毎月21日更新 エッセイ

テクノロジーの問題(4)

かたちの論理(中)

 

先月のエッセイは、「かたちの論理」(上)と題して、このテーマの意味についてお話ししました。ポイントは、大きく次の三つです。日本社会には、伝統的に〈型〉を重んじる〈型の文化〉が支配しているということ、〈型〉には、「お手本」「規範」という積極的意味と「因襲」「拘束」という消極的意味の両方が含まれるということ、そうして〈かた〉は〈かたち〉から区別されながらも、この二つはたがいに密接に関連していて切り離すことができない、ということ。最後の点は、〈かた〉をもとに〈かたち〉が生み出されるとともに、〈かたち〉の反復をつうじて〈かた〉が成立し、またつくりかえられる、といった両方向のプロセスであるということです。そういう〈かた〉と〈かたち〉の関係を、日本の哲学は〈かたちの論理〉として追究すべきである、と主張しました。

「テクノロジーの問題」の中で、〈かたちの論理〉を取り上げる理由は、ハッキリしています。前回のエッセイでふれたように、近代の資本主義は、大量生産・大量消費を可能にする工業技術を軸に発展してきました。そのあり方は、近代以前の職人仕事が要求する頭と手の共働に、設計図(頭)とその実行(手)を分ける二元論を置き換えるものでした。〈かたちの論理〉は、これら二つの関係で言えば、前者、つまり前近代の手仕事を説明する論理です。したがって、それは近代の二元論にもとづくテクノロジーに反対する、非二元論的な技術の立場を代表します。と言えば、お前は近現代のテクノロジーを拒否して、近代以前の技術に戻れと言うのか、それはアナクロニズム(時代錯誤)ではないか、という反発が返ってくるかもしれません。

そうではありません。問題は、近代か前近代か、あるいは西洋か日本か、といった単純な選択の問題ではない。近年の拙著の中では、かならず「レンマ的論理」を取り上げて、内容を紹介しています。それをご存じの方なら、ロゴスと対極にあるレンマの立場を私が強調する狙いは、二つの選択肢のいずれかが正しく、他は間違っている、といった式の二者択一を超え、二者の〈あいだ〉を開くことにある、ということがたぶんおわかりでしょう。そうです。要は、資本主義的生産か職人的手仕事か、の選択ではなく、技術の本質にどちらの可能性も含まれていることを認識したうえで、両方をどう折り合わせるかが問題なのです。

現代のハイテク文明に、〈かたちの論理〉をどう噛み合わせるかが、前回に続く今回および次回のテーマです。しかし、それは生易しい問題ではない。そこで、本格的な議論に入る前に、現在のテクノロジーにどういう問題点が潜んでいるのかについて、診断を試みたいと思います。それは、どこがどう病んでいるのかを、医者が慎重に見極めることなしには、適切な治療方針が立てられない、というのと同じことです。

 

ハイテク社会の現実

ロボットをはじめ、AI、VR、AR、5G等々、先端技術を表す略号が、日々、新聞・雑誌の紙面を飛び交っています。IT、ICTと略記されるような情報関連技術が目覚ましい発展を遂げ、これまで人力が中心だった「ものづくり」やケアの現場では、人間にロボットが取って代わろうとする勢いを示しています。現在の最先端技術の特徴は、どこにあるのでしょうか。それは、昔の技術のごとく、人間の手から生まれ、手の延長として人間に役立てられる道具、というような副次的・補助的性格にとどまるものではありません。技術の専門家でない者が、こう言ってよいかどうか――今日のテクノロジーは、人間によって支配、コントロールされる手段的なものではなく、人間から離れて自立した領域、一種の「帝国」とも呼ぶべき怪物に成り上がっている、というのが私の受ける印象です。これに対する声として、そうではない、どれだけ高度に発達したテクノロジーであっても、人間の手から生まれた技術なのだから、人間による制御は可能である、と。こちらとしては、そういう反論を期待するのですが、はたしてそういう声がすぐに返ってくるでしょうか。

17世紀の哲学者ホッブズは、巨大な権力が国王に集中する国家、当時の絶対君主制を、「リヴァイアサン」と呼びました。もしもハイテク文明が、人々の力でコントロールできない巨大な「帝国」を意味するとすれば、それこそが現代のリヴァイアサンにほかならない、と私は考えます。

このエッセイに取りかかったその日、たまたま目にした新聞記事に、「AI、人間の敵ではない」(『日本経済新聞』連載中のコラム「経済教室」、執筆者は鶴 光太郎慶大教授、1月20日朝刊)があります。論説の趣旨は、「人工知能(AI)が人間の雇用を奪う」とする悲観論――「テクノ・ペシミズム」――に対して、実証的分析のデータを挙げながら、そういう恐れはないと反論するものです。

その論説の中では、悲観論の基になる研究として、「今後20年間で米国の労働の47%がコンピューター(AI=機械学習と移動ロボット)化され、代替される可能性が高い、という分析」(英オックスフォード大学カール・フレイ氏らの研究)が取り上げられ、その試算に問題が多い、という反証が行われています。かなり専門的な細かい議論を、逐一紹介するわけにはいきませんが、論説全体を支配する調子、空気――というと、あいまいな話のようで恐縮ですが、私に関心があるのは、現在の社会を覆う「空気」の方です――を、かいつまんでお伝えすることにします。「新たな技術の影響を考える際、AIとロボットを同じように考えるのは適切ではない」という一言から、現在の社会を支配する空気が読みとれます。人々にとってのAIとは、ロボットと同義であり、AIを搭載したロボットが、人間の役割を代行するようになれば、これまで人間が占めていた職場から人間が追い出され、不用になるという不安が、世の中に広がっているということです。AIないしロボットが、人間から雇用を奪うという予想が、AIを人間の敵だとする見方を生み出している。このことを、事実として認めないわけにはゆきません。

論者は、「AIを人間に限りなく近づくロボットと考えてしまうと、雇用代替への懸念は果てしなく大きくなってしまう」として、上の見方に一定の理解を示しながらも、二つの点で、悲観論を斥けようとします。一つは、AIの本質は「予測」であって、「予測」の能力にかぎれば、人間の労働と補完的な関係をつくれる可能性があるということ。もう一つは、ロボット利用が単純に雇用喪失に結びつくわけではなく、むしろ企業によっては雇用増大につながるケースも存在する、という事実です。

この見解から窺われるのは、ロボットが利用される職種、業務によって、人間と機械の共存の仕方は、さまざまに異なるということです。ロボット化を推進する企業ほど、機械と連携して働く人間の役割も明確化され、新たな雇用の可能性が生じてくる、そういった例があると考えられます。単純な悲観論に水を差すという意味で、私は論者の意見に賛同します。とはいえ、このような論調が、社会の底に流れるペシミズムそのものを払拭するわけではありません。ハイテク社会の進行に対して、後ろ向きになるなかれ、というメッセージは、それ自体、それに伴う悲観的な空気を予防するためのハドメとして、「企業の論理」を強化するものです。現在の社会を支配する、たがいに対照的な悲観と楽観、これらが何を意味するかをよく考える必要があります。

 

専門家と市民

 ご紹介した『日経』の論説は、アメリカ社会において、いついつまでにどれだけの雇用が奪われるだろう、という具体的な数字を挙げての学問的予測に対して、現状でそういう恐れはないという、これまた具体的な反証例を挙げて、過度の「テクノ・ペシミズム」に陥ることがないよう、釘を刺すといった趣旨の内容です。この文章から判るのは、①世の中には、AIやAIを搭載したロボットが、いずれ人間の労働を不要のものとする、すなわち雇用を奪う社会になる、という技術不信の悲観論、および②そうした不安に駆られるよりも、人間が機械と共存(共生)する道があることを信じて、前向きに生きようとする技術肯定の楽観論、この二つが現在の社会に併存するという事実です。

いかがでしょうか。ご自分はどちらの派に与するとお考えになるかを、読者お一人ずつに伺いたい気がします。私の立場を申し上げます。私の現状認識は、①。ハイテク文明の将来に対して、期待よりも不安、恐怖の方が大きい悲観論者です。ですが、もし②へと立場を変えることができるなら、そういう方向をめざしたい。そういう思いがあることは、世の悲観論者と多分に共通するのではないか、という気がします。①から②に転じることが、はたして可能なのか。それを考えるために、まず私がハイテク化の現状をどう見ているのかを、くわしく申し上げる必要があります。

私が、現在のハイテク社会に対して抱く懸念、というよりも恐怖に近い感情は、技術にかかわる専門家とそれを利用する関係者が、技術の覇権を握る一方、それ以外の人々が、テクノロジーの権力から完全に疎外されている、という現実から生じています。もっと正確に言うなら、それは、自身が技術のゆくえについて何ら意思表示をすることができずに、ただその「成果」とされるものを一方的に押し付けられ、受け容れさせられるだけの現実です。先月のエッセイで槍玉に上げた「欲望の全体主義」、それを物語る「一億総スマホ」――あえてドギツクそう命名させていただきますが――の例は、まさしく「テクノ・ファシズム」以外の何ものでもない、と私には思われます。

いくらなんでも、そりゃ言いすぎだよ、たかがスマホ一つのことで…、と言い返されるかもしれません。機械オンチの私ゆえ、自分より進んだ他人をひがんで、ケチをつけている。自身、そう思いたいのは山々なれど、そうではなく、小さなスマホの例は、人類にとって未曽有の危機、それが克服できなければ、滅亡するほかないと思われるような、深刻な危機を暗示する象徴である、と私は認識しています。そういう危機感の所在を、さらに立ち入って明らかにしなければなりません。

私が問題にしたいのは、テクノロジーにかかわる専門家と一般市民の間に拡がる、巨大なギャップです。近代文明において、高度の知識・技術を追求する専門家と、もっぱらその恩恵を享受する市民が、たがいに切り離され、それぞれの世界が別のものとして区別されました。そのことが、近代文明の発達を保障したのです。先月お話ししたような「頭」と「手」、理論と実践の区別に関係づけるなら、社会の中で「頭」(理論)を担当する専門技術者と、「手」(実践)にかかわる一般人の階層が分けられ、混じり合うことがなくなった、ということです。二つの階層を分断してしまえば、一方から他方に向けて有効な働きかけを行うことは難しくなる。専門家のすることに、素人が注文を付けるといったことは、越権行為だとして退けられる。その結果として、暴走にもつながりかねない技術の一人歩きを、誰も止められないといった状況が生まれてきます。

いま申し上げたことの具体例には、事欠きません。「悪魔の仕業」と言いたい、核兵器の開発などは、事前に外部からのコントロールが効かない科学者(技術者)の実験室で、秘密裡に行われ、その利用に目を付けた国家権力との提携によって、陽の目を見たものです。その種の実例なら、いくらでも挙げられるでしょう。ですが、そうした過去の事例と、現在私たちを取り巻く環境には、重大な違いがあります。それは、過去に行われた技術開発には、それを知った社会から、「ノー」を突きつけることのできる余地が、いくらかあったのに対して、現在の最先端技術に対しては、もはや誰も「ノー」を叫ぶことがないし、できない、という現実があるということです。

 

「ノー」が言えない社会

 私のハイテク文明批判は、この見出しに尽きます。もっとも単純な例として取り上げたスマホの普及どころか、5Gの到来――1.28付『日経』2面には、何と!「『6G』はや主導権争い」の文字が躍っています――など、情報関連技術だけをとっても、「日進月歩」の言い回しが色褪せるような猛スピードで、技術開発が進められています。誰もそれを止められない。というより、何が何だかわからないまま、黙って見過ごす以外にないというのが、実情ではないでしょうか。

 問題は、「わからない」という点ではありません。専門家以外の素人は、専門技術者が開発中の技術について、わからないから拒否する、という選択肢がなく、わからないものは黙って受け容れるしかない、という状況に置かれている点に、問題の急所があるのです。少し違った言い方をさせていただくなら、一般市民の後追いを許さないような技術の急成長、ハイテクの独走を批判するためのチェック機関や主体が、どこにも確保されないような世界に、私たちは生きています。さらに別の比喩を用いるなら、西洋中世の「ハーメルンの笛吹き」が、町中の子どもたちを連れ去ったように、どこともゆくえの知れない先へ私たちを連れ去ろうとしているのが、ハイテク文明の現状だ、と私は考えます。ただし、誤解のないように――この喩えで言う「笛吹き」は、今日たぶん実在しません。ハイテクの仕掛人たち自身、どこへ人々を連れて行くつもりかを自覚しているわけではない。事態は、それだけ深刻だとも言えます。大げさな言いようかもしれませんが、私はそれを「人類絶滅への道」と受けとめているわけです。

 「テクノ・ファシズム」に続いて、「人類絶滅」とは、なんとまた大仰な!そうです。こちらとしては、そういう反発を予期しながら、申し上げていることを白状します。このままいけば、人類は絶滅します、間違いなく。その理由は、人間が生きのびるために不可欠な叡智を手放す方向に、現代文明が進んでおり、その流れに待ったをかける手段が見当たらない、という現状にあります。ここで「叡智」というのは、文明が進むべき方向を見とおし、その方向に潜む危険を見抜いて、しかるべく手を打つ、そういう意味の予知能力のことだとお考えください。

その種の予知能力がはたらかないというのは、最初から叡智がないということではありません。「叡智」というのは、それを発揮することが求められる状況になれば、おのずからはたらくものだと私は思います。現に人類の歴史には、そうした叡智をしばしば発揮して、目前の危機を乗り越えてきた実績があります。すぐに思い出されるのは、第二次世界大戦後の東西冷戦のさなかに発生した核戦争の危機と、それが回避された例――米ソ開戦の一歩手前まで行った「キューバ危機」が有名ですが、他にもあります。これなどは、それを「叡智」とまで評するのはともかく、それがかつてあったことの名残り、とまでぐらいは言えるでしょう。

ところで、そうした過去の事例と現在のハイテク文明のあいだには、明確な違いがあります。「キューバ危機」の場合には、これがギリギリの選択だと言えるクリティカル・ポイントを、当事者が意識できました。これに対して、技術の「進歩」には、ここで生死が分かれる、といった意味の「危機」が存在しない、もしくは――存在するとしても――それを「危機」として意識できない、という違いがあります。

先ほどのAIの例に戻りましょう。AIが、人間の頭脳労働を補助し、仕事の効率を確実に上げるという点に対して、さしあたりだれも反対しないし、反対できません。ですが、その性能が向上して、人間の思考に丸々取って代わる進化の段階に到達した現在、前述のような「テクノ・ペシミズム」が浮上してきたとするなら、そういう技術的進歩を見渡して、どこで「ノー」を叫べばよかったのでしょうか。世に多い悲観論者が、技術開発をここでストップせよ、と叫ぶことのできる地点というものは、見つかりません。いったんレールの上を走り出したら、止まらない列車のように、技術の開発は制御できる地点をもちません。ここで止めれば、危機が避けられるとして、ストップをかけることができるような、叡智の出番がどこにもない。それが、現在の技術文明の姿ではないでしょうか。

 

ハイテクと人間の共存?

 ここまでの議論に対して、真っ向から反論が出ることも予想されます。テクノロジーの発達に、いったい何の問題があるのか、と。AI、ロボット工学、AR、VR、その他の先端技術は、人間社会にかつてなかった豊かな成果をこれまでもたらしてきたし、これからもさらに生み出すであろう。たとえ、その発達のスピードが予想を超えるとしても、ハイテクと人間とは不調和を生じる関係ではなく、共存できるはずではないか、というように。これは、先端技術を開発する技術者、研究開発の成果を収益に結びつけたい企業、ハイテク社会の経済効果に期待する経済学者――先ほど紹介したコラムの論者も、たぶんこれに含まれるでしょう――であれば、当然提起すると予想される反論です。これを先に挙げた悲観論(テクノ・ペシミズム)に対抗する楽観論(テクノ・オプティミズム)と呼ぶことにします。

 「ハイテクと人間は共存できる」――この命題は、環境問題についての政府見解が、毎年のように謳う「経済と環境の両立」というスローガンと、非常によく似ています。まず、後の方を取り上げましょう。

経済成長と環境保全は、元来トレード・オフ、つまり一方を立てれば他方が引っ込む、といった両立困難なテーマと考えられてきました。私は、関西大学で長らく担当してきた「環境の倫理」という講義の中で、毎年のように「環境と経済 両立」という見出しを掲げる『日経』の記事をコピーして配り、その欺瞞性を批判してきました(例えば、2018年12月8日には、「経済成長と温暖化対策を両立」という見出しの下に、環境大臣と識者による寄稿が載せられています。おもしろいのは、当の見出しが、環境と経済の「両立」と書くだけで、「両立する」――まさか「両立しない」ではないでしょうが――と最後まで言い切らない、その中途半端であいまいな表現です。その理由を推測するなら、「両立する」と断定的に言い切った場合には、命題の正しさについての挙証責任が生じてきます。開発による経済成長が、数々の環境破壊を引き起こしてきた過去の事実を振り返るかぎり、「環境と経済成長は両立する」などという肯定形で、主張を立てることができるはずもない。ですが、「両立」と書くことの狙いは、実際に両立する、しない、の問題を棚に上げて、あたかも両立するとみなすのが当然、と言わんばかりのムードを醸し出すことにあります。そのホンネは、「両立させたい」もしくは「両立すると信じたい」だけのこと。要するに、「希望的観測」にすぎません。これが、経済成長至上主義をとる政府と御用学者の常に用いる手口です。

 さりながら、希望的観測とはいえ、それを口にすることができるだけの情勢変化が生じていることは、事実として認めなければなりません。アメリカ合衆国で、オバマ前政権が発足したばかりの2009年1月、環境ビジネスの推進によって雇用を拡大する、という趣旨の「グリーン・ニューディール政策」がうちだされました。これによって、「環境か経済か」のトレード・オフに代わる、「環境も経済も」の両立路線が動き出しました。環境対策の推進が、雇用の増大と企業利益を生み出す、というエコビジネスの主張。それがもし真実なら、こんないいことはない、だれもが飛びつく話だと思われるでしょう。現にその当時の各国政府は、オバマの流儀に倣った「グリーン・ニューディール」各国版を、競うようにして発表したものです。

日本政府もご多分に漏れず、2009年(平成21年)7月、政府広報として『低炭素社会づくり』(保存版)を発表し、国民に向けた啓発活動を展開しました。私は、それを歴史的資料として、いまも手元に残しています。その内容は、――当時をご記憶でしょうか――グリーン家電・エコポイント、エコカー減税・補助金などという、景気回復を実現したい企業にはおあつらえ向きの、消費キャンペーンそのものです。要するに、国民にエコ商品を買わせ、企業をもうけさせよう、という音頭取りを政府が主導した。それだけのものに過ぎません。国内外いずれであれ、本気で環境問題に取り組もうとする主体が、当時はたしてどれだけいたのでしょうか。

 本題の「ハイテクと人間の共存」というテーマに戻りましょう。私には、イノベーションが人間生活にマイナスではなく、プラスを生むという楽観論は、「環境と経済の両立」同様、立証困難な命題、一種の〈信仰〉でしかないと思います。今回取り上げた『日経』の論説も、楽観論の正しさというより、現時点において悲観論が妥当しない反証例を示したにすぎず、別に楽観論の正しさを証明したわけではありません。ハイテクのゆくえは、人間の手でコントロールできず、どこまで突き進むのかが、誰にもわからない――脳天気な未来予想の類は、さておくとして。その状況は、本当に環境と経済が両立するのか否かを不問に付したまま、企業がエコビジネスに乗り出した、11年前の状況に似ています。人間とハイテクが共存するということは、理論的に証明できない。あるのはただ、共存させたい、共存してほしい、という願望のみ。だとすれば、地球温暖化の事実はない、と断定する一部の「科学者」と同様、技術についてもバラ色の未来予想を信じるに如くはない、ということになる。これは、ほとんど宗教の世界です。

 

〈型〉の回復へ

 技術が人間の制御できる範囲を超え、モンスターのごとく自己肥大化していく状況に、私たちは直面しています。この状況に待ったをかけ、望ましい方向への転換を図る方策は、考えられないものでしょうか。いや、そもそも「望ましい方向」というものがあるのか、それが問題です。いったい技術が、どのようであればよいと言えるのか。そういう技術の〈原点〉を考えなければなりません。本シリーズの主題とする〈かたちの論理〉を、そのような根本的検討に値する一つの選択肢として提供したい、というのが私の思いです。立ち入った検討は、次回に先送りすることとして、今回は、なぜそれが有効と考えられるのかに限定して、若干の考察を試みたいと思います。

 これまでに説明した〈かたちの論理〉の急所は、〈かた〉と〈かたち〉の相互作用、という点にあります。要点を再確認しましょう。〈かた〉とは、何かを技術的に達成しようとする際のモデル。手本、規則、型式、などと呼ばれるものです。制作の過程において、そういう〈かた〉を意識してなぞり、模倣することから、一定の〈かたち〉が生み出される。この場合、〈かた〉は、師匠や親方のように生身の人物である場合を除くと、抽象的で観念的なモデル・図式であるのが、ふつうです。これに対して、〈かたち〉は〈かた〉を意識する主体の実践によって生まれる結果ですから、必ず制作主体の個性を帯びています。つまり、〈かたち〉のありようは、人格的でパーソナルだ、ということになります。パーソナルな実践の反復によって、〈かたち〉は次第に〈かた〉に近づいていく。実践の最初の目標は、〈かたち〉が〈かた〉の水準に達すること。しかし、個性的な〈かたち〉を、お手本となった〈かた〉と文字どおりに一致させることは、はなはだ難しい。それが、近似値的に元の〈かた〉にほぼ相当する意義をもつ、と認められた時点が、武道・芸道の修業で言う「免許皆伝」に当たります。

しかし、修業は一定の〈かた〉の習得で終わるのではなく、新たな〈かた〉の創出をめざす次のステップに移行する、というのが日本の伝統的な〈型の文化〉である。このことも、前に説明しました。要するに、〈かた〉から〈かたち〉が生み出されるとともに、〈かたち〉の反復実践から〈かた〉が生まれ、そこからさらに新たな〈かたち〉が生み出され…というように、エンドレスに相互移行の動きを生じるのが、〈かた〉と〈かたち〉の関係です。〈かたち〉に関係する〈かた〉も、固定的・絶対的ではなく、〈かたち〉をつうじて変化するわけですから、〈かたち〉との関係を離れることはありません。この関係がつづくかぎり、いついかなる地点においても、技術が人間から遊離して独り歩きすることは起こりません。手仕事のような職人仕事に関して、人間のコントロールできない技術が独り歩きする事態が起こらないのと、事情は同じです。

ハイテクの特徴、というより問題点を、私は人間による制御が不可能であるという点に見出しました。この認識から、技術文明のどの局面に〈かたちの論理〉を適用すべきなのか、という新たな課題が浮かび上がってきます。この問題を引きつづいて考えましょう。今月のお話は、これまでとします。(つづく)

コメント

    • masa1951
    • 2020年 2月 28日
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    1、人類絶滅
    「このまま行けば人類は絶滅します。理由は人類生存に不可欠な叡智を手放そうとしているから。」と述べられています。
    ①私は人類絶滅の直接原因は大陸・気候の変動、資源・エネルギーの枯渇、疫病・戦争等の物理的な「環境変化」で、それを加速するのが「人口増大」だと思います。
    ②しかし、「生存に不可欠な叡智」を「適応能力」と言い換えれば、そう言えるかもしれません。
    2、ハイテクと人間の共存
    (1) ハイテク進化も「環境変化」の一つであり「強い者が生き延びたのではない、変化に適応したものが生き延びた。」の「自然淘汰の原則」が適用されると思います。
     ①経済においてロボット・AIの導入は生産手段の「自動化」に過ぎません。
     ②イギリスで産業革命が起きた時、職人達によるラッダイト運動が起きましたが逆に雇用は爆発的に増加しました。
     ③マクロベースでみると「生産量=消費量」であり、生産が自動化されても生産量・コストが変化するだけで、生産物を消費する人類は不可欠です。
     ④消滅する産業・仕事は推測されても、新規に誕生する産業は予測されません。
      産業革命時に農業以外の産業は繊維産業ぐらいしかありませんでした、いま日本の繊維産業の規模2兆円はアニメの市場規模に過ぎません。
     ⑤ただし、労働時間は大きく削減され、「仕事をする」と言うことは趣味や特権になるかもしれません。
    (2) 「AIの本質は「予測」で予測能力に限れば、人間の労働と補完的な関係を作れそうだ。」と述べられています。
     AIの本質は「予測」ではなく「分析」であり、与えられたデータを分析して可能性を算出しているに過ぎません。データーが(正しく)無ければ、若しくは算出方法が不適切ならば正確な答えは出ません。
    (3) 「今日のテクノロジーは人間によって支配、コントロールされる手段的な物ではなく、人間から離れて自立した領域、一種の「帝国」とも呼ぶべき怪物に成り上がっている」と述べられています。
     ①いま人類が作ろうとしているのは「帝国」ではなく「神」ではないのでしょうか?
      昔、コンピュータはデータを分析して仮説としての「因果関係」を導き出しました。 ですから、人類はそれを検証・修正する事が出来ました。
      今、AIは「ビッグデータ」を分析して「相関関係」を提示しています。「相関関係」は単なる統計結果であり、理屈は全て後付けです。
      人類は神であるAIの御宣託に対し検証・修正する事が出来ず、ただ憶測するのみです。
     ②GAFAや国家の情報独占に対して批判が高まっているのは企業・国家によるデータの恣意的な利用を危惧しているからだと思います。
      もし、絶対的で公平無私な神(AI)が人類を導くのであれば、それこそが「将来に亘って地球上の全生物にとって」望ましい事かもしれません。
      でも、それが「現在の人類にとって」幸福なのかは判りません。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 24日
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    「1」「2」に分けて、たくさんの論点を挙げられています。その一々にコメントすることはできません。「2-(2)」で、AIの本質が「予測」ではなく、「分析」だと主張されていますが、引用して批判されているのは、私の考えではなく、日経のコラム担当者(慶大鶴教授)の説です。慎重に読んでください。そのうえで申しますが、AIによる「予測」が、大量のデータ「分析」から生じるということは、中学生でもわかる理屈です。
    2-(3):ハイテクの支配を、「帝国」というより「神」とすべしとのお説。別にかまいませんが、「神」に祀り上げるということは、もはや人間の介入を許さない聖域を認める、ということです(「帝国」なら、まだそれをつくり変える可能性がある)。そういう運命論でよろしければ、私が〈かたちの論理〉を説く必要もないわけです。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 12日
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    「①世の中には、AIやAIを搭載したロボットが、いずれ人間の労働を不要のものとする、すなわち雇用を奪う社会になる、という技術不信の悲観論、および②そうした不安に駆られるよりも、人間が機械と共存(共生)する道があることを信じて、前向きに生きようとする技術肯定の楽観論」

    私個人の馬鹿な夢想を申せば、①になったらいいのにと思うんですがね(笑)
    働かなくても生きていける!サイコーです!もちろん働きたい時は働けばいい!それで生き死にが決まらないなら安心です。
    私はAIが人類の職を奪うという議論に、一部その通りだと思いつつ、悲観し過ぎても楽観し過ぎてもいけないと感じてます。
    ずっとこの手の議論はされてきたからです。機織り職人もいなくなれば、馭者も電話交換手もいなくなりました。でも結局なんか仕事作っちゃうのが人間です。
    ある程度はAIに代替されるでしょうけど、別の何かを人間が担うのだろうと思っています。

    では②なのか。まあ今ある技術を捨て去ることはできそうにないので、前向きに生きていくしかないのはそうですけど、能天気でも困りますね。
    私は技術開発を止めることは物理的にインフラなり専門家集団なりを殲滅する以外に無理だと思っています。技術をほどほどに止める叡智をこれまでも人間は持たなかったし、これからも持つことはないでしょう。もし過去の人類がそのような叡智を持っていたのだとすれば、現代のような状況には至っていないはずですから。
    木岡先生のような個々人の中にはそのような叡智を持つに至るのかもしれませんが、人類全体が持つとは思えません。
    とはいえ一部の人間が持つだけで、多少はスピードを緩めるくらいのことはできるかもしれませんね。

    このままだと人類滅亡というのは徐々にリアルな感じになってきてますね(もちろんいつか必ず滅びます。あと我々が宇宙人に合わないのも、仮に高度な文明を擁した宇宙人がいたとしても、それぞれの文明の寿命が宇宙の時間に対して短すぎて、リアルタイムに重なり合うことがないからと言われています。そりゃそうだわ)気候変動による今後の予測もシビアになりつつあります。
    一気に滅亡までには至らずとも、今の文明は維持できないかもしれない。文明が維持できるのは、とにかく全員一律に教育し、テストでふるいにかけて、生き残った奴らに専門教育をし、これまでの技術を継承させ、次につないでもらっているからですね。私は微積分がよくわからないですけど、誰かが分かってくれていて継承されていくからなんとかなっている。実際スマホがどんなメカニズムで動いているかを理解している人はほとんどいないでしょう。教育システムが数十年ダメになったら維持できないくらい今の技術は複雑です。そのインフラを、今後の気候変動による環境下でも維持できるのか。今回は大丈夫でも次の危機では大丈夫か?確実なことは言えないですね。

    文明が滅んでも、部族社会的な生き方は変わらず続けて行けそうなので(気候変動があまりに急過ぎたらそれでも厳しいですが。)、人類は種としては図太くやっていけるかもしれません。実際、そういう予感もあって、文明社会を知りつつも部族社会を続けている部族があってもおかしくないですね。「所詮お前らの文明なんて数百年の歴史だろ?俺たちはこれを1万年近くやってんだぜ。どっちが生き残る蓋然性が高いかは明らかだろ」と。その部族社会が何千年か後に再び文明を築いて同じ轍を踏むかもしれませんが。(人類最大の環境破壊は農耕なので可能性は大ですね)

    しかし部族社会では75億は維持できそうにないですね。そもそも今ある部族社会も我々の社会よりもかなり自然淘汰の激しい環境です。部族社会=原始的=愚かと単純に思っている人も多いかもしれませんが、基本的に彼らの平均的な身体能力、知能は私たちのそれより上でしょう。でないとそもそも死にますから。
    そういう社会は、私自身はしんどいので、職業倫理にも反しそうなので(優生思想の自然状態ですからね)、ちょっと遠慮したいです。

    とは言え、彼ら部族社会に生きるものが、有り合わせのもので、必要な生活品を拵えたりでき、身の回りの動植物の生態を理解し暗記しているのを見ると、私たちって一体なんなのか…なんかアプリのアップデートの通知が来たから、馬鹿正直にスマホをタップしてアップデートをする。エラー表示でストップしたら、そっか…と固まるしかなく。自力で火も起こせないし、家がなくなったから、とりあえず有り合わせで作るとかできそうにない…技術の進歩のおかげで私たち一人一人はおそろしく愚かになっている。もちろん全員に教育の機会は開かれているんだけれども。AIのご託宣というmasa1951さんのコメントも、今の現代人の心象を言い当てているのかもしれない。そんなすごいAIは作れなくても、ものすごく個々人は馬鹿になっている気がするので(昔から実はそうだったかもしれませんが。)

    環境対策については、今回のコロナ騒動を見て、意外と経済を犠牲にできるじゃんとは思いましたね。
    欺瞞だろうがなんだろうが、もう少し日本は真面目に取り組んだら?と思います。
    経済と環境の両立は立証不能というより、実践していくしかないって感じですね。経済成長が絶対必要かは分かりませんが(ゼロ成長、人口縮小に応じてちょっとずつ縮小といったところでしょうか)、今の経済を削るのはそれなりに人死が出るので、なかなか簡単には決断ができないです。
    そもそもそういう決断をえいやとやって生き残るやつは今の段階でも強者ですし。かつての戦争のように、全てが破壊され、みんなが平等に貧乏になったら、あの高度成長の夢を再現できるのでしょうが。

    さて次回以降、〈かたちの論理〉がこの無尽蔵なハイテク化をどう制御することになるのか。

    最後に夢見たいなことを言うなら、人類が滅んでも、人類が考えてきたことを引き取って考えてくれるオートマトン(自動人形)の社会ができるのだとしたら(ファンタジーですけど)、私は全然それでもいいですよ。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 5月 14日
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     長文のコメントをありがたく存じます。
     私よりずっと若い世代に、楽観論とも悲観論ともつかない、達観したようなスタンスで、テクノロジーと人類の今後を見渡している人がいるんだな、という印象を受けました。ペシミズムとオプティミズムの〈あいだ〉を生きる、という感じですね――二元論を批判するこちらの方が、攻撃的である分、二元論により近いことを思い知らされました。
     昨年5月、本文で名を挙げたホイ・ユク(許 煜)に、ソウルで初対面した折に質問しました。Cosmotechnics(「宇宙技芸」という拙い訳に代わる語を思いつきません)を提唱する彼に、技術の将来に対して、どうしてそんなに楽観的になれるのか、と。彼の返答は、自分もペシミストだが、将来にわたって生きる世代としての責任がある、というものでした。貴方のようにさらりと、「人類は必ず滅亡する」と言い放つことはできない事情が、彼にはあるのでしょう。ちなみに年齢を訊いた私に、「秘密!」と返しました。外見上は、貴方と同年代――おいくつか存じ上げませんが――ぐらいに見うけられます。
     技術開発を止めることはできないという書き方で、貴方がテクノロジーを手放しで容認している感があるのに対して、ホイは自分なりの技術の論理を確立して、テクノロジーを制御しようとしている。そこに、貴方との違いが見えます。しかし、一つ不満を挙げるなら、近代社会に巣食う〈欲望の論理〉を摘出して、それと対決するまでに至っていない。西洋哲学オンリーの感がある彼の参考文献に、非西洋の叡智が取り込まれたなら、その思想が大きく展開するだろう、と私は見ています。九鬼周造『偶然性の問題』――中国語の翻訳が出たとのこと――も、昨夏に読んでいるようです。期待したいと思います。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 14日
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    もし見てる方がいれば補足ですが
    ホイ・ユクは各地域それぞれの技術が一旦は西洋の技術に収斂して今に至るが、その後は再び拡散するのではないかみたいな発想をしていますよね。
    彼の「宇宙技芸」もspaceの宇宙ではなく、cosmology(宇宙論、宇宙観)と言った意味での宇宙ですね。
    各地域、あるいは木岡先生の言葉で言えば「風土」によって我々が世界をどのように認識しているのかは異なるので、それに応じて技術も異なるわけです。
    例えば、中国や日本では陰陽五行思想と仏教の仏性(みんなの体の中に仏が宿っている)の考え方に影響を受けて、漢方などの東洋医学が出来上がっている。
    しかもそれは現代人が思うような全く荒唐無稽なオカルトではなくて、彼らなりに自然や人体を見て、理解した上での技術であり、地に足はついている面はあるので、それなりに効くんです。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 19日
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    1、手仕事について「人間らしさ」とか「暖かさ」が挙げられる事が多い様です。
      しかし、手仕事をあけすけに言えば「製品のバラツキ・精度の低さ」と言えるのではないでしょうか?
      娘の着物を購入時、かぐや姫の目が滲んでいるのに気付きクレームを付けましたが、作品の「味」であると聞き入れて貰えませんでした。
      京都の桂にある繊維製品の検査機関に持ち込んで「泣き」であるとの証明を取り、修正させる事が出来ました。
      確かに一定水準までは味・個性・風味と言う事も可能でしょうが、線引きが難しい処です。
    2、型と形
      「かたち」とは「物理的な身体の動き」で、選択された「かたち」の集合体が何らかの「効果」や「表現」を持つレベルになったものが「かた」なのでしょうか?

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 19日
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    1.精度の低さに人間性を感じるということではないでしょうか?
    なんでも精確で緻密な人を、私たちは「ロボットみたい」と形容したりします。
    まあ、kibaさんが挙げられた例のように、それが言い訳になってしまうこともあるとは思います。
    あと私たちが手仕事に「人間らしさ」や「暖かさ」を感じるようになったのは、当然ですが大量生産のおかげです。それ以前は手仕事が普通でしたから。
    大量生産に対し、手仕事は作れる量が限られるので希少価値が高いし、特定の誰かにむけて作っているイメージを持てやすいので、ありがたみを感じやすいのです。

    2.あえてハイテクで例を挙げれば
    ケータイは最初の頃はP H Sみたいなのが主流でしたね。(肩にかけてたやつは置いといて)
    いろんなタイプのPHSがあったと思いますが、どれも基本は細長い本体の上半分が画面で、下がボタンで、上部にアンテナが飛び出てる型をしてました。
    この型を基に様々な形のPHSが売られてたと思います。
    そうした型に基づいた形が作られているうちに、なんか折り畳み式のが作られるようになり、そのうちPHSという型が破られ、ケータイは折りたたみ式が型になった。今、ガラケーとか呼ばれているやつです。今度はその型に基づいて様々はガラケーの形が作られる。
    その後、今度は四角い本体の全部が画面で、ボタンも画面上のをタップするタイプのケータイが登場すると、再び型が破られ、新たな型ができる。スマートフォンですね。(今までのケータイ電話とは次元が違う気もしますが。あれはもう、より小型のパソコンですからね)
    形が具体なら、型はそれを抽象したものだと理解しています。最初は試行錯誤で形を作るけど、ある程度形が定まってくると抽象的な型となり、今度は型を基に形を作ることができるようになります。ただその形は抽象化された型とそっくりそのままなわけではなく、そうしたずれの積み重ねが次の型破りにつながるのでしょう。そうしたずれは、身体の具体的な動きによってもたらされるというのが木岡先生の議論ではなかったかと思います。
    ケータイ電話も私たちがケータイを操作する具体的な動きをフィードバックさせて、試行錯誤することで、今のタッチパネル式のケータイが開発されたと言えなくもありません。少なくともi Phone作った奴らは意識的だったと思います。
    今の幼児達は画面は触って動かせる物だと思い込んでいるので、すごい影響力です。(私もたまにこれタッチパネル?って勘違いして触って、恥ずかしい思いをすることがあります)

    • kiba1951
    • 2020年 5月 20日
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    1、手仕事生産時の工場生産品、工場生産時の手仕事生産品。
     何れの時も機能とは別の価値(希少性等)の付加や評価基準の追加・変更がなされるという事でしょうか。
    2、分り易い説明、有難うございます。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 20日
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    1.機能だけが価値ではないのは当然のことですね。そして機能そのものの価値も変化していくものでしょう。

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