。
      商品によっては紛失、破損した場合は、同じ型の物と交換してくれるサービスがあるようですが、カバンを失くして、依然と全く同じカバンが送られてきても、違和感を感じるでしょう。

      私はこの感覚も結構重要なんじゃないかと思っています。物に魂が宿る。アニミズム的ですね。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 5月 12日
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     コメントされた中から、4点、簡単にお返しします。
     『どもる体』という作品が、心と身体を分離する心身二元論を支持するというご指摘。その本のことは知りませんが、吃音は、自分が思ったとおりに発音できないという点で、心身不一致の典型的事例であることは確かです。しかし、そういう内容の本であるなら、それは精神が主体となって、身体=客体をコントロールできるし、コントロールすべきだ、というデカルト的二元論の反証例にはなっても、二元論支持の話にはなりません。ご指摘のとおり、お気楽な心身一如論に異を唱える事例であることは認めますが。吃音の問題は、二元論か一元論かで割り切って答えが出せるような、簡単なテーマではありません。
     アーレントの『人間の条件』。労働と仕事の関係を、〈かたちの論理〉に絡めて考えてはどうか、というご助言に感謝します。手前の仕込んだアイディアにどれだけ汎用性があるのか、これからいろいろ考えたいと思います。
     〈かた〉と〈かたち〉の関係を、演奏の例で考えられています。実は、木村敏『あいだ』(弘文堂)に、同じ例に即して、ほとんど同じ考えが示されています。私は、「あいだ」の提唱者である木村氏から、いろいろ示唆を受けていますが、この人が用いる「あいだ」は、概念規定が甘く、使い勝手が悪い。そういう不満に応えてくれたのが、山内得立の「中の論理」だったというわけです。
     もう一点――物とのつき合いによって、画一的な商品にも個性や味わいが生まれる、とのご指摘。おっしゃるとおり、人間の環境への適応能力には、物を「人間化」する習性が含まれています。周囲に無機的な事物しかなくても、それなりに住まうことができる世界にしてしまう能力、と言えるでしょう。同一品種大量生産から多品種少量生産への移行は、欲望の標的が同一性から差異に転じたことを物語ります。いずれにしても、欲望の引き金は、他者との比較にあります。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 12日
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    心身問題は本当に難しいですね。今はどちらかというと唯物論的な見方、脳一元論的な見方が一般的な気がしますし、実際、その方面からもデカルトは批判されていますね。(アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り』など。この本自体は単純な一元論的な見方はしないよう注意を払っていると思いますが)
    しかし「意識現象などニューロンの発火現象によるものに過ぎない」とか言われると、「それは、デカルトが松果腺から流れ出る精神生気が各神経に伝わり思い通りに体が動く」みたいな仮説とどれだけ違うものなんですか?って問いたくなりますね。松果腺や精神生気をニューロンや発火などの科学知識に置き換えただけでしょうと。
    みんなもう少し、デカルトの悩みに寄り添ってあげてもいいのにな(笑)と思ってます。「俺たちは機械仕掛けのロボットのはずなのに、なんで「私」なんていう不思議なものが存在しているのだろう」って悩んでたと思うんですよね。

    型とアーレントの仕事がどこまで結びつくかは分かりませんが。個体が死んでも残るものという共通点はあると思いますが。

    木村敏の著作でも取り上げられているんですね。彼と中井久夫はいつか読まないとと思いながら、買ってない…
    私はコメントしていて、一即多みたいな一部に全部が含まれていることと、あいだの概念の関係ってよくわからないなと思ってました。関係大有りな感じはするのですが。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 19日
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    1、「資本主義的生産の根本原理は、単一の〈かた〉に従って、同じ〈かたち〉を無数に産出する。」とあります。
      「モノは一つ一つ職人の手でつくられ、利用者はそれぞれの流儀にしたがい、自分用の品物を使い分けて暮らしていました。」とあります。
      ①レンブラントは20名以上の職人を抱え工房として活動し、日本の狩野派も多数の絵師・職人を抱えて安土桃山時代の大量発注に対応していたそうです。
        レンブラントも狩野派も個人というよりもブランドとして存在していたのですね。
      ②今でこそ手作りの代名詞である焼物の「登り窯」も当時は最新鋭の大量生産設備でした。
    2、「一人一人、顔も違えば心も異なるのに日常用いる商品が全く同じ。」とあります。
      理想とするライフスタイルが「自由で豊かなアメリカ」との共通認識があったので、必然的に使用する商品もそれに合致した物になったのではないでしょうか。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 19日
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    1.いつの時からはっきりと資本主義だというのはなかなか難しいですね。
    ある程度、物を買える層が増えてくると、大量生産できる仕組みが整うようになっていくのでしょうね。分業や機械化がその役目を果たすのでしょう。

    安土桃山時代の日本は、金銀ザクザクだったので、めっちゃ儲かってました。明が貨幣を銀に一本化したので、銀を持っているととても有利でした。ヨーロッパ人も明で交易したいので、銀を欲しがる。秀吉とかはそれで成金趣味に走って、千利休が台頭したりするわけです。田舎者ほど文化力を見せびらかしたがるし、そういう存在には怪しげなブレーンが付きやすい!さすがに金銀が枯渇するようになると無尽蔵な貿易はかえって国内経済をダメにするので、貿易統制=海禁するようになりましたが。(家光の頃ですね)

    資本主義が成り立つには、プレイヤーが売りたい値段、買いたい値段を自由に設定できることと、誰でもプレイヤーになれること、なんでも交換可能な存在とみなすことが必要なので、宗教的、政治的、あるいは単なる慣習で値段が決められていてはうまく機能しません(大工の給料は代々100文だみたいな。平安から室町までそうだったそうですよ。)し、同じくこれは商品にしてはならないみたいなタブーがあればうまく機能しません(利子とか手形とか)し、身分によって取引できないとかあってはうまく機能しません。そういうのが段階的になくなればなくなるほど、資本主義に近づくのではないかと思います。みんなが自由、平等で、一人一人がおんなじような存在となり、あらゆるものが交換可能(今でもそれは開発され続ける。先物取引の権利そのものを売り買いしたりとか)となった時に、私たちが知る資本主義になるのではないかと思います。ただそうした交換を行うための道具である貨幣が信用され続けるためには、国家という資本主義の外部が必要とされるというのが、(2)でのコメントの話でしたね。

    2.戦後の都市労働者がそうした憧れを抱いていたようですね。農家の次男坊、三男坊が単身で都市に出ているパターンが多かったので、知り合いがあまりおらず、身近に参照できる存在がアメリカのホームドラマだったということも影響していたようです。文化住宅、団地はアメリカ人のライフスタイルの模倣でした。今の上皇夫妻の影響力も大きかったでしょう。彼らも渡米の前に日本の団地とか見学してたはずです。美智子妃は天皇家で初めて(乳母に頼らず)自分の手で子供を育てたわけですが、あの家族が戦後の日本の家族像の形成に大きな影響を与えたのは確かだと思います。アメリカ人や皇太子夫妻のようなライフスタイルに憧れ、かつそれなりにそれを実現することができた(ように感じれた)のでしょうね。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 20日
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    1、「大工の給料は代々100文」 
      これでは大工さんも堪りませんね。せめて米1斗の価格とリンクする位にして貰わないと。
      昔は家系・寺社・職業等ががんじがらめになって身分社会を形成していたのでしょうね。
    2、アメリカのホームドラマと上皇夫妻の影響力はとても大きかったと思います。
      テレビの普及によって可視化された理想のライフスタイルが提示されたんですからね~。

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